美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

おつやの方

女城主おつやの方は信長に政略婚に使われ挙げ句の果ては磔にされた絶世の美女

投稿日:2021年6月28日 更新日:

 戦国時代の女性は、ほとんどが名前が不詳であった。

 

女城主・おつやの方も例外でなく、「お直の方」「おつやの方」と多く使われています。

「三河風土記」に遠山景任(とおやまかげとう)を「岩村修理」とあることから、岩村町教育委員会発行の「岩村町史」には、修理夫人と書かれています。

 

 

現在では「おつやの方」が一般的な呼び名ですので、ここでは”おつやの方と書きます。

 

 

妹のお市の方しかり叔母・おつやの方を政略結婚に使かった織田家の絶世の美形軍団の一人おつやの方。

 

 

最初の嫁ぎ先は安八郡の城主

この、おつやの方は織田信長の父・織田信秀の妹、祖父は織田信定、即ち信長の年下の叔母さんです。

※上記の織田信長をクリックすると、信長・おつやの方が生まれた育った城、家系図が載っています、興味のある方は読んでください。

 

 

幼い頃は同じ城で育ったので、山川を走り回っていたことでしょう。

 

 

 

最初の政略結婚は、日比野清実(ひびのきよざね)という結城(岐阜県安八町)城主です。

 

                                                                 ▲ネットより

 

何歳で嫁いだかは、つまびらかではありませんが、おつやの方は18歳で最初の夫を「森部の戦」で甥の信長によって戦で亡くしているのです。

 

 

日比野清実斎藤龍興(斎藤道三の嫡男)の家臣、斎藤義龍の重臣「斎藤六人衆」(斎藤六宿老)の一人。

 

 

斎藤義龍(若年14歳)の代に中心的な家臣となっており、配下には素手で首を取ったという怪力の猛者「首取り足立」こと足立六兵衛と共に戦った、この時、永禄4年(1561年)に戦死しました。

 

                                                                       ▲ネットより

 

これにより織田家は美濃侵攻の拠点となる「墨俣」の地を制圧し、後にここに、秀吉「墨俣一夜城」を築くことになる。

 

 

首取り足立六兵衛も、前田利家に討ち取られており、織田家をクビになっていた利家は、この手柄で織田家に復帰する。

 

 

        日比野清実と遠山景任の立ち位置は、以下の通りです。

 

2度目の結婚は信長の武将

2度目の結婚は。信長に仕える武将で、甥・信長による政略結婚で、相手は不明。ほどなくして戦死。

 

 

 

3度目は、東美濃に野望を抱いて岩村城へおつやの方を

永禄3年(1560年)織田信長桶狭間で今川義元を滅ぼし、翌年、今川氏から自立した徳川家康と結び、東美濃を窺(うかがう)うようになったことから、信玄との摩擦が起きってしまったのではないか。

 

 

そこで信長が目につけたのが、東美濃の有力者・遠山景任に叔母を嫁がせようとした、3度目政略結婚の相手は、斎藤道三の後陣守将・副将だった東美濃の岩村城遠山景任だった。

                                      ▲絶世の美女だったおつやの方

 

遠山景任は先代の遠山景前が戦死したため弘治2年(1556年)の20歳だった。

この時、おつやの方年下年上か不明だけど、多分年齢差は少しだと思う。

 

 

祖である岩村遠山が当主の跡を継いだとき、まだ、若かったため、反対者が現れて遠山七頭で揉め事になっていた。

 

 

遠山家「遠山七頭」と呼ばれる家柄に分かれていたが、その中でも特に大きい「岩村遠山家」「苗木遠山家」「明知遠山家」遠山三頭(三遠山)という。

 

最も大きいのが遠山景任が当主を務めていた「岩村遠山家」だった。

 

 

そこに叔母であるおつやの方を嫁がせ、苗木城には、苗木勘太郎※1にも叔母を嫁がせて、遠山氏を味方に引き入れた。

※1.苗木勘太郎とは、諸系図によれば、東美濃の有力国衆であった苗木遠山氏と関係を深めるため、信定(信長の祖父)の苗木勘太郎に嫁いだ苗木勘太郎とは、遠山直景(遠山景任の弟)のこと、おつやの方も岩村遠山氏の遠山景任に嫁いだので、織田氏と遠山氏は重縁の関係であった。

ただし景任が跡を継いだとき、まだ若かったため、反対者が現れて遠山七頭で揉め事になっている。

 

 

遠山七頭の領地は山奥ながら交通の要所にあり、さらに斎藤家・織田家・武田家が競合する地域であったため、各勢力から交渉や調略を頻繁に受けていた。

 

 

岩村遠山家は武田信玄の進攻により武田家に従属していたが、斎藤義龍が美濃を支配するとこれに従い、織田家とも交流があった。

 

 

そして織田信長の叔母である「おつやの方」を妻に迎えて婚姻関係を結び、斎藤家の滅亡後は織田家と武田家を仲介する存在となる。

 

 

しかし「苗木遠山家」が武田信玄の意向を受けて、信濃の木曽義昌と共に飛騨の三木家(のちの姉小路家)を攻めた際、当主が重症を負って死んでしまう。

 

 

そして信長を妻としていた遠山友忠※2が跡を継いだため、織田家の影響力が拡大。

※2.遠山友忠とは、美濃国恵那郡の現・岩村町の飯羽間にある飯羽間遠山氏の遠山友勝の子として生まれた。本家筋の岩村遠山氏から苗木遠山氏に入った遠山直景(遠山景任の弟)が、永禄12年(1569年)大威徳寺の戦い※3において矢傷を受け、翌年永禄13年(1570年5月18日)に没する。

※3.大威徳寺の戦いとは、永禄12年(1569年)に美濃国の苗木遠山と飛騨国の三木氏が、飛騨国益田郡の大威徳寺近辺で行った合戦。なお、「苗木伝記」では、この戦いを天文14年(1545年)、「遠山家家譜」では、元亀3年(1572年)としている。弘治2年(1556年)説もある。

 

 

永禄8年(1565年)金山城森可成米田城肥田忠政を武田軍に攻撃された後、信長は、この女性が産んだ苗木の娘を自分の養女として、武田信玄と同盟を結ぶために、織田掃部助を派遣して、武田勝頼との婚儀をまとめた。

 

 

この娘が後の隆勝院で嫡男・武田信勝を産んだ。

 

 

その後、父・遠山友勝が織田信長の命で苗木遠山氏を継いで苗木城主となったことから遠山友忠が飯羽間城主となった。

 

                               ▲現・岩村町飯羽間

 

友忠は、その後,飯羽間城を長男友信に任せて、自ら明照城(あてらじょう)に移っていたが、父・友勝が亡くなったので、明照城を次男友重に任せて、三男・友政を連れて苗木城に入った。

 

 

苗木では領主友勝・友忠と一年の内に相次いで代わったので、人心が乱れて一揆が勃発し、福岡村の曽我親子が苗木へ民家に火を放ったり、付知村の遠山玄蕃、加子母村の大嶋与十郎、白川村の安江三内、赤河村の纐纈次左衛門、蜷川村の曽我幸慶らが起こした反乱を厳しく鎮圧した。中野方面の山内治郎は娘を人質に出して二心無きを示したという。

 

 

元亀3年(1572年)10月3日、それまで諸勢力に向けて盛んに上洛することを宣伝していた武田信玄西上作戦を開始した。

 

 

元亀3年(1572年)12月、秋山虎繁は武田軍を率いて東美濃の遠山氏の本拠地岩村城を攻めた

 

 

遠山氏は以前は、武田氏に臣従していたが、この頃は織田信長の叔母が岩村城主となっており武田氏とは敵対関係となっていた。

 

 

岩村遠山氏は、武田(秋山)軍に岩村城を包囲されて危機となったため、当時女城主であったおつやの方が、秋山虎繁と結婚するという条件で降伏し、上村合戦で討死せず生き残っていた岩村遠山氏とその一族は武田氏の軍門に下った。

 

 

 

4度目の結婚して、まもなく信長に逆さ磔になる

元亀4年(1573年)2月下旬、おつやの方は織田掃部の肝いりで秋山虎繁と祝言を挙げ、御坊丸は甲府に人質なって送られた。

 

 

3月6日、武田信玄は織田信長の東濃出陣の報を受け、秋山虎繁に美濃出陣を命じた。
同3月15日には岩村城を攻めていた馬場信春の率いる兵800が織田軍に攻めかかると、織田信長は1万の兵を引かせた。

 

 

これを武田方の越中国勢30騎、飛騨国勢30騎、岡部正綱50騎が追撃し、徒歩の兵27人を討ち取った。
その後、岩村城は落城し、岩村地衆も降伏し武者35騎の首が取られた。
秋山虎繁は再び岩村城に入城した。

 

 

元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄は上洛半ばで病死した。
武田家の家督は4男の武田勝頼が継いだ。

 

 

天正2年(1574年)1月27日、武田勝頼は、織田信長をさらに圧迫するため、甲斐・信濃など五箇国の兵力で出発し、4月中旬に東美濃の城や砦(苗木城・阿寺城・千旦林城・阿木城・飯羽間城・串原城・今見砦など)を陥れ、岩村城に進出して明知城を包囲した。(明知城の戦い)

 

 

翌2月5日、信長は嫡男・織田信忠とともに出陣したが、到着前の2月6日に明知城で飯羽間右衛門の裏切りがあって落城したため、東濃の鶴ヶ城 (美濃国)神篦城に河尻秀隆を、小里城に池田恒興を配置し、2月24日に岐阜に撤退した。

 

 

この時、織田信長は6万人を率いたとされるが、山県昌景が兵6000を率いて鶴岡山の方に進出すると、信長は兵を引いたという。

 

 

天正3年(1575年)5月21日、武田勝頼は長篠において織田信長・徳川家康連合軍に大敗し、山県昌景・馬場信春ら多くの重臣を失った。
このため、織田・徳川による武田反攻が始まることとなる。

 

 

信長は嫡男・信忠に軍を預けて岩村城に侵攻させた
これに対して武田勝頼は援軍に向かおうとし、勝頼の動きを聞いた信長も11月14日に京から岐阜へ向かった。

 

      ▲現・岩村町日出町と新市場の境にある小高い丘

 

※信長に岩村城奪還の総大将を命じられ陣を貼った大将陣、興味のある人はクリックして読んでください。

 

 

上村合戦で武田(秋山軍)との戦いで生き残った苗木遠山氏の一族・郎党達は織田・徳川方に付いたが、明知遠山氏・串原遠山氏の一族・郎党達は織田・徳川方に付く者と武田方に付く者の二手に分かれた。

 

 

これより半年前から、織田・徳川方に付いた側は、中津川に遠山左衛門、竹折に延友信光、 土岐三兵大川に小里内作、上村に遠山與介が駐留して、各方面から岩村城への補給路を断った。

 

 

そのため岩村城内は飢餓状態となり、この窮地を脱するために、岩村城に立て籠もっていた武田方と遠山方は11月10日に岩村城近くの水晶山の織田方の陣地に夜討ちをかけるなどして信忠軍に対抗した。

 

 

河尻秀隆・ 毛利秀頼・浅野左近・ 猿荻甚太郎等に反撃されて、武田方に付いていた遠山氏の一族・郎党達の遠山五郎友長・澤中左忠太光利・飯妻新五郎 ・小杉勘兵衛らが討死し大将格21人に籠城兵3千人の内1千百人を失ったため武田方は戦意を喪失した。

 

 

窮地に陥った秋山虎繁は、 塚本小大膳を使者に立て、信長に降伏を申し出、織田方に受け入れられた。

 

 

しかし、自分の叔母のおつやの方を自らの妻にして岩村城を乗っ取った秋山虎繁と、虎繁と結婚して武田方に寝返った叔母のおつやの方を憎悪していた信長は、11月21日に城将の秋山虎繁・大嶋杢之助・座光寺為清が赦免の参礼に来たところを捕らえて岐阜に連行し、おつやの方共々、岐阜城近くの 長良川の河原で逆さ磔の極刑に処した。

 

 

武田方に組して城に籠城していた遠山氏の一族郎党は、馬木十内・馬坂求馬・ 須淵傳左衛門・久保原内匠・ 大船五六太が討死し、 遠山二郎三郎・遠山市之丞・遠山三郎四郎・遠山徳林斎・遠山三右衛門・遠山内膳・遠山藤蔵らは城中の市丞丸に入り自刃。
残党は全て焼き殺された。

 

 

 

-おつやの方

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