美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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実業家となった渋沢栄一の家系図と子孫達の活躍

投稿日:2021年9月30日 更新日:

 明治になって日本を代表する実業家となった渋沢栄一は、最初の妻・尾高千代がコレラに罹って亡くなったのが明治15年(1882年)、後妻は伊藤兼子で明治16年(1883年)で、二人の間に七人の子に恵まれ多くの子孫を残しました。

 

 

その子孫たちは渋沢の遺志を受け継ぎ、様々な事業で活躍して、功績を残しました。

今回は渋沢栄一の家系図と共に、今の日本人に影響を与え続けている子孫を紹介します。

 

 

余談ですが
栄一は、生涯で複数人の愛人と関係を持っていて、先妻・千代と後妻・兼子の七人の嫡子以外にも、愛人との間に数人の庶子がいることが分かっています。

 

自宅に妻と愛人を同居させ、別宅にも愛人を住まわせるといった派手な過去もあったと言われています。

 

 

 

渋沢栄一の妻と子供たち

安政3年(1856年)16歳の時、父に代わり武蔵国・岡部藩の藩庁である岡部陣屋に呼ばれ、御用金を課せられ。

 

その時、理不尽な要求を命じる代官の傲慢な態度に疑問を抱いた栄一は、その場で即答せずに反抗した時から、尊皇攘夷思想に傾倒していた頃。

 

 

安政5年(1858年)に、18歳で学問の師である従兄・尾高惇忠の妹・千代と結婚。

 

 

先妻・渋沢千代との間に

文久3年(1863年)に長女・歌子、明治3年(1870年)に次女・琴子誕生、明治5年(1872年)に長男・篤二誕生しています。

 

◆長女・渋沢歌子

歌子は、日本初の法学博士で、後の枢密院※1の議長となる穂積陳重(ぶしげ)と結婚。

 

6人の子供たちに恵まれ、夫や父の事を綴った著書「穂積歌子日記」を出版する。

※1.枢密院とは、憲法の番人とも呼ばれた諮問機関。

 

 

◻️長女・歌子の長男・穂積重遠は、渋沢一族の中では珍しく、一貫して実業家ではなく法学者としての道を進んだ人物です。

学問が好きで勉強熱心な祖父・英一の血を受け継いだ孫・重遠は「日本家族法の父」と呼ばれ、最高裁判所判事を務めた。

 

 

◻️次男・穂積律之助は、「株式会社播磨造船所」現・株式会社IHIの取締役、四男の穂積真六郎は朝鮮督府官僚に就き、退官後に「京城電気株式会社」現・韓国電力公社の取締役、「朝鮮商工会議所」会頭を務めた。

 

 

◆次女・渋沢琴子

琴子は大蔵官僚で、後に大蔵大臣、東京市長を歴任した阪谷芳郎に嫁ぎ、4人の子供を儲けてします。

 

 

◆長男・渋沢篤二
渋沢一族の間では当初、長男の篤二が後継者とされていました、父・栄一の跡継ぎとして実業界に入り、「澁澤倉庫株式会社」の会長を務めていた渋沢篤二ですが、大正2年(1913年)に廃嫡※2されてしまうことに。

※2.廃嫡(はいちゃく)とは、法定の相続権を除くこと。

 

 

この廃嫡の理由は明確に分かってはいませんが、篤二が芸者と不倫問題を起こしたことや、芸術家肌だった渋沢篤二が一族を束ねる実業家には向いてないと栄一が危惧したことなどが理由として考えられています。

 

 

◻️渋沢篤二の次男・渋沢信雄は、ドイツ書を輸入する書籍商として「福本書院」を経営。

渋沢栄一が経営再建に携わった「秩父鉄道株式会社」や、栄一が初代会長の「東京製綱株式会社」で取締役を務めるなど、渋沢一族の関係会社で取締役や重役を歴任しました。

 

 

◻️渋沢篤二の三男・渋沢智雄は、兄の渋沢敬三が設立援助した「日本ワットソ統計会計機械株式会社」現・日本アイ・ビー・エム株式会社の取締役に就任した後、澁澤倉庫株式会社の常務取締役や、渋沢栄一が設立した「朝鮮興業株式会社」で取締役を歴任しています。

 

 

後妻・伊藤兼子との間に

先妻・千代が亡くなった、翌年明治16年(1883年)に二人目の伊藤兼子と再婚、幕末の豪商「伊藤八兵衛」の次女で、栄一が住み込みで丁稚奉公したことのある大店です。

次男・武之助、三男・正雄、三女・愛子、四男・秀雄の四人の」子供を授かりました。

 

 

◆次男・渋沢武之助

「石川島飛行機製作所」現・株式会社立飛ホールディングス社長をはじめ、様々な企業の取締役や監査役を歴任し、「帝国飛行協会」現・日本航空協会理事も務めています。

 

 

◆三男・渋沢正雄

第一銀行へ入社後、渋沢一族系各企業の重役を歴任。

父・渋沢栄一の死後、昭和7年(1932年)に製鉄業以外の関係会社をすべて辞任し、「日本製鐵株式会社」現・日本製鉄株式会社の副社長に就きました。

 

 

◆四男・渋沢秀雄
渋沢秀雄は欧米で住宅地開発を学び、父・渋沢栄一が起ちあげた「田園都市株式会社」現・東急グループの母体の取締役に就任。

また、絵画や俳句なぢを嗜む文化人でもあった渋沢秀雄は、「東京宝塚劇場」現・東京宝塚ビルの会長、「東宝株式会社」の取締役会長も務めていたのです。

 

 

 

跡取りになったのは渋沢篤二の長男・敬三

渋沢栄一の長男・篤二が廃嫡騒動となったため、後継者問題を抱えました。
栄一は、異母弟の間で起きる一族の家督争いを憂い、すぐさま廃嫡した長男・渋沢篤二の長男・渋沢敬三を跡取りにするよう懇願したのです。

 

 

当時、まだ18歳だった敬三は、祖父・栄一のこの切実な願いを受け入れ、後継者になることを決めました。

 

 

こうして栄一の迅速な立ち回りで、一族は骨肉の争いの危機を迎えずに済んだ。

 

 

そののち孫の渋沢敬三は、渋沢家当主として、祖父の期待に応えるように、学問と仕事を両立させながら実業家の道を歩んで行った。

 

 

大正15年(1926年)には、「第一銀行」現・みずほ銀行の取締役、澁澤倉庫株式会社の取締役を歴任した。
渋沢栄一の死後、渋沢敬三は昭和9年(1934年)11月に、「日本民族学会」を設立。

 

 

翌年に「民族学博物館」現・国立民俗学博物館を開設した。
また、太平戦争中には「日本銀行」総裁を務め、戦後は大蔵大臣に就任。

 

 

渋沢敬三は、財界人として成功を収めながら民俗学者としても功績を残し、祖父の思いを継承し、後進の育成にも励みました。

 

 

あとがき

民部大蔵両省の役人として、日本の近代化に貢献してきた渋沢栄一が、明治6年(1873年)には大蔵省(現・財務省)を辞職して、実業家として企業の創設や育成に力を入れました。

 

 

日本初の銀行をはじめ、ガスなどのライフライン、製糸業、株式取引所といった様々な業種の会社を設立。

その数は500以上にもおよび、数多くの功績を残しております。

 

その影には、内助の助けがあったと思います。

何故なら、愛人を作り本宅に同居させて、妻がどんな気持ちでいたか、渋沢栄一も計り知れない普通の男だったと思います。

 

 

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