日本三大山城とは、何を根拠に日本三大山城というのか?疑問に思ったので調べました。
三大山城の条件
新人物往来社出版の「日本城郭体系」の中に記述があり、「美濃岩村城」「備中松山城」「大和高取城」を指すとありました。
●理由は/美濃岩村城(現・恵那市岩村町)は、日本一標高の高い所にある山城です。
●理由は/備中松山城(現・岡山県高梁市)は、天守閣が現存する唯一の山城です。
●理由は/大和高取城(現・奈良県高取市)は日本一比高(山頂と麓の高低差)の高い城とある。
この条件に当てはまった城を日本三大山城という事になった。
平成11年2月には、3市町の関係者が第1回日本三大山城サミットが開催され、以後も定期的に開催されています。
百名城に選ばれる条件
日本城郭協会が平成19年に財団法人設立40年を迎える記念事業として選定しものです。
日本各地に残る貴重な史跡であり、文化遺産である城郭の中から、全国の城郭ファンから推薦を受けた推薦データ(平成17年8月〜10月に実施して全国から218件の応募があった)をもとに、専門家による選定会議を行い、討議の上リストアップされた478城の中から100名城に絞り込んだとされています。
標高の高い所に築城された岩村城
全国の江戸諸藩中の山城のなかでも、最も標高が高い所に築城された城郭で、海抜717mにあります。
敵が攻めてきた時に、蛇骨を霧ヶ井戸に投げ込むと、あたり一面に霧がでて敵をくらますといういい伝えがあるから別名・霧ヶ城とも呼ばれています。
▲本丸跡(717m)
▲霧ヶ井戸
美濃国岩村城の魅力
美濃国岩村城は木曽山脈の懐に抱かれた高原盆地にあり、標高717mに鎌倉時代に重臣の加藤景廉が源頼朝に、治承四年(1180年)伊豆で源氏再興の旗揚げをした時、目代・山木兼隆を打ち取り、抜群の功績により文治元年(1185年)源頼朝に遠山荘の地頭に補せられた。
景廉は伊豆、備前、甲斐、木曽、遠江ほかにも荘園を賜った。
遠山荘の広さは恵那郡から木曽の一部に及ぶもので、岩村をその本拠とした。
景廉は頼朝の信任が暑く側近として鎌倉にいたため、景廉が祖になり、嫡男・加藤景朝(のちに遠山景朝)が築城したのが始まりで、美濃遠山の発祥となった。
遠山氏は恵那郡全域や土岐郡、木曽の一部にも勢力を拡げ、東濃の豪族として地盤を強固にして行った。
詰めの城として峻険な山に砦を築城した、この砦の規模が拡大せれ防備が増強され岩村城へと発展していく。
戦国の世まで遠山家は続いたけど、最後の城主・遠山景任が病死して信長の子が養嗣子になっていた為、跡を継ぐが御坊丸が幼く代わりに、信長の叔母で景任の未亡人「おつやの方」が後見人となり女城主になってた。
▲おつやの方
武田軍が攻めてくるまでは、その間約387年間遠山家が続いた。
その後、武田・織田・豊臣・徳川と城主が代って行った。確かに凄い山城です。
山城で天守が残っている備中松山城
市街地の北端にそびえ、通称「おしろやま」の愛称で市民に親しまれてる『臥牛山』標高480m、北から大松山・天神の丸、小松山、前山の四つの峰からなり、南から見た山容が、草の上に伏した老牛の姿に似ているとして、「老牛伏草山」とか「臥牛山」などと呼ばれており、備中松山城は、その頂を中心に全域に及んでいる。
備中松山城の魅力
鎌倉時代に源頼朝に有漢郷(現・高梁市有漢町)の地頭を任じられ、築城は秋葉三郎重信が延応二年(1240年)に砦を築いたことに始まります。
▲備中松山城
現在の「備中松山城」天正三年(1683年)松山藩主・水谷勝宗の手によって完成したものと言われています。
二層二階の天守の他、二重櫓、大手門や櫓の礎石、土塀、高い石垣などが現存してます。
平成九年本丸の一部が復元されました。
天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定されています。
標高430mの臥牛山頂上付近に建つ天守は、現在天守を持つ山城としては最も高いです。
この地は山陰と山陽を結び、東西の主要街道も交差する要地であるため、戦国時代は激しい争奪戦が絶えず、目まぐるしく城主交代が繰り返されています。
その後、高氏、秋葉氏、上野氏、庄氏と城主は移っていき、戦国時代末期、毛利家の支援の下、この地方で力を持つようになった三村氏の居城となった。
三村氏は城の拡張・強化を行うとともに、城下町の整備に努めた。
1574年、父・三村家親を宇喜多直家に暗殺された三村元親は、宇喜多直家に決戦を挑んだが大敗、居城である松山城は庄氏に乗っ取られてしまう。
後に城を取り戻す事に成功したが、直家と和睦した毛利氏から離反して、織田信長の傘下となった。
当然ながら毛利氏から討伐を受けることとなり、小早川隆景によって周辺の支城を次々に落とされると、持久戦を支えきれず城は落城、元親は自刃して三村氏は滅亡した(備中兵乱)。
その後毛利氏の家臣であった天野氏、桂氏が城代となった。
登城坂の周囲は、高さ10m以上の巨大で切り立った岩壁がそびえ、昔日のつわものたちが舌を巻いた”難攻不落の名城”の面影をうかがい知ることができます。
白い漆喰塗りの壁と黒い腰板のコントラスト、空の青に映える美しい天守。
秋には大手門付近の木々が紅葉し、岩壁が燃えるような朱色に覆われる景色は圧巻です。
関ケ原の後、備中代官となった小堀氏によって、根小屋をはじめとする更なる城下町の整備が行われた。
1681年から三年間、水谷氏二代勝宗によって天守建造をはじめとする近代城郭としての修築が行われる。
水谷氏が三代で無嗣廃絶となった後、赤穂浪士で有名な赤穂藩家老、大石良雄が城番として入っている。
その後、安藤氏、石川氏、板倉氏と続いて維新を迎えた。
明治の廃城令を受け、城は城下の商人に買い取られ、根小屋等の麓の建造物は破却された。
山上の城郭建造物は利用価値が見出せず、捨て置かれたまま荒廃していった。
1930年(昭和5)、町の有志によって二重櫓の修繕が行われたのをきっかけとし、1940年(昭和15)には天守の解体修理が行われた。
1941年(昭和16)、天守・二重櫓・三ノ丸土塀が国宝に指定されたが、1950年(昭和25)国宝保存法の廃止により、重文指定に変更された。
山城で日本一比高の高い大和高取城
高取城は、白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建てられいます。
城下町より望む姿は「芙蓉城」(ふようじょう)と呼ばれ、「巽高取 雪かと見れば 雪でござらぬ 土佐の城」と詠われました(土佐は高取の旧名)。
今日ではその姿を想像するしかありませんが、おそらく姫路城のような白い連立した城郭ではなかったかと考えられています。
「山にある姫路城」と言えば、イメージしやすいかもしれません。
登るのが大変な城ですので心して登ってください。
本丸への道中には、何度も折れ曲がっている「七曲り」と呼ばれる箇所や、「重荷を上げることができたら米一升を与える」といわれたほどの急坂「一升坂」があり、高取城は登るのが大変な城です。
このため、植村家の時代には、城主の居所を二ノ丸から下屋敷へと移し、城主は正月などの行事があるときだけ籠で山上まで登っていました。
大和高取城の魅力
高取に城が築かれたのは、南北朝時代、南朝方であった豪農・越智邦澄(おちくにずみ)が、奈良から吉野へと通じる交通の要衝として、芋峠を抑える重要な役割を担っておるため貝吹山城の支城として築いた山城です。
▲霧に包まれた秋の城跡
越智氏の支配が長く続き、山の地形鳴らして曲輪を築き、それを幾段にも連ねて逆茂木や、にわか造りの板塀で防御する中世の城郭であり、いわゆるカキアゲ城でしたが、次第に戦国時代には高取城が本城となっていったようです。
天正元年(1532年)6月の飯盛城の戦いで圧勝した証如軍(一向一揆衆)は大和国に侵攻してきた。
対立関係にあった興福寺の僧兵たちは越智氏のいる高取城に庇護を求めきた。
証書如軍は高取城を包囲し、激戦となったようだが、筒井軍に背後を襲われ証如軍は敗走した(天文の錯乱)。
その後、織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定られ、高取城は天正8年(1580年)に一旦廃城となった。
天正11年(1583年)8月に筒井順慶の配下となっていた越智玄蕃頭頼秀が殺害(自害とも)され、越智氏は滅亡した。
信長が本能寺の変で亡くなったあと、天正12年(1584年)に支城網の一つとして本格的城塞へと改めた。
天正13年(1585年)筒井順慶は伊賀上野に転封となり、秀吉の異父弟・豊臣秀長が入城し、大和国は豊臣秀長の配下となった。
高取城はには当初、秀長の家臣・脇坂安治が入ったが、その後、重臣の本多利久に与えられた。
天正17年(1589年)本多利久は家臣・諸木大膳に命じ、新しい縄張りをもって築造した。
本丸には、多聞櫓で連結された3種の大小天守、二の丸には、大名屋敷が造営され、城内には三重櫓が17基立ち並んだ。
また、郭内には侍屋敷も整備され、他には類をみない広壮な山城が出現した。
家臣団は、山麓の高取市街に城下を営んだ。
本多利久は、天正19年(1591年)に秀長が没し、跡を秀保に仕えたが文禄4年(1595年)に秀保17歳で没したため、利久の子・俊政は秀吉の直臣となり1万5,000石が与えられた。
秀吉亡き後の混乱期に、俊政は徳川家康についた。
慶長5年(1600年)家康の上杉景勝討伐の際に、俊政は討伐軍に加わり不在であった。
この隙に乗じ、石田三成は兵を派遣し高取城を攻めたが、俊政の従弟・正広はこの要害のおかげで西軍を敗退させた。
俊政は関ヶ原の戦いの後、東軍に付いた功を認められ、1万石の加増を受け高取藩2万5千石の初代藩主となった。