美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

富岡製糸場

渋沢栄一・尾高惇忠が冨岡製糸場造りに関わっていたー工女尾高ゆうと和田英

投稿日:2021年7月28日 更新日:

そもそもなんで富岡製糸場が造られるはめになったのか?
江戸時代末期、長い間鎖国をしてきたが、鎖国政策を変えて貿易を始めて日本国を豊かにしたいと思ようになってきてからです。

 

 

その当時、最大の輸出品は生糸でした、真面目な日本人が作る生糸は外国人に凄い人気で輸出が急増したことによって需要が高まってきますが、次第に品質の悪い生糸が出回ってきて信用問題になって、価格も下落していきました。

 

 

そんな中、洋式器械製糸技術を導入して生糸の品質を上げるため、明治政府の緊急課題となって官営模範工場の建設です。

 

 

 

公務員になった渋沢栄一・尾高惇忠の役割

明治新政府の大蔵少輔であった伊藤博文や大蔵省租税正の渋沢栄一が担当となり計画が進められました。

 

 

農家出身で蚕桑や蚕種に詳しかった渋沢栄一は、富岡製糸場設置主任に任命され、工場建設の現場を取り仕切った尾高惇忠、資材調達を任された韮塚直次郎らと共に、官営製糸場の設立に尽力しました。

 

 

富岡製糸場設置主任は、渋沢栄一・中村祐興、玉乃世履、杉浦譲、尾高惇忠の五名が任命されました。

 

 

明治新政府で民部省の役人だった尾高惇忠は、官営富岡製糸場の設置を命じられ、建設用地の選定から携わります。

 

                                                                  ▲尾高惇忠の家

 

建築資材の煉瓦や、煉瓦を接着するためのモルタルは、当時の日本ではほとんど知られていませんでした。

 

 

煉瓦づくりは地元深谷の韮塚直次郎に依頼して、瓦職人たちにより甘楽町福島の窯で焼き上げ、モルタルは同郷の左官職人である堀田鷲五郎・千代吉親子により日本固有の漆喰を改良して仕上げるなど、苦難の末、富岡製糸場は無事完成しました。

 

                                                        ▲富岡製糸場の工場内部

 

富岡製糸場の初代場長となってからは、特に工女の教育に重点を置き、一般教養の向上と場内規律の維持につとめました。

 

 

 

惇忠が掲げた「至誠神の如し」とは、たとえ能力や才能が豊かではなくても、誠意を尽くせば、その姿は神様のようなものだという言葉です。

惇忠は明治9年(1876)に場長の職を退くまで、富岡製糸場のために誠意を尽くしました。

 

 

 

なぜ工場設立の地に富岡が選ばれたか

設立計画を担当した政府の役人一人と、尾高惇忠とポール・ブリュナらが武蔵・上野・信濃の地域を調査し。

 

①富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料である良質な繭が確保できること。

②工場建設に必要な広大な土地が用意できる。

③製糸に必要な水が既存の用水を使って用いられる。

④蒸気機関の燃料である石炭が富岡の近くの高崎・吉井で採掘できる。

⑤外国人指導の工場建設に対して地元の人たちの同意が得られた。

 

以上のことによって富岡に建設する事が決まりました。

 

 

富岡製糸場はできたが操業難に惇忠の娘「ゆう」が工女1号

富岡製糸場は、国が建てた大規模な器械製糸工場で、長さが約140mある繰糸所には300釜の繰糸器が並び当時の製糸工場としては世界最大規模でした。

 

富岡製糸場の建設はフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに明治4年(1871年)から始まり、翌年の明治5年(1872年)7月に主な建造物が完成、10月4日には操業が開始されました。

 

 

渋沢栄一の従兄であり、幼少期に論語などを教えてくれた尾高惇忠は、工場建設の中心人部となって活躍し、初代場長に就任しました。

操業開始に向けて、工女の募集を始めるのですが、なかなか集まらず苦労したそうです。

 

 

それはこんなエピソードがあったそうです。

若い娘の生き血を絞るために募集してるとの噂話が広がり、希望者が集まりませんでした。

 

 

それは、フランス人技師の飲むワインを生き血と誤解されたみたいです。

 

 

 

当時、惇忠の娘「ゆう」伝習工女第一号として雇わられことから、尾高さんの娘さんが入るなら私もというようになって次第に希望者集まり製糸場は操業を開始することができました。

 

 

繭から生糸を取る繰糸所では、全国から集まった伝習工女たちが働き、本格的な器械製糸が始まりましたが、外国人指導者が去った明治9年以降は日本人だけで操業され、官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではありませんでしたが、高品質に重点を置いた生糸は海外で高く評価されました。

 

 

器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が果たされた頃、官営工場の払い下げの主旨により、明治26年(1893年)に三井家に払い下げされました。

 

 

その後、明治35年(1902年)には原合名会社に譲渡され、御法川式多条繰糸機による高品質生糸の大量生産や、蚕種の統一などで注目されました。

 

 

昭和13年(1938年)には株式会社富岡製糸所として独立しましたが、昭和14年(1939年)には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併されました。

 

 

第二次世界大戦後は自動繰糸機が導入され長く製糸工場として活躍しましたが、日本の製糸業の衰退とともに昭和62年(1987年)3月ついにその操業を停止しました。

 

 

操業停止後も片倉工業株式会社によってほとんどの建物は大切に保管され、平成17年(2005年)9月に建造物の一切が富岡市に寄贈され、その後は富岡市で保存管理を行っています。

 

 

平成17年7月には国の史跡に、平成18年(2006年)7月には主な建造物が重要文化財に、平成26年(2014年)6月には「世界遺産一覧表」に記載されました。

 

 

さらに、同年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となりました。

 

 

 

和田 英(旧姓 横田)の士族の娘の活躍

長野県松代町出身の士族・横田数馬の娘で、富岡製糸場で技術を学んだ伝習工女として活躍をした女性です。

 

 

英は17歳で故郷を離れ富岡に着任するが、工女募集責任者である父・横田数馬の影響をうけ、国益と家名のために自ら進んで工女となった。

 

 

横田家の先祖は奥会津横田の住人山内大学と伝えられ、江戸時代には信州松代藩士として150石の禄を受けていた中級武士であった。

 

 

英の実弟である横田秀雄(横田正俊の父)は大審院長、同じく小松謙次郎は鉄道大臣務めた人物です。

 

 

明治6年(1873年)に富岡製糸場に入場し熱心に器械製糸の技術を学び、地元の西条村製糸場(後の六工社)で技術指導者として活躍した。

 

 

-富岡製糸場

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。