美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

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岩村秋まつり 未分類

岩村町の秋祭りは?八幡神社のいわれと武並神社のいわれ

投稿日:2021年10月30日 更新日:

       ▲平安朝の衣装を身にまとった岩村町の秋祭り

 

コロナのために二年続けて秋祭りが中止でした。(神事は行われました)
本来なら毎年10月の第一土曜・日曜日に町民上げて秋祭りが出来たものを残念です。

来年こそは実行してもらいたいと思っています。

 

 

 

岩村町の秋祭りとは

岩村町秋祭り、町東西位置する八幡神社・武並神

お祭りです。

 

八幡神社祀られているのは、岩村城創業といわれる加藤景廉です。

 

 

鎌倉時代の武将・加藤景廉は・剛勇闊達なる武将として源家三代将軍に仕え頼朝と共に鎌倉幕府を創建に寄与してきた。

景廉の生涯は源氏三代の歴史と共に歩み、また源氏三代に終焉を垣間見てきた武将の一人だったんです。

 

 

一方武並神社には、嫡男・加藤景朝祀ってあります
加藤景朝は父の替わりに岩村城を築城し、この地方を治め承久の乱にも出動した人物です。

 

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岩村の秋祭りの初日は武並神社から八幡神社へ親子対面の儀式

行列を整え武並神社に祀ってある遠山景朝が神輿に乗り、城内にある八幡宮の父・加藤景廉の所へ対面に行くという祭礼は、松平乗寿が創始による。(秋祭り行列の記事は後日書きます)

 

 

この神輿は、現在も武並神社祭礼(秋祭り)の主役をつとめている。

祭礼時にはこの神輿に武並神社の配神である、岩村城主遠山景朝が乗り、岩村城創築の祖である、父・加藤景廉が祀られている城内八幡宮へ行って親子対面し、一夜を共に過ごすとされています。

 

 

岩村町の秋祭り「神輿渡御※1行列」は、平安町の歴史衣装を身に纏った総勢300人が武並神社から城下町を登って八幡神社までゆっくり練り歩く行列です。

尚、この秋祭りは県重要無形文化財に指定されてます。

 

 

神輿渡御※1は、長さ500mに及ぶ行列を整え、神輿を奉じて遠山景朝を配祀する武並神社から岩村城内の鎮守である城山八幡神社へ参向する行列です。

※1.神輿渡御(しんよとぎょ)とは、神幸祭は神霊の御幸が行われる神社の祭礼のこと、または神幸式とも言います。

多くの場合、神霊が宿った神体や依代などを神輿に移して、氏子地域内に御幸したり、御旅所や元宮に渡御したりします。神輿や鳳輦※2の登場する祭礼のほとんどは、神幸祭の一種と言えます。▲

※2.鳳輦(ほうれん)とは、屋根に鳳凰の飾りのある天子の車」を意味する言葉で、日本においては古くから、天皇の正式な乗り物を意味するほか、現代では、神社の祭りなどに使われますが鳳凰の飾りがある神輿を意味します。

 

 

行列は穏やかで格式高い雅楽の音色に合わせ進みます。

この行列は徳川時代に、大給松平家の宗家の松平家乗が岩村城へ入封してきた、第二代・岩村城主・松平乗寿が武並さんを創設。

 

 

武並山に祀られている遠山景朝のご神体を、新たに武並神社として寄進したのが松平乗寿公で、武並神社から八幡神社の祭神・加藤景廉もとへ親子対面を果たし一夜を過ごし、翌日に武並神社へ帰っていく行事です。

 

 

時代衣装を身に纏った総勢約300人が列の長さ300mの及ぶ行列を西に位置する武並神社を出発、岩村城下町約1700mを練り歩き八幡さんまで行く行事です。

 

 

衣装・道具共に江戸時代から伝承されており、目を惹くのが、美しい色合いの衣装です。

平安朝の衣装、着衣、鳥帽子が着用っされ、また、御神馬(模型の馬)に使用する飾馬具は天保の頃のものが使われています。

 

 

私の意見:御神馬が模型だから文化財と言えるのか、昔しは本物の馬を使用して、それはそれなりに祭りを盛り上げてた。恵那市長考えるとこです。

 

ここで一言岐阜県知事と恵那市長に

この恵那地方は、加藤景廉が城を創ったことで、今の東濃地方があると思います。
その岩村町にある八幡神社武並神社を修繕もしない荒れ放題にしておくことが気に食わない一庶民です。
無駄な予算を削り、歴史ある大切な社を後世まで残す事を考えてください、お城の再建よりも藩主邸の再建は大事ですが、まず歴史ある神さんを大事にしてほしいです。

 

 

 

廃藩置県までは八幡宮は城内にあった

城内八幡宮は、(岩村藩神社調べ)承久年間(1219年〜1221年)鎮座※1とあるが、城が築かれた頃から鎮座したものであろうと推察します。

※1.鎮座とは、神霊が一定の場所に鎮まっていること。「天照大神」の鎮座する社。人や物がどっしりと場所を占めていることを、多少揶揄(やゆ)の気持ちを込めていう語。例えば「大きなテレビが床の間に鎮座している」。

 

               ▲場内にある八幡宮跡

 

            

                ▲位置を示す古絵

 

誉田別命(ほんだわけのみこと)を祭神とし、岩村城創築の祖である加藤景廉配神※2として祀ってある。

※2.配神とは、ある神社について、そこに祀られている神を指す言葉です。

 

 

加藤景廉は承久3年(1221年)に没しているにで承久年中鎮座としたものであろうと子息されます。

 

 

中世から江戸時代にかけて城内鎮守の神として歴代城主及び家中の崇敬が篤かった社です。

 

八幡宮は場内にあったため民間の参拝は許されなかったが、苗木と明智の遠山家からは毎年参拝がなされた。
これは岩村遠山氏が美濃遠山氏の宗家であり始祖・景廉への礼拝を意味している。

※上記の庶民の参拝は許せなかたの記事は、秋祭りの記事で書きます。

 

 

幾多の城主の交替はあっても八幡宮への崇敬は変わらなかった。
城内の八幡宮は本丸の北にあり、社殿の側の橋は八幡櫓と称して北方監視の望楼とした。

 

 

永正5年(1508年)の棟礼など4枚が岐阜県指定を受け、景廉公の木造と数多い絵馬は町指定です。

□本社造立及修理の棟礼□
1.永正五年十一月 遠山頼景 代官 近藤六郎右衛門
1.天文十六年霜月十日 遠山景前 遷宮師
1. 元和八年霜月 松平乗寿 神主 沼田両太

   ▲樹上の鷲        ▲七福神

樹上の鷹は、寛文11年(1671年)岩村城主・丹羽氏純が八幡宮に奉納。

七福神は、貞享元年(1684年)岩村城主・丹羽氏明が八幡宮に奉納。

 

 

江戸時代になって神宮寺ができ、大給分家・松平家の時代になって薬師寺が下段に置かれた。

 

薬師寺は信州小諸(松平乗紀が大給分家の初代・岩村城主)にあったのを松平氏の国替と共に岩村城内に移した。

城内八幡宮神官法印とで奉仕した。

 

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明治になって八幡神社になって遷宮された

明治6年(1873年)4月岩村城の廃城(廃藩置県)により大路弁財天社内へ遷宮した。

現在の八幡神社の場所は岩村町上町(かんまち)です。

 

                ▲現・八幡神社

 

八幡宮の創始は岩村町内の領家地内(現・岩村駅の付近)との説のありますが、遠山氏は最初に居館を領家に置いたことから否定はできない。

 

 

 

岩村町の武並神社は松平乗寿が武並山に造営した

武並神社大己貴神(おおなむちのかみ)を始め諸神を祭神とし、配神として遠山景朝を祀っている

 

 

遠山景朝は父・景廉が鎌倉にいて鎌倉幕府の初代将軍・頼朝の側にいて岩村城の方は景朝が築城し、守護・地頭をして遠山荘を守っていた。

 

 

この武並神社が、いつの頃から武並山に鎮座したかについては諸説あって、神社調べは延文元年(1356年)とあり、大永年間(1521年〜1528年)という説もある。

 

 

巌邑府誌では、武並の本廟※2はもと龢ら蕨(わら)平にあったと書いている。

※2.本廟(ほんびょう)とは、祖先・先人の霊を祭る建物。おたまや。「香椎(かいし)廟」「レーニン廟」。神社。社。祠。王宮の正殿。東西に庇のある建物で、政治を行う所。

 

 

しかし、武並神社を遠山氏の氏神とし、武並神社を奉じて遠山氏が領内各地に散在しているので鎌倉中期から末期には存在していたと考えられる。

 

               ▲現・武並神社

                  ▲本殿

 

当初の社殿は、ささやかな小祠であったが、寛永8年(1631年)藩主・松平乗寿(のりなが)武並山上に壮大な社殿を造営した。

※このお殿様は、大給松平家本家の松平乗寿で、とても信心深く「祥雲寺・庚申堂」「七年毎に御開帳する石室千体仏」を創設した。岩村城を転封した後は、出世城というわれる浜松城に後に老中になっていく。

 

城下町の氏神として多くの参拝者があり、行列を整え遠山景朝が神輿に乗って、城内八幡宮の父・景廉へ対面に行くという祭礼は乗寿の創始による。

 

大正4年(1915年)9月に一色天王山へ遷宮され武並山は遺跡となった。

 

 

行列の後は、町指定の獅子舞を

岩村町獅子舞保存会による各地区で路上ライブをお楽しみください。
記事は(秋祭り行列の記事と共に書きます)。

            ▲秋祭りの夜に路上ライブ・獅子舞

 

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