頼朝の妻・政子の妹、実衣、義時の妹・実衣が北条家を切り盛りしている。
実衣が重要な人物になったのは、頼朝の異母弟・阿野全成と結婚、そして実朝の乳母になったなったことから政治に絡んでくる。
実衣は苦難の多い人生を送るようになってくる。
ドラマ「鎌倉殿の13人」の中でに名前は実衣だが、実際は本名も生まれ年もわかりません。
▲阿波の局(実衣)イメージ
鎌倉幕府によって編纂された歴史書『吾妻鏡』では、「阿波局」という名で記されていて、実衣は義時と同じ母親から生まれた、正真正銘の実の姉か妹にあたる。
幸せな阿波局こと実衣と阿野全成の結婚
北条家の発展を陰で支えた政子の妹・阿波局(実衣)は、同じく異母兄・頼朝を懸命に支える阿野全成と結婚した。
阿波局は北条時政の三女として生まれ、姉の政子や兄・義時を陰で支えた。
▲北条時政の系図
阿野全成は幼名・今若で父・源義朝の七男として生まれたが、母は常盤御前で同母兄弟に乙若(義円)と牛若(義経)がいる。
▲頼朝の兄弟
平治の乱で父・義朝を失い捕縛された全成だが、母・常盤御前が平清盛に懸命の命乞いをしたため、京都の醍醐寺に入って出家した。
治承4年(1180年)の、兄・頼朝が挙兵すると、すぐ駆けつけて頼朝の信頼を得ている。
頼朝が鎌倉に入って幕府を開くと武蔵国長尾寺の別当に任じられ祈祷を命じられると共に駿河国阿野を領地に与えられたため阿野全成と名乗った。
北条時政の三女で姉・政子や兄・義時を懸命に支える実衣(阿波局)と結婚し、政治的に力を持つようになった北条家のおかげで平穏無事に暮らせるようになって、子も沢山できた頼保・頼高・頼全・時元・道暁・頼成・四条隆仲室(女)・藤原公佐室(女)をもうけている。
第3代将軍・実朝の乳母に任命される
建久3年(1192年)、頼朝と政子の三男・千幡(のちの実朝)が生まれると阿波局が乳母となるが、正治元年(1199年)に義兄の突然の死よって阿波局は、政治の動乱に巻き込まれていく。
乳母となった女性は、日常的な世話だけではなく、養育も任されので千幡の思想や価値観に大きな影響を及ぼすようになる。
また、この当時では武士の妻が乳母になると、その夫は乳父(めのと)という立場になる。
乳父も平常時でも戦が起った時でも、その子第一に忠節を尽くして働くことがしきたりであり、務めであった。
それだけで乳母とその一族との間には強い絆が生まれえてくるのである。
絆だけでなく、その子が成人して親の権威を引き継ぐようになると、当然乳父も権威を持つようになるし、政治的な事への発言権も持つようになるのだから、大切に育てなければいけない役目です。
だから信頼できる人じゃないと乳母や乳父を任せられないってことです。
頼朝と政子にとって、阿波局夫婦はうってつけの人選だった。
それと阿波局の産んだ子が将軍になろうとするのを阻む意味合いもあった可能性もある。
なぜなら、阿波局の夫である、阿野全成も源氏の血を受け継いでいるのだから、阿波局が産んだ男子も、頼家や実朝同様に征夷大将軍に就く資格はある。
しかし、阿波局が実朝の乳母となり、全成が乳父となれば実朝の家臣となるわけだから、当然家臣の子が将軍の座に就くことなどできないし、許されることではない。
それに、阿波局夫婦を実朝の乳母にしてしまえば、自分の子を将軍にするなど考えることすらしないだろう、という頼朝夫婦にあったかもしれない。
源頼朝の死後、嫡男の頼家が二代目将軍に座に就いだ。
頼朝が定めた頼家の後見人は梶原景時で、嫡男・頼家の乳父・比企能員の比企氏は北条氏からは敵視され警戒されたて対立が激化する。
阿波局のチクリの一言で梶原景時滅ぶ
梶原景時の変で阿波の局は大きな役割を果たすことになった。
事の起こりは、正治元年(1199年)頼朝が亡くなって9ヶ月後の、10月25日のこと、頼朝の近習だった結城朝光が「忠臣は二君に仕えないというが、自分は頼朝が亡くなった時に出家遁世しなかったことが悔やまれる。」
「今の世は薄氷を踏むようで心配だ」と頼朝の時代を懐かしんで口にした言葉が梶原景時の耳に入った。
この朝光の言葉に激怒した景時は「これは二代将軍となった頼家様への冒涜で断じて許してはならず、厳しい罰を与えるべきです。」と頼家に訴え出ました。
その二日後の10月27日、阿波の局が結城朝光を訪れ「朝光どの、あなたは梶原景時の讒訴で謀反人とされ、殺される事になっていますぞ」と景時の行動を知らせた。
この情報を阿波の局が知ったのは、鎌倉幕府の将軍が政務を取っていたのは、「大倉御所」と呼ばれる邸宅、ここは政務を執るだけではなく、居館としても使われていたから、当時六歳ぐらいだった千幡も同じ敷地内で暮らしていたんだろう。
だから、その乳母である阿波局が「大倉御所」にいても不思議でもなんでもない、ましてや北条時政の娘で政子の妹、優れた才覚を持っていたのなら、御所内で見聞きしたことを阿波の局の耳に入れてくれる召使をうまく使っていたのかもしれない。
鎌倉幕府は、足の引っ張りあい、身内での殺し合い怖い処、我が美濃国岩村城の祖・加藤景廉は、鎌倉幕府内で北条氏と付き合ってきたんだ〜承久の乱まで生き延びて1156年〜承久の乱後の1221年8月21日没享年65歳。
毎年恵那市岩村町で秋祭り(10月の第一土・日)に平安衣裳着た町民400名の行列があります。
※上記の秋祭りをクリックして関連記事を読んでください。
梶原景時の変
阿波の局から聞いた事に驚いた「頼光は、三浦義村に相談した。
義村はただちに他の有力御家人たちに呼びかけ、これまでの景時の行いもあわせて避難し事態は景時を弾劾する方向へ進んで行った。
そして、翌日の28日には、御家人66名の連署が集められ諸軍へ届けたれた。
2週間後の11月13日弾劾文を受け取った頼家は、景時を呼び出し弁明を求めたが何も弁解をしなかった。
11月18日景時は鎌倉追放を申し渡され、翌正治2年(1200年)1月20日、東国を出て都に向かう途中、追討に向かった御家人によって討ち取られ、一族ことごとく打ち果たされた。
これは、阿波局にとっても、その夫の阿野全成にとっても溜飲が下がる出来事だったろう。
同じ頼朝の子である頼家にとっての後見人の一人だった梶原景時が、一族ごとごっそりいなくなれば、それだけ頼家を支える御家人の力が弱まる。
頼家の権威とか権力が弱くなることを喜んだ、阿波局と全成は自分達が育てた実朝のとって喜ばしことだった。
梶原の乱が起こった時には、すでに頼家の後見であった比企氏が北条氏を脅かすほどの権力を持ち始めていた。
それに、阿野全成からすれば実弟・義経と頼朝の間に亀裂を生じさせて死に追いやった仇でもある。