NHK「鎌倉殿の13人」ドラマの中で頼朝は、坂東武者の御家人の中から源氏のために活躍してた、上総介広常をどうして殺害してしまったのか?
坂東を束ねたい上総介を、いくら平氏の累代といえ、父の代から働き、いまは頼朝のために働いてくれてた御家人、確かに態度は大きいがやる時はやる男とみました。
上総介の系図
広常は、平忠常を祖とする房総平氏です。
上総介として上総・下総2ヶ国の所領を持ち絶大の勢力を持っていた豪族です。
上総介は官位であるので正式名称は平広常が本当です。
そんな上総介広常は、どんな人物だったか?
房総平氏惣領家・頭首で、源頼朝の挙兵に呼応して平家との戦いに参戦した。
▲勢力範囲
生年は不明で、通称「介八郎」といったことから八男だった。
上総権介・平常澄の八男で嫡男。
12世紀末上総国の公領・荘園は上総氏がその殆どを所領化しており、広常はかかる一族の家督、惣領として上総国衙※1最高力在庁たる「権介」として。ほぼ一国規模で封建的軍事体制確立しつつあった。
※1.衙(が)とは、役所。
上総広常は頼朝の父・義朝の平治の乱から参戦して戦っていた
上総広常は、保元元年(1156年)の保元の乱では源頼朝の父・源義朝に属し、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍、義平十七騎の一騎に数えられていた。
平治の乱後、平家の探索をくぐって戦線を離脱し領地に戻る。
源氏が敗れると平家に従っていたが、父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常成との間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり、この兄弟間の坑争は後の頼朝挙兵の頃まで続いている。
治承3年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任じられると、広常は国務を巡って忠清と対立し平清盛に勘当されたてくさってた。
上総広常が大軍を率いて頼朝軍に参戦する
治承4年(1180年)8月に頼朝が平氏打倒の兵を挙げ、9月の石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、安房国で再挙を図ると、広常は隅田川辺に布陣する頼朝野もとに2万騎を率いて参上した。
広常が大軍を引き連れてきたのに頼朝は喜ぶどころか、逆に遅いと咎めた。
その言葉に広常は喜び頼朝と和順※2したとされる。
※2.和順(わじゅん)とは、穏やかに従うこと。
頼朝挙兵以前に頼朝の使者に対して参戦すると頼朝に了承の返事をしてた、ただ船の都合で遅れた。
治承4年11月の富士川の戦いの勝利後、上洛しようとする頼朝に対して、広常は常陸源氏の佐竹氏討伐を主張した。
広常は、その佐竹氏とも親戚関係があり、佐竹義政・秀義兄弟に会見を申し入れたが、秀義は「すぐに参上できない」と言って金砂城に引きこもった。
兄の義政がやってきて2人だけで、家人を退けて話そうと橋の上に義政を呼び寄せて広常は義政を殺害してしまう。
その後、頼朝軍は金砂城の秀義を攻め敗走させる。
『吾妻鏡』には、広常は頼朝配下の中で、飛び抜けて大きな兵を持っていた。
頼朝に対して無礼な振る舞い多く「3代の間、未だその礼を為さず」と下馬の礼をとらず、他の御家人に対しても横暴な態度で、頼朝から与えられた水干※3 のことで岡崎義実と殴り合いの喧嘩に及びそうにもなったと記されている。
※3.水干(すいかん)とは、男子の平安装束の一つ。名称は糊を付けず水をつけて張った簡素な生地を用いるからとも、晴用雨用に便利なため(『続深窓秘抄』)ともいうが、いずれにせよ簡素な服装である事からの命名のようである。
『吾妻鏡』は鎌倉時代後期の編集であり、どこまで正確なものか不明です。
上総広常、梶原景時に暗殺される
常日頃広常は、頼朝が京都の朝廷に関心をもちすぎ、気を遣うことに不満を持っていた。
朝廷と連携して平氏打倒を目指す頼朝と、東国の独立心に燃えていた広常とでは、根本の考え方に違いがあったのでしょうか‥‥
寿永元年(1182年)になると広常と頼朝との対立が激しくなったとされているが、対立がはげしかったのは寿永元年以前であり、寿永元年になると両者の関係は以前にました改善されたとする指摘がある。
寿永2年(1183年)12月、御家人を集めて謀反の企てがあるとの噂から頼朝に疑われた広常は、頼朝の命を受けた侍所所司の梶原景時に鎌倉の御所内で暗殺された。
広常は景時と双六に興じていた最中に景時は突然盤を飛び越えて広常の首を掻き切った『愚管抄』。
嫡男・上総能常も同じく討たれた、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏などに分配され。
広常が暗殺された寿永3年(1184年)1月17日、上総一宮から広常が納めた「小桜皮威の鎧」が頼朝のもとに届いた。
その鎧から一通の書状が結び付けてあり、そこには謀反を思わせる文章はなく、頼朝の武運を祈ることが書いてあった。
書状には
一.三箇年のうちに、神田二十町を寄進すること。
一.三箇年のうちに、神殿の造営をすること。
一.三箇年のうちに、万度の流鏑馬(やぶさめ)を射ること。
という計画が記され、これらの事を行うのは「頼朝の祈願成就と東国泰平のためのものである事」が記されていたといいます。
頼朝は広常を殺した事を後悔し、即座に広常の又従兄弟の千葉常胤預かりとなっていた一族広常の弟・天羽直胤、相馬常清らが、広常の忠義免じて赦免したとされる。
ただし、没収された所領については、返還されることはなかったといいます。
もっとも、願分発見の逸話も広常の粗暴な振舞いの逸話と同様、鎌倉時代後期編集の『吾妻鏡』にしか見られず、信憑性は不明です。
広常の死後、千葉氏が房総平氏の当主を継承した。
のちに上洛した頼朝は後白河法皇から広常を殺した理由について問われ、「広常は最大の功臣の一人だったか、天皇に対して謀反心を持っていたので殺した」と述べています。
頼朝に宣旨が下って東国行政権が国家的に承認されるに及び、元来頼朝にとっての最大の武力基盤であった広常がかえってその権力確立の妨害者となっていたことが謀殺に繋がったといえる。
慈円の『愚管抄』(巻六)によると、頼朝が初めて京に上洛した建久元年(1190年)、後白河法皇との対面で語った話として、広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常で、平氏政権を打倒することよりも、関東の自立を望んでいたため、殺させたと述べたことを記している。
これも頼朝が後白河法皇に話したという内容ですが・・・
広常は、「関東の自立を考えていたから殺害した」というのが頼朝の主張のようです。
広常が暗殺された年の10月、頼朝は朝廷から「東海道・東山道の沙汰権」(寿永二年十月宣旨)を得ています。