美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

尾張藩領

中山道宿場町の大井宿は名古屋尾張藩の領地になったわけ

投稿日:2021年12月10日 更新日:

 徳川時代以前は大井村は岩村領だったけど、関ヶ原の戦いで家康が勝利し西軍に加担した岩村城主・田丸直政の土地を取り上げ区分けしたときに幕領になった。

 

 

岩村城遠山景朝遠山荘(現在の恵那市・中津川市の大部分と瑞浪市陶地区)を父・加藤景廉から相続して守護・地頭となり統治していた地域。

 

 

 

江戸時代に入って区分けされ幕領となった

 関ヶ原の戦い後、徳川家康は幕府の支配体制を図るために、それまで豊臣家の蔵入地であった土地や西軍に味方した諸大名の所領を没収し、これを幕府直轄領(天領・幕僚ともいう)・旗本領・譜代大名とし、幕府の基礎を固めた。

 

 

美濃国内では豊臣家蔵入地※1は3,8000有余石を数え、また、岐阜中納言・織田信秀をはじめ美濃国の諸大名は西軍の石田方に味方したために領地を没収され、全国的に稀にみる細分統治を実施していった。

※1.蔵入地(くらいりち)とは、戦国時代から江戸時代における領地区分の一つです。
大名もしくは政権、幕府の直轄地のことをいう。
所領のうち、家臣へ与える知行地に対するもの。
蔵入地には、代官を派遣して直接支配を行い、年貢・諸役などの徴収にあたった。

 

※上記の石田方をクリックしていただくと「関ヶ原の戦い」の数日前に、東軍に味方した者、西軍に味方した者、の「東濃の戦い」の記事が書いてあります。興味ある方は読んでくださ。​​​​

 

 

最初、美濃国における幕府直轄領の支配の任にあたったのは、大久保石見守長安であった。

 

 

彼は能役者の子として生まれ、武田信玄に仕えていたが、その非凡な経営才能を見出されて家康に登用され、美濃国奉行に任命されて岐阜靭屋町(うつぼやちょう:現在の岐阜市本町付近)に陣屋をおいて指揮をとった。

 

 

大久保石見守長安は「木曽衆」の山村甚兵衛道祐を木曽代官に任命し、木曽山・木曽川・飛騨川の一貫支配を命ずると共に、木曽川流域の要地※2である兼山・錦織・上田(以上は可児郡)、円成寺(葉栗郡)、を次々に幕領に吸収し、木曽材の搬出の便を図ったのである。

※2.要地とは、重要な地点。大切な地点。

 

 

また、道祐・良勝・良安の父子三代を木曽代官に次々と任命木曽材伐採に当たらせた他、配下の代官を兼山・岐阜などの要衛に配し、人足を動員させて木曽材搬出させた。

 

 

一方、岐阜町や牧谷地方(現・美濃市)の美濃紙や曽代糸の集散地である長良川の上有知湊※3や揖斐川の栗舟着・鳥江’(現・養老町)など三湊をも幕領に組み入れるなど、政治・経済・軍事面における要衛は、すべて幕府の直轄領としていった。

※3.上有知湊(こうずちみなと)とは、長良川沿い岐阜県美濃市にある川湊。船着場跡の石畳、住吉型川湊灯台が今でも残っています。県の指定文化財です。▲

 

 

 

東美濃の恵那地域は

恵那地域では、「五百拾弐石六斗四升 大井村」がただ一ヶ村この時期には幕領でした。

 

       ▲大井村が尾張領となって中山道46番目の宿場町となった。

 

なお、国史料により慶長六年(1601年)代における大久保石見守長安支配地を群別にみると図のように成る。

 

 

総村数は85村に及び幕府直轄領の様子が伺えます。

その後、大久保石見守長安は慶長十八年(1613年)病没したが、死後に生前中の不正が発覚し、一族は処断されて失脚、その後を受け継いだのが岡田将監善同でした。

 

 

このような推移の中で、慶長十七年(1612年)に尾張藩領が美濃国内に設置され、幕府直轄量は次第の減少し、代わって尾張藩領が増大することとなった。

 

 

家康の鶴の一声で美濃の尾張藩領が増える

お坊ちゃんである藩祖・徳川義直が、尾張一国を与えられたのは、慶長十二年(1607年)当時八歳で家康の九男・紀伊家・木戸家の兄であったことから尾張藩はいわゆる徳川御三家の筆頭と称された。

 

当初は清洲城にいたが、名古屋城の完成を待って移った。

慶長十七年(1612年)はじめて美濃国のうち葉栗・中島・可児郡の木曽川沿いの十二ヵ村、石高にして567石9斗7升6合が尾張領に組み入れられた。

  ▲これは奈良井宿の写真です、この風景がなんともいえない雰囲気を出してる。

 

ついで、元和元年(1615年)豊臣氏を滅ぼした家康は、大阪からの帰途、名古屋に立ち寄り藩主・義直の結婚資金と称して木曽山及び木曽川沿岸美濃国57ヶ村、3万2,282石7斗5升7合を加増した。

 

 

ちなみに、「元和弐年美濃国村高御領知改帳」(恵那市資料編)の冒頭に次のように記録されている。

「宰相様へ美濃内渡申分
高三万九千八百五拾石七斗三升三合
 内
七千五百六拾七石九斗七升六合ハ 子の年渡ル分
三万弐千二百九拾弐石七斗五升七合 卯ノ年渡ル分」
とある。

 

 

また、この時木曽代官であった山村氏も尾張藩の配下に組み入れられたが、同時に幕府代官として木曽福島の関守も兼ねるという特殊な身分となった。

 

 

なお、この年に尾張藩地なった諸村です↓。
可児郡→錦織村、兼山村、河合村、上田村、みたけ本郷、中村、送り木村、伏見村、明知村、岡戸村、矢迫間村。

 

 

加茂郡→下麻生村、下吉田村、下飯田村、上古井村、大田村、深田村、勝山村、上吉田村、比久見村、今村、栃井村、牧野村、福島村、信友村、小山村、西脇村、佐倉村、山ノ上村、野原村。

 

 

武儀郡→上有知村、松森村、須原村、西神ノ村、神野村、下保村、小野村、保木脇村、上ノ保村、中ノ保村、曽代村、大野村、志津野村、志摩村、上いくし村、加渕村、上麻生村、切原村、篠洞村、金山村、坂ノ東村、河和村、吉田村。

 

恵那郡→付知村、川上村、加子母村、大井村

以上。

 

これらを含めて、尾張徳川家総領地61万9,500石となった。

 

その尾張藩から第12代尾張藩主・徳川斉荘の釣姫が岩村藩に正室となって嫁いできた。

※上記の釣姫をクリックすると関連記事があります。

 

-尾張藩領

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。