美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

大井宿

中山道宿場町の大井宿の横町、本町、竪町、茶屋町、橋場の旅籠配置図

投稿日:2022年1月6日 更新日:

大井宿とは?どのような宿場か?

恵那郡大井村だから岩村領かと思っていたけど、ここだけは違う尾張藩の管轄だった。

 

 

中山道の江戸から数えて46番目の宿場、美濃国恵那郡大井宿は尾張

領、江戸の方から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場の5町、それぞれの町は6ヶ所の枡形によって区切られています。

 

 

大井宿から槙ヶ根追分を経って、下街道を利用する旅人も多く利用してた。(川越街道の大井宿(現・埼玉県ふじみ野市)とは別です。

 

 

宿場町だから旅籠が軒を連ねて建ち並んでいる町並みを想像して賑やかだったと思います、旅人が旅籠に泊まり或いは休息をとり、また旅を続けるという宿場町だったろうか?

 

   ▲大井宿だ〜と喜ぶ弥次喜多

 

 

大井宿は大切な任務を持った宿場町だった

その任務とは?

常に一定数の人足や馬を用意していた、これを宿人馬といいます。
大井宿は幕府関係者などの公用旅行者や参勤交代の大名などの要請に応じて、隣町の中津川宿や大湫宿まで遅滞のないように人と荷物送り届ける輸送業務があった、

 

手紙や荷物を隣宿まで届ける通信業務。

旅行者に宿泊や休息の施設を提供する宿泊業務。

 

      ▲中山道の大井宿

上記の料理旅館いち川のHPは  

ここです。

 

料理旅館いち川
江戸時代の寛永年間、初代市川左右衛門が旅籠屋「角屋」を創業。
中山道大井宿に存在した41軒の旅籠屋で唯一、今現在は第16代の若女将が考案した料理でお客さまを「おもてなし」してお迎えしています。

 

菅原神社
江戸時代の初め、慶長年間の創建といわれ、学問や商売繁盛などの神様といわれています。

大井宿石仏群
宿場のはずれに石仏を建てて、悪病やハヤリ病が宿場に入るのを防ぎ、宿場の安泰と繁栄を祈りました。
徳本和尚の南無阿弥陀仏の碑やたん切り地蔵など、珍しい石仏が並んでいます。
I

 

高札場
江戸幕府の定めを知らせる掲示板、当時のお上のご威光を庶民を見下ろす格好に高札が掲げられた。

 

延寿院横楽師
戦国の頃ここへ移り住み、家内安全、病気平癒を祈る人が多かった。
本尊の薬師如来は行基※1の作といわれています。

※1.行基(ぎょうき)とは,668年和泉国大島郡(現・大阪府堺市)で生まれ、15歳で出家したのち、仏道修行を経て、民間布教や社会事業に尽力します。後に聖武天皇の帰依を受け、東大寺の大仏造立に奔走、ついには日本最初の大僧正の位を授けられた。82歳の波乱万丈の生涯でした。

 

茶屋
旅人を泊めてはいけない定。茶屋はお茶を出し、甘酒・あじご飯・柿栗・駄菓子・草履・わらじなどを扱う店、「みたけ屋」は特に餅が美味しく餅屋勘兵衛と街道筋で評判になりました。

 

毘沙門天
大井城の北の守りとして祀ったもので、その後位置が変わり現在の場所に移りました。

 

長国寺
行基が創建し根津甚平が再興したといわれる,曹洞宗の禅寺です。西行法師葬送の寺ともいわれ、西行の本草は兵火で焼失したものの位牌は現在も残っています。

       ▲長国寺

 

大井宿本陣跡
大名などの身分の高い人が「泊る家です。
昭和22年の火災で上段の間のある建物は焼失してしまいましたが、表門や庭園、老松は昔のままです。

       ▲本陣跡

 

内城稲荷(根付け石)

内城稲荷に祀られている「根付け石」は、当時の千旦林城主・吉村七郎左衛門源斎が伊勢神宮に参拝の折、五十鈴川にあった石が煙草の「根付け」にちょうど良いとして、この地に運んだものです。

 

重さは50Kほどで武勇の誉れ高い源斎の逸話話になっています。

吉村源斎は戦国時代に周辺を支配した地侍で、武勇だけではなく、知略、人望に優れ、その名声は他国まで轟いていたため、その名声を聞いた武田信玄は是非家臣になって欲しいと高待遇で要請しましたが、日頃から恩があった領主に義理立てし丁寧に断りました。

 

 

それに怒った信玄は大軍を差し向け、源斎は自らの行為に従った領主や家臣、領民達に迷惑をかけれないとして一人で大軍に立ち向かったと伝えられています。

 

どこまで本当の話しかは分かりませんが、この「根付け石」や源斎が討ち取られた場所である「源斎岩」などが伝承として伝えられています。

又、境内は修験僧の道場であった神子母神社が鎮座していましたが、その後、小学校や町役場として利用され現在は城ケ丘保育園になっています。

 

 

      ▲内城稲荷

庄屋の家
大井村には井口・林・宮原・高木・村松・勝野・佐伯・古屋などの庄屋があった、その一件です。

 

枡形跡(市神さんの前)

お正月の七日に開催される大井町の市神神社の例祭で、350年の伝統を誇る。

市神神社は福の神とされ、七日市にはお札さまを迎えて、1年間の家内安全と商売繁盛を祈る。

 

幕府のお達しにより宿場の道をわざわざ直角に曲げて造った交通の要害です。
宿内の「六カ所」で折れ曲がっており、こんなに数が多く整然としているのは道中の一つです。

 

▲市神神社。通称市神さんでゑびす祭りが行われます。

 

大井橋(大橋・中島橋)
幅2間・長さ23間の欄干付きの木橋でした。
そえれより前は川の中央に石で小島をつくり、橋を二つかけていました。
そのため「中島橋」といいました。

                 ▲大井橋

 

中山道六十九次東海道五十三次などと呼ぶ「六九」「五三」の宿場は、みなこのような任務を果たすために設けられた宿場のこと。

 

 

五街道やその他のいくつかの重要な脇街道(脇往還)は幕府の道中奉行の支配を受け、そこにある宿場は、幕府など公用旅行者を中心に、運輸・通信・宿泊の三つの業務を遂行してきた。

 

 

こような制度を宿場制度といい、そのような宿を宿駅といいます。
宿場は全国諸街道の諸所にあるが、宿駅は宿駅制度の適用される街道にしかない。

 

 

宿駅道中奉行の支配のもとで宿駅の設置や役人や宿人馬を用意し輸送・通信・宿泊の業務を行うのだが、宿場木賃宿旅籠屋茶屋などがあり、宿駅と同じに旅人を宿泊させたりするので、宿駅宿場もその区別が曖昧になり、宿場という言葉がより広く一般的に使われ定着している。

 

 

宿場のなかで輸送通信の業務をするところを「問屋」とか「会所」という。

 

 

大井宿の問屋は二ヶ所あり、一つは上本町の本陣前にあり上問屋といった、もう一つは本町中央の脇本陣の東隣の下問屋といった。

 

 

そして輸送や通信業務の采配の責任者を「宿役人」といい、その最高責任者を「問屋」問屋を補佐する役が「年寄」といった。

 

 

その指摘下で実際の継立業務の采配を行う者を「下役」といい、帳付・馬指・人足指・書役・定使などがいた。

 

 

そして実際の運送の仕事に従事する人馬を「宿人馬」といい、隣宿の中津川宿大湫宿まで、公用を中心に送り届けていた。

 

 

宿人馬は大井宿の人足や馬が負担し一定数の人馬を毎日用意していた。

宿人馬の数は幕府が決定、東海道は100名100頭、中山道は50名50頭の時代が長く続いた。

 

 

大井宿の宿人馬は最初最初10名の人足と25頭の馬であったが、その後25名25頭に増え、漢文5年(1656年)に50名50頭となったが、宝永元年(1704年)に25名25頭となって天保14年(1843年)まで続いた。

 

 

この年の2月道中奉行の役人の廻宿があり、中山道各宿50名50頭の常備を命ぜられた。

 

 

宿場のもう一つの大切な任務は、公用旅行者などに休泊の施設を提供することで、そのために本陣と脇本陣と旅籠屋と木賃旅と茶屋があった。

 

 

宿泊のうち大名などの休泊するところを本陣といい、本陣に差し支えのあるときは脇本陣を使った。

 

 

本陣や脇本陣は、一般旅行者の休泊する旅籠屋と異なり、玄関や書院付きの部屋があり、門構えがあるのが多かった。

 

 

 

大井宿の概要

大井宿は、江戸の板橋より数えて46番目の宿場で、江戸へ約87里、京都へ47里の位置にあり、隣町の中津川宿へは2里半・大湫宿へは3里半。

 

大井村の中山道は茄子川村境(現・中津川)より、西は中野村境まで32町6間であるが、大井宿は上宿五妙坂にある大井宿高札場から、西は阿木川に架かる大井橋までの6町半。

 

 

町は東から横町・本町・竪町・茶屋町・橋場と並び、隣接した町がほぼ直角に結び付き、そのために道が六か所で折れ曲がって「枡形」を造ってます。

      ▲大萎縮の配置図

 

本町の道幅は4間(1間は1.8m)一部にはそれ以上の所もあります。

横町や竪町や茶屋町や横町は本町より狭く半分の二間程です。

 

用水は2流れあって、御所の前から流れて宿内に入り上本町の南側を流れ、石橋下を潜って、本町北側へ流れる。

 

小路川は阿木川から導いたもので、御所の前から下本町へ流れ本町や竪町の町裏を北流しで、阿木川へ流している。

 

 

横町角に延寿院横薬師があり、横町の南端の角に本陣、その裏に宝昌院がありました。

 

 

そして阿木川には長さ23間・幅2間の高欄付きの大井橋が架かっていました。

        ▲本陣跡

 

 

天保14年(1,843年)の調べでは、宿内には110戸のの家が軒を並べ人口は466名(男245名・女221名)で、旅籠屋は41軒、その中で大きい旅籠屋が4軒・中ほどの旅籠屋が33軒・小さい旅籠屋が14軒ありました。

 

 

幕末文久元年(1861年)の各町別の戸数は、橋場に10軒・茶屋町に19軒・竪町に21軒・本町に47軒・横町に18軒合計115軒ありました。

 

そのうち旅籠屋数は44軒で、そのうち3軒は茶屋を兼ね1軒は商売を兼業していました。

このほかに茶屋が4軒、商売屋が10軒ありました。

 

 

予想以上に多かったのが百姓家で40軒、宿場町なので旅籠屋が多いのは当然ですが同数の百姓家があったことには驚きです。

大井宿本陣は横町の角にあり、間口24間・奥行き22間で、建坪151坪(約500㎡)正面に表門に並んで長屋門を持つ豪壮な建物です。

 

 

脇本陣は本町の中央部の南側にあって隣には問屋場があり、公用の人達や荷物の輸送事務を行う問屋場(会所ともいう)は、本陣前の上本町に上問屋があり、本町の中程の脇本陣の東隣りに下問屋がありました。

 

ここでは宿役人の問屋・年寄りに下役の帳付け・馬指・人足指・定使い・などが忙しく働いていたといいます。

 

 

これら宿役人や下役は、15日交代でそれぞれの役の者が一人ずつ問屋場へ出て仕事をした。

 

 

しかし重要な方の通行の時や大通行の場合は、宿役人も下役も全員が出て勤務して業務にさしつかえないようにした。

 

 

本町は道幅も広く、東の端に本陣があり、両側には脇本陣や問屋場が建ち、間口10間・8間という大萎縮の中でも特に大規模な旅籠屋や商売屋軒を連ねて、まさに大井宿の本町らしい様相を呈していた。

 

 

また、大井宿の大井橋を出ても中山道沿いも賑わっていて、大井町は昭和40年頃までは繁栄していました。

 

 

-大井宿

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。