美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

遠山金四郎 鳥居耀蔵

遠山金四郎と鳥居耀蔵の南・北奉行所の二人のルーツは同じ美濃国岩村城にあった

投稿日:2021年7月29日 更新日:

   映画・ドラマでお馴染みの金さんは北町奉行、一方妖怪こと鳥居耀蔵は南町奉行、そこに老中・水野忠邦の「天保の改革」で贅沢禁止令で有名な話です。

 

 

桜吹雪の遠山の金さんは実在の人物か、そうでないか?
鳥居耀蔵も実在の人物か、そうでないか?

 

 

遠山金四郎こと金さんは、名奉行・遠山左衛門尉景元​​​​​​という立派な名前があります。

一方、鳥居耀蔵は鳥居甲斐守耀蔵という立派な名前があります。

 

 

妖怪と言われた鳥居耀蔵は老中・水野忠邦の「天保の改革」を強行
その最前線で指摘を取り、徹底した施策に民の反感を一身に背負った。

 

 

”株仲間解散令“しかり庶民の”奢侈禁止令“しかり。
あげくは洋学を排し、”蛮社の獄“をひきおこす。
以上のことで反感を買って妖怪と怖がれた

 

 

遠山金四郎のルーツは岩村城の分家明知遠山氏だった

江戸時代の旗本で、幼名は通之助、通称は実父と同じ金四郎と呼ばれていました。
知行※1500石の明知遠山氏の分家の6代目に当たる金四郎です。
明知遠山氏は元は美濃国岩村城の祖である、加藤景廉源頼朝から拝命つかまわった恵那郡の遠山荘です。

※1.知行とは、近世、幕府や大名が家臣に俸給(ほうきゅう)として与えた土地。また、その代わりとして与た扶持(ふち)

 

景廉は源頼朝の側近だったため、嫡男・加藤景朝に城を築城させ、名を遠山景朝に改名、遠山景朝の子・遠山三郎兵衛景重が、加藤景廉の孫に当たる景重が宝治元年(1247年)明知城を築城する

 

 

その明知城の分家の6代目、父は長崎奉行を務めた遠山景晋、母は榊原忠寛の娘。

 

 

父・景晋は永井家から遠山家に養子に入りましたが、のちに養父の実子・景善が生まれたため、景晋は実子・景善を養子にしていた。

 

 

景元の出生届けは、その手続きが終わってから提出された(誕生の翌年の9月に届けられました)

 

 

文化6年(1809年)父の通称であった金四郎に名を改めた、青年期はこうした複雑な家庭環境から、家を出て町屋で放蕩生活を送るがのちに家に帰る。

 

 

文化11年(1814年)には堀田一定(主膳)の娘で、当時、百人組頭であった堀田一知の妹「けい」を娶り結婚する。

 

 

堀田伊勢守家は知行4,200石、遠山家は知行500石では釣り合いが取れないが、この時遠山家の当主の景晋は長崎奉行を務めていて、堀田家は景元(金さん)の将来性を見込で嫁に出したのだろう。

 

 

文政7年(1824年)に景善が亡くなったため、翌年の文政8年(1825年)に江戸幕府に出仕、江戸城西丸の小納戸に勤務して役料300俵を支給され、当時、世子(せいし)嫡男だった徳川家慶(のちの12代将軍)の世話を務めていった。

 

 

4年後の文政12年(1829年)父・景晋の隠居に伴い家督を相続し知行地500石を相続して遠山家継いだ。

 

 

天保3年(1832年)に西丸小納戸頭取格に就任し同時に従五位下大隈守に叙任された。

 

天保5年(1834年)西丸小納戸頭取に昇進、翌天保6年(1835年)に小普請奉行に転任、天保9年(1836年)に作事奉行、天保9年(1836年)に勘定奉行(公事方)、天保11年(1840年)には北町奉行に就いて

 

            ▲ご存知この桜吹雪が目に入らぬか〜

 

ご存知桜吹雪の遊び人金さんが北町奉行になって名奉行を行う。

 

 

 

鳥居耀蔵は第3代岩村藩主・松平乗薀が祖父・父が林述斎

江戸時代の幕臣で旗本、耀蔵は通称で諱は忠耀(ただてる)

実父は大学頭を務めた江戸幕府儒者林述斎、教え子に佐藤一齋等がいる。

 

 

寛政8年(1796年)11月24日に生まれる三男一説には四男説もある。

生母の前原氏は側室、文政3年(1820年)25際の時に鳥居成純の娘・登与婿養子となって家督を継ぎ2500石の身分になる。

 

 

そして第11代将軍・徳川家斉の側近として仕えた。

のちに将軍・徳川家斉の子・徳川斉荘第12代・名古屋城主になり、その娘の釣姫が美濃国・岩村藩3万石の松平乗命に嫁ぐ。

上記の釣姫をクリックしていただくと関連記事があります。

 

 

 

父親の父、すなわち祖父は美濃国岩村藩の第3代松平乗薀(のりもり)、乗薀の実父は第8代将軍・徳川吉宗の下で「享保の改革」を進めた老中・松平乗邑です。

 

 

やがて徳川家斉が隠居して、異母の弟・徳川家慶12代将軍となり、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りを行う。
渋川敬直・後藤三右衛門(13代目後藤庄三郎)と共に水野の三羽烏と呼ばれ意気こんでいた。

 

 

天保9年(1838年)、江戸湾測量を巡って江川英龍と対立する。
この時の遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになり、翌年の蛮社の獄※2渡辺崋山高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となったといわれる。

 

※2.蛮社の獄とは、蘭学者に対する弾圧事件、三河の田原藩・家老渡辺崋山は、藩政改革の推進を図って、高野長英、小関三英ら尚歯会の集まりを通して西洋知識の吸収に務めていた。

また、幕臣・諸藩士などの識者のなかには、崋山の識見を慕って集まる者も少なくなかった。

 

目付役の鳥居耀蔵は、儒教思想による守旧的立場から渡辺崋山ら蘭学者を増悪してた。

天保8年(1837年)6月、対日通商の望みをもって日本人漂流民の送還のため江戸湾に入ったアメリか船モリソン号が、浦賀で異国船打払令によって撃退されるという事件が起きた。

 

すると、崋山は『慎機論(しんきろん)』を、長英は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』(『夢物語』)を著して、世界情勢に目を覆い人道に反する幕府の処置を批判した。

39年、老中水野忠邦(ただくに)は守旧派の鳥居と開明派の伊豆韮山(にらやま)の代官江川英龍(ひでたつ)に江戸湾の備場(そなえば)巡見を命じた。

 

江戸に帰った江川から意見を求められた崋山は、江戸湾防備の意見書や『西洋事情書』などを江川に送った。

 

鳥居は、江川が崋山と親しいことを知り、崋山が無人島(小笠原(おがさわら)島)渡航計画に関係し、長英らと蘭学を講じ、幕政批判を行ったなどと、罪状を捏造(ねつぞう)して、同年5月崋山、長英ら一味を逮捕した。

取調べの結果、無人島渡航計画などの容疑は晴れたが、幕政批判の罪は重く、同年12月、崋山には国元田原における蟄居(ちっきょ)、長英には永牢(えいろう)の判決が下された。

 

これより先、小関三英は自分も罪の逃れがたきを思い自刃し、崋山、長英の両名もやがて自殺に追い込まれた。

蛮学社中の観を呈した尚歯会そのものは、主宰者の紀州藩士遠藤勝助(しょうすけ)が逮捕されておらず、弾圧の直接対象にはなっていなかった。

 

しかし、この事件は、蘭学・蘭学者が弾圧を受け、そこに幕府内における守旧派と開明派との対立が顕著にみられた事件であったといえよう。

鳥居耀蔵の父親は林述斎という儒教者である。

 

 

 

だが、これについては、耀蔵は単なる蘭学嫌いではなく、天保14年(1843年)多紀安良の蘭学書出版差し止めの意見に対して「天文・暦数・医術は蛮夷の書とても、専ら御採用相成」と主張して反対するなど、その実用性はある程度認めていたこと。

 

 

また江戸湾巡視の際に耀蔵と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと耀蔵と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、耀蔵が失脚する弘化元年(1844年)まで続いている。

 

 

耀蔵は江戸湾巡視や蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めていたことを指摘し、蛮社の獄※2『戊戌夢物語』の著者の探索にことよせて「蘭学にて大施主」と噂されていた崋山を町人たちともに「無人島渡海相企候一件」として断罪し、鎖国の排外的閉鎖性の緩みに対する一罰百戒を企図して起こされたとする説がある天保12年(1841年)、南町奉行・矢部定謙を讒言により失脚させ、その後任として南町奉行となる。

 

矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となり、ほどなく絶食して憤死する。

 

 

 

天保の改革における耀蔵の市中取締りは非常に厳しく、おとり捜査を常套手段とするなど権謀術数に長けていたため、当時の人々からは“蝮(マムシ)の耀蔵”、あるいはその名をもじって“妖怪”(官位と通称の甲斐守耀蔵を「耀蔵・甲斐守」と反転させた上省略した)あだ名され、忌み嫌われた。

 

 

また、この時期に北町奉行・遠山景元(金四郎)が改革に批判的な態度をとって規制の緩和を図ると、耀蔵は水野と協力し、遠山を北町奉行から地位は高いが閑職の大目付に転任させた(遠山は鳥居失脚後に南町奉行として復帰した)
天保14年(1843年)に勘定奉行も兼任、印旛沼開拓に取り組んだ。

 

北町・南町両奉行をやった人はいない。

 

 

-遠山金四郎, 鳥居耀蔵

執筆者:

関連記事

加藤景廉の末裔の金さんと岩村城主3代の孫・鳥居耀蔵の共通点は岩村城!

岩村城は、そんなに有名人を出してる? 全国的にみると凄い!   あの桜吹雪が有名な遠山の金さんと鳥居耀蔵 名奉行と言われる遠山の金さんと妖怪といわれる鳥居耀蔵は岩村城と関係があったのです。 …

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。