美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

遠山氏

岩村城の最前線だった飯場間城の遠山氏が苗木へ入城 Part1

投稿日:2021年7月5日 更新日:

遠山氏とは、源頼朝の重臣・加藤景廉(藤原利仁の子孫)が功績を残し、文治から建久(1185年〜1198年)の頃に遠山荘(現・恵那市・中津川市・瑞浪市の一部)を与えられたのが始まりで嫡男景朝築城する。

 

 

加藤景廉本人は源頼朝と共に鎌倉におり、承久の乱が始まって程なく死去、遠山荘地頭職は嫡男・加藤景朝が受け継いだ。

 

 

この後、加藤景朝は遠山荘にちなんで、景朝は改姓して初代・遠山景朝となった。

 

 

遠山氏の名が最初に認められるのは、承久3年7月5日(1221年7月25日)に、承久の乱の首謀者の一人である一条信能を遠山荘の地岩村の相原(現・恵那市岩村町石畑地区にあり)で処刑した時であります。

※上記の一条信能をクリックしれ頂くとより詳しい記事があります。

 

 

現在・巌邨神社(岩村神社)として、一条信能を祀ってあります。

                  ▲巌邨神社

 

苗木は岩村から養子2代を迎える

宝治元年(1247年)遠山景朝の次男の遠山三郎兵衛景重明知城(現・恵那市明智町)に築き明知遠山氏始祖となった。

 

苗木城は、遠山景朝の長男の遠山景村が、仁治2年(1241年)木曽川北部の所領を得るために、木曽川左岸の西山戸から右岸の那木に進出、後の苗木城築城に繋がる。

 

                                                           ▲苗木城頂上から下界の木曽川

 

弟の景重が宝治元年に明知城を築城、そして初代城主になった。

景村は広恵寺城を築城した。

 

 

後に、弟・三男景員が苗木城を築城し初代城主になった。しかし、景員は岩村遠山氏を継いでいる。

 

 

苗木城は元弘年間(1331年〜1334年)遠山昌利(一雲入道)、遠山景長親子が、高森山(現・中津川市苗木町)に砦を築いた。

また、元弘〜建武年間(1334年〜1336年)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築く。

 

 

大永〜天文年間(1521年〜1554年)頃、恵那郡福岡村植苗木の広恵寺城から、高森(今の苗木城)に移り住んだ苗木遠山景徳(景長)には実子なく、岩村の遠山景友の次男(兄が遠山景前を養子とした。
(※遠山景友でなく弟の景広の子かもしれない)

 

 

さらに正景にも男子なく、岩村遠山氏の遠山景前の次男・遠山武景を養子にしたものの若死したため、三男・直廉が養子として苗木を継ぎ、ともに勘太郎・左近(助)を名乗ったようです。

 

 

苗木・遠山武景の存在は、戸谷貞吉「明叔語録の苗木城資料」(『郷土史壇』1938年)の紹介され、次いて「明叔語録」(『妙心寺派語録2』)で明らかになった。

 

 

武景・直景については、「中世末の苗木城と苗木氏の動向」(横山佳雄『美文会報』1991年)によります。

 

 

苗木・遠山武景の遺児が、のちの織田信長の養女として武田勝頼正室となり、武田信勝を産んだ。

 

 

弘治元年(1555年)武田晴信(のちの信玄が、木曽・美濃へ進出すると、岩村の遠山景前は戦わず、武田に帰順し、ここから武田・遠山盟友関係が生じた。

 

 

 

岩村遠山氏と苗木遠山氏は兄弟城主

遠山景前は、弘治2年(1556年)没し、岩村は嫡男・遠山景任が跡を継いだが、景任の弟・直廉苗木城の養子となり、当時の恵那地方は武田信玄に近い岩村と苗木の「遠山兄弟」が主な勢力となった。

 

                                                  ▲苗木城の頂上

 

信玄と連帯する遠山兄弟の姿が資料に見え、永禄6年(1563年)の信玄文書に、「久々利への俵子(ひょうず)は先ず500俵。‥‥信濃境より久々利へは苗左兄弟の領中から人夫を相催運送すべき‥‥」(『戦国遺文武田氏編』東京堂出版2002)とある。

 

 

久々利と信玄の関係に継いては、当時、金山城主が長井隼人佐斎藤龍興の叔父)と思われ、信玄ー遠山(苗木・岩村)長井(金山)土岐悪五郎(久々利)という同盟ラインが成立していた。(横山佳雄『織田信長の尾張時代』2012)

 

 

米俵を運送するのに東濃は遠山兄弟の領中だから、そこから人夫を出せよ、とあり、苗左兄弟は左衛門尉(岩村の遠山景任)と左近助(苗木の遠山直廉、景任の弟で苗木城は養子)のことである。

 

 

このほか、武田信玄が恵那の遠山兄弟に宛てた書状2通と苗木の遠山左近助直廉に宛てた書状1通が存在する。(後者は苗木遠山資料館所蔵)

                                                    ▲遠山左近助に宛てた信玄の書状

 

元亀3年(1572年)秋、武田信玄は京都に向けて西上作戦を図るが、その出発の直前に盟友である遠山兄弟が続けて死んだ

 

 

5月18日苗木城の遠山直廉、8月14日岩村の遠山景任と続けて若くして武将兄弟が病死したのだった。

 

 

武田信玄が病没するのは、その翌年4月である。

 

上杉謙信は、この時(元亀3年夏から秋)「遠山兄弟が死んだことで、この度は信玄は思わぬ打撃を受けた.。結局このため、次に信長は遠山(恵那)を手に入れた。信長には吉事だった」(河田伯耆守宛書状 元亀3年10月18日「歴代古案」=上杉文書)と恵那の状況に触れている。

 

 

 

室町時代の奉公衆から、つながる苗木遠山氏は岩村遠山氏と共にこれで断絶した。

他の遠山諸家衆(遠山七頭)は、天正3年(1575年)秋、秋山伯耆守の岩村城陥落で武田方にあり、共に討ち死に壊滅した。

 

 

明智と苗木(飯羽間)を除く中世遠山衆は織田信忠によって命脈を絶たれたのである。

 

東濃地方、中でも恵那支配が可能になった織田信長は、岩村には息子・御坊丸及び後見人に兄・織田信広を配し、苗木には気脈の通じる飯場城の遠山友勝を据えた。

 

 

飯場遠山氏の苗木入城は次回に続く

 

 

 

 

-遠山氏

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。