美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

岩村城

岩村城跡の登山で歴史散策 ー畳橋を渡って正門から八満宮・霧ヶ井跡

投稿日:2022年3月6日 更新日:

 よくこのブログを開いてくださいましてありがとございます。
岩村城址を案内しますが、Parti Iを見ていただみましたでしょうか?

※Part1をクリックして登城口から土岐門までもみてください。

 

 

さぁ〜土岐門に着きました。
門を潜って右に曲がって本丸まで登って行こう。

 

 

その前に岩村城のある岩村町は木曽山脈の懐に抱かれた高原盆地にあって、岩村城は町の東側にあって標高717mの山頂に位置し、城下町を見下ろし四方の山々も一望にすることができます。

 

     ▲出丸から見た岩村城下町

 

城山は地形的に霧が湧きやすく、雨の前後には忽然として霧に姿をひそめ、あるいは霧を吐き出し霧を治める景観は神秘的風格を備えており、別名を“霧ヶ城”と呼ばれています。

 

 

天然の峻険な地形をよく利用した要害強固な山城で、徳川時代に入り初代藩主・松平家乗(大給松平本家6代)が入封して藩主邸を造った。

※若きプリンスのブログが松平家乗をクリックして読んでください。

 

 

江戸諸藩の府城の中では、もっとも標高の高いところに築城されており、しかも明治維新まで存続したのが岩村城です。

 

 

日本三大山城に選ばれただけはあります。

※日本三大山城をクリックしてもらうと関連記事が出てきます。

 

 

畳橋

大手門へ行くには空壕にかかる畳橋を渡るのだが、今は橋がないから堀を歩くことのなるが、畳橋があった頃は敵が攻めてくるとこの橋を取り外すことから、この名がついた。

      ▲追手門前

    ▲畳橋、このCGは城山に登頂したときに持ってきました。

 

この辺り城中の要害の箇所である。
空壕に架せられた畳橋によって大手平重門に達するが、畳橋は敵対する時は取り外す仕掛けになっている故に畳橋という。

 

 

 

平重門の中は枡形で、これを通過しなければ大手櫓門に入ることは不可、枡形は大手櫓門の前衛になっている。

 

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大手門・三重櫓

畳橋を渡ると大手門(二階門)の前に枡形があり、ここが岩村城正門で、左手には高い石垣、右手には三重櫓が聳えて、城中最高の櫓です。

      ▲ここまでこないと正門に辿りつかない

 

これを本丸に置かず、ここに置く理由は、城下町から本丸は見えないので、三重櫓が天守閣の如く仰がれる為である。

         

 

城の威厳はこれによって、城下町方面に示している。
一の門及び土岐者(二の門)は、その前衛門です。

 

 

空壕に望んで三重櫓威容を誇り、城下町からみると天守のように見えたのが天守ではないでしょうか。

 

 

この辺りが最も要害堅固な場所であり、絶壁に望んで美しい勾配を描く石垣も2ヶ所に見ることができる。

 

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八幡曲輪

ここまで登ってくるともうすぐ二の丸、本丸です。

八幡曲輪は大手門内の一区域で、本丸・二の丸に対して三の丸の稱(たたえ)もある建物です。

この曲輪の中八幡宮があるので、この名がありなす。

       ▲八幡曲輪

 

遠見櫓はその西北側にある断崖に聳(そびえ)たち城内の櫓の中でも最も望みのできる地点にあります

 

 

奥に見えるのが八幡宮です。
岩村城創業の祖、加藤景廉を祀る本殿の前に拝殿(神楽殿を含む)があり、その傍に平重門があります。

    ▲八幡宮(源頼朝の重臣・加藤景廉が祀ってあります。

 

向かい側には霧ヶ井があり、その辺りから参道があり石段を上ってここに到達でききます。

      ▲これは霧ヶ井戸の前にある八幡神宮に登って行く階段です。

※別に八幡神宮と武並神社の記事があります、興味ある方は上記の八幡神宮をクリックして読んでください。

 

 

参道の傍に薬師寺があり、ここの住僧が八幡宮に奉仕していた。

 

 

霧ヶ井戸

霧ヶ城の名稱の出所と言われます。
霧ヶ井は八幡曲輪の路傍にあり今でも清冽※1な泉水をたたえています。

※1.清冽(せいれつ)とは、水などが清らかに澄んで冷たいこと。

      ▲霧ヶ井戸と氷餅蔵

 

従時(じょうじ)は建物の中にあって城の黄金水ともなっていました、また氷餅蔵も籠城の時に備えて、名物氷餅を貯蔵していました。

 

      ▲現在ではこのようになっています。

 

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続いて二の丸へと入っていく

右手の石垣の建物が二の丸の米蔵で、左手下の門が俄坂門※2で、その内部からみたものです。

※2.俄坂門(にわさかもん)とは、遠山氏の頃の大手門、大圓寺遠山氏の菩提寺に通じる地道。

     ▲俄坂門(遠山時代はここが表門だった)

 

俄坂門外は、“くらがに谷”を径て大円寺部落に出れ、内部を東進すれば二の丸や東曲輪に通じます。

 

 

 

八幡櫓・番所

八幡櫓は八幡宮の裏の丘上に高く聳えたつ、城の北方に當り※3.大圓寺方面の望見に重要な所でした。

※3.當り(あたり)とは、あたること。ぶつかること。命中すること。

 

 

俄坂門に対して裏門である。水晶山に面し、ここを出ると水晶山と城山との渓谷を通じて大圓寺に出られます。
天正前(遠山時代)はこれが表門だった。

 

 

 

二の丸菱櫓

右手の石垣上の二重櫓は菱櫓です。

左手の低地にある二重櫓を端櫓という、二の丸門前から石段上と櫓の二階との橋が架かっているので橋櫓という。

 

この橋の下を潜って東曲輪に進む、この道がが本丸に至る本道です。

 

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二の丸櫓門

二の丸に入る正門です。

櫓門の右手は厩で軍馬を飼育してました左手の高い石垣は、本丸の石垣です。

     ▲二の丸櫓門

 

二の丸辨才天社

   文化14年(1817年)に岩村藩領であった駿河国野村(現・静岡市)の宇兵衛の庭へ大音響とともに一個の玉が降ってきた。

 

 

藩主が占って貰ったら弁財天の玉ということであり、ここに祀ったという。
隕石という説があります。

 

二の丸の広場の中央に堀を巡らして辨才天社として祀った。

 

 

この高台に水をたたえていた辨天池のあったことは奇跡であり、城内薬師寺の僧が奉仕した。

 

現在この社殿は岩村にある隆崇院の移建されています。

        ▲辨才天社のイメージ図

 

 

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