美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

佐藤一斎 小泉元首相 岩村城

岩村城藩主邸跡地の佐藤一斎翁銅像にて小泉元総理も「言志祭」に参列して一斎を偲んだ。

投稿日:2019年5月12日 更新日:

美濃国・岩村城の藩主邸跡地で、佐藤一斎をしのぶ「言志祭」に元首相小泉純一郎も参列しました。

 

 

 平成21年(2009年)10月24日藩主邸跡地佐藤一斎翁像の前で、没後150年にあたり関係者ら約400人の出席で行われました。

 

           ▲岩村城藩主邸跡に建つ佐藤一斎翁像

 

 

小泉元首相は、在任中の国会答弁で佐藤一斎の「言志晩録60条三学の精神」

『少にして学べば   則ち壮にして 為す有り  壮にして学べば  則ち老いて衰えず  老いて学べば   則ち死して朽ちず』

 

これを、解りやすく言うと→社会に役立つ有為な人になろうとの高い志を抱いて学び続ければ、その精神は朽ちることが有りません。より良い自分を目指して生涯学び続ける人は、いつまでも人の心に残る人になります。

 

           ▲当時の「言志祭」の風景

 

『言志四録』は、佐藤一斎42歳のときから死期の近ずいた80歳過ぎまで、半生をけけて書き足され続けた箴言集である。

 

 

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『言志録』『言思後録』『言志晩録』『言志耊録』四篇

らなり、これらをまとめて『言志四録』と称してる。

 

 

 

本テキストは、一斎の思想の全体を最も生々しい形でおおう、基本文献です。

 

                           ▲佐藤一斎

 

 

人生論・学問論・政治論・運命論という性格のせいもあって『言志四録』の内容は多岐にわたる。

 

 

 

しかし「言志」というその名に違うことなく、『言志四録』は一言で言えば、佐藤一斎「志」を余すところなく表明した書である。

 

 

 

つまり一斎は、自己独立なのであった。 そして立志こそが、そのまま彼の学問(学)びであった。

 

 

 

佐藤一斎は30代半ばで林家の塾長となり、門下生に渡辺崋山・佐久間象山・安積艮斎(ごんさい)・大橋訥庵(とつあん)・中村敬宇・(政直)ら数多くの逸材が学んだという事実。

 

 

直接の門人であった彼らにおいてはもちろんのこと、一斎思想が与えた影響は、その下の世代にも広く及んだ、佐久間象山が後に吉田松陰の師となったように、志士たちの儒学的素養が(関係の直接・関節を問わず)一斎の教育にあずかるところは大きかった。

 

 

 

佐藤一斎が還暦近ずいていた頃に吉田松陰西郷隆盛が生まれた。
その頃には佐藤一斎は幕府の管轄下にある学問所の教授として、若い志士たちに比べれは明らかに保守的な立場であった。

 

 

 

ここに『言志四録』の内『言志録』『言志後録』の一部を書き出しました、自身の参考になればと思います。

後の『言志晩録』『言志耊録』は後編として記載します。

 

 

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               ▲佐藤一斎

 

 

『言志録』の抜粋

① 私欲は有る可からず 公欲は無かる    可からず 公欲無ければ則ち人を恕する能わず 私欲有れば則ち物を仁する能わず

 

「言志録221条」※自分さえよければという気持ちを捨て、人のためにとい う気持ちを持たなければなりません。

そうでなければ、相手へ思いやりや人のために働くという心も起きてはきません。

 

 

 

② 一芸の士は、皆語る可

「言語録61条」※一つのことを極めた人は、その道だけではなく、物事の  本音まで深く語ることができるものです。

 

 

 

③ 分を知り 然る後に足るを知る

「言語録42条」※まず自分をよく知ること。そうすれば、今の自分に満足 を感じることができます。

 

 

④ 着岸高ければ 則ち理を見て岐せず

「言志録88条」※高く広い視野を持てば、物事の道理が見え、大事に接し  ても決して迷うようなことはありません。

 

 

⑤ 親を賞するの辞に曰く  庭訓素有り     と子を賞するの辞に曰く  能く庭訓に従うと

「言志録114条」※親を褒める言葉として、「家庭での教育がしっかりして いるから、立派な子供が育っている」と言い、子供を褒める言葉として、「よくお父さんやお母さんのいうことを聴いて、きちんと育っている」と言います。

 

 

 

『言志後録』の抜粋

① 克己の工夫は、一呼吸の間に在り

「言志後録34条」※このままではいけない。

自分を変えたいという行動は、「よし、やるぞっ」と一瞬のうちの決意から生まれるものです。

 

 

 

② 春風を以って人に接し 秋霜を以って自ら     粛

「言志後録33条」※春風のように相手の気持ちを温かくし、元気が与えら  れるような接し方がしたいものです。

そして、いつも自分に厳しく、秋の霜のように心を引き締めて生活したいと思うものです。

 

 

 

③ 凡そ教えは外よりして入り 工夫は内より    して出

「言志後録5条抜粋」※教えは外から入ってくるものですが、工夫は自ら    が生み出すものです。

学びは、生かすためにこそあるのです。

 

 

 

 鱗介の族は  水を以て虚と為して  水の実たるを知らず

「言志後録53条」※水中の魚たちは、水が無くなるまでは、それが大事な  存在と気づかずにいます。

 

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⑤ 進歩中に退歩を忘れず 故に躓かず

「言志後録59条抜粋」※物事が順調に進んでいる時にこそ、うまくいか    なくなった時のことを考えておきましょう。

そうすれば、万一の時にもきちんと対応することができます。

 

 

 

⑥ 信を人に取れば 則ち財足らざること無し

「言志後録224条」※人からの信用を得ることができたなら、生きていく上 で物資に困るようなことはありません。

必ず誰かが助けてくれます。

 

 

 

⑦ 人は皆身の安否を  問うことを知れども  而 も心の安否を問うことを知らず

「言志後録98条抜粋」
※人は、体の健康にはずいぶん気を使いますが、心  の健康には無頓着なものです。

 

 

 

⑧ 百年再生の我無し 其れ曠度すべけんや

「言志後録109条」※もし仮に、百年たって人間に生まれ変われることがあ ったとしても、今の自分ではない別の自分にしか生まれ変わることはできません。

一度しかない今日を無駄に過ごしてはなりません。

 

 

-佐藤一斎, 小泉元首相, 岩村城

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