農民一揆は知ってますか?学校の教科書で習っただけで具体的にはちょっとあまり詳しくは知らないという方は読んでください。
一揆は命懸けて城主と対立しての暴動です。
現代に置き換えて考えてみてはいかがでしょうか?
いまは国民はある年代が来ると税を払う、税によって国・地方は受け持っている領地内を城主・領民が平和的に暮らしやすい様に運営していかなければならない。
それにはどういう税を掛けるかが問題です、税が安いと国・地方はやっていけない、逆に税が高いと領民からは不満が出る。
当たり前のことです。
郡上一揆とは、税の取り立てが高いので領民が命をかけて一揆という暴動を起こした話です。
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ことの始まりは剣見取りという税
郡上藩主・金森頼錦は贅沢を好み、幕閣中枢に対しての接待を繰り返し行ってきた。
▲郡上郡
このため郡上藩の財政は火の車となり、あれやこれやの口実を設けては領民・農民達から税をむしり取って行った。
現代なら選挙でトップの首はすげ替える事ができるが、当時はそんな選挙なんてない重税をやめてもらうしかない。
城主を替えるなんてことは無理、一揆が起きた時の城主はなんという殿様か?
美濃郡上藩の第2代藩主は、金森可寛の長男で金森頼錦(よりかね)というお殿様である。
▲郡上城と一揆農民たち
父・可寛は初代美濃郡上藩主・金森頼旹(飛騨高山藩第6代藩主、のちに出羽上山藩主、美濃郡上藩主)の嫡子であったが、享保13年(1728年)に37歳で死去したため跡目は継がず息子が2代目を継いだ郡上藩。
金森頼錦は享保14年(1729年)の祖父の死去により家督を継いだ。
宝暦4年(1754年)5月夏が訪れようとしていた時期に農民におふれが来た。
これがことの始まり年貢の定期的に納めるのを、収穫高によって決める「剣見取り」変更するというおふれである。
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一時は農民の訴えを聞き入れたが一揆の始まり
郡上藩領の農民たち約三千人は、郡上八幡城の御蔵会計に出かけ、「剣見取お断り」の強訴をした。
大勢の農民達の強訴を前にして藩側は妥協を余儀なくされた。
国家老は「検見取りお断り」の願いをききえる旨のお墨付きを農民たちにに示して事態を収めた。
これで事が収まればよかったが、藩主・金森頼錦の親戚関係を頼るなどして、幕領である美濃郡代の代官から改めて郡上「検見法」採用を命じたことにより一揆が再燃した。
▲郡上農民たち(イメージ)
しかし藩側の弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層の多くは一揆から脱落し、その後は中農、貧農が運動の主体となる。
どの時代でもそいう輩はいる。
一揆勢は藩主への請願を行い、更には藩主の弟にとりなしを依頼するが、郡上藩側からは弾圧された。
また一揆本体にも厳しい弾圧が加えられたこともあって一揆勢は弱体化し、郡上郡内は寝者と呼ばれる反一揆派が多くなった。
このような困難な情勢下、一揆勢は老中への駕籠訴を決行するに至った。
老中への駕籠訴が受理されたことによって郡上一揆は幕府の法廷で審理されることになり、一揆勢は勢いを盛り返した。
しかし当初進められていた審理は中断し、問題は解決の方向性が見られないまま長期化していった。
そのような中、一揆勢は組織を固め、藩の弾圧を避けるために郡上郡外の関に拠点を設け、闘争費用を地域ごとに分担し、献金によって賄うシステムを作りあげるなど、優れた組織を構築していく。
また郡上一揆と同時期に郡上藩の預地であった越前国大野郡石徹白で、野心家の神主・石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとした。
石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った。
最終的に郡上一揆と石徹白騒動はともに目安箱への箱訴が行われ、時の将軍・徳川家重が幕府中枢部関与の疑いを抱いたことにより、老中の指揮の下、寺社奉行を筆頭とする5名の御詮議懸りによって幕府評定所で裁判が行われることになった。
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裁判の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民らに厳罰が下されたが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易※1となり、幕府高官であった老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが免職となった。
※1.改易とは、原義では律令制度において現職者の任を解き、新任者を補佐することである。
中世以降は刑罰の一種と見なされ、鎌倉時代から室町時代においては守護や地頭職の変更と所領の没収、江戸時代においては大名や旗本のの所領、家禄、屋敷を削減されることは減封という。
武家社会においては蟄居より重く、切腹より軽い刑罰とされる。
江戸時代を通して百姓一揆の結果、他にこのような領主、幕府高官らの大量処罰が行われた。
また将軍・徳川家重※2の意を受けて郡上宝暦騒動の解決に活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとした勢力が衰退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった。
※2.徳川家重とは、第8代将軍・徳川吉宗の長男。
幕府の命で岩村藩松平乗薀に請取の役を
一揆勢のうち獄門の判決を受けたのは、切立村・喜四郎(牢死)、前谷村・定次郎(打首)、歩岐島村・四郎左衛門(打首)、寒水村・由蔵(打首)の4名。
獄門、死罪や追放を言い渡された農民の土地や家屋は競売にかけられることになり、美濃本田代官・川崎平右衛門が欠所剣使役を命じられ、宝暦9月28日までに19名の土地が競売された。
藩主も宝暦8年12月26日、芝の金森屋敷は召し上げられ大晦日に、藩主の世子・金森頼元が江戸詰めの藩士を集め離散を言い渡した。
宝暦8年12月26日には江戸から郡上へ飛脚が送られ、大晦日の宝暦8年12月30日夜郡上に到着、お家断絶金森家の所有する家宝などは売却され藩士に分配された。
後釜に丹後国宮津藩の青山幸道が転封を命じられ、青山氏が郡上に入るまでの間、近江国信楽代官の多羅尾四郎左衛門一行は郡上に到着した。
主に郡上藩内の治安に関する高札を立て、さらに旧金森家家臣を集め領内を30日以内に立ち退くように命じ、事情がある者は借地証文を渡すと伝えた。
岩村藩主・松平乗薀が出張る
郡上八幡城の接収と青山氏入府までの在番は、岩村藩主・松平乗薀※3が命じられた。
※3.松平乗薀とは,乗政流大給松平家4代が第三代岩村城主となった松平乗薀、享保元年(1716年)伊勢亀山城主・大給宗家10代の松平乗邑の三男だったが、二代岩村城主・松平乗賢の子・乗恒が早世したため、分家の松平乗賢の養子となり、寛保元年(1741年)12月に従五位下・美作守に叙位・任官される。
延享3年(1746年)に養父・松平乗賢の死去により家督を継ぎ能登守に遷任する。
息子三男に、儒学の林述斎がいるし、ドラマで有名な遠山の金さんの敵役・鳥居耀蔵は、林述斎の三男。
※上記の遠山金さんと鳥居耀蔵をクリックして頂くと関連記事があります。
宝暦9年(1735年)3月1日には、岩村藩の先遣隊が郡上に到着し始め、城受け取りの準備を開始した。
松平乗薀は、宝暦9年(1759年)3月12日に郡上城に到着した。
翌日3月13日午前6時頃、松平乗薀は多羅尾四郎左衛門らとともに郡上八幡城に入城し、城引き渡しを受けた。
旧金森家家臣らは泣く泣く城を後にし、離散していった金森家改易の結果、数百人の郡上藩士が浪人となった。
彼らは金森浪人と呼ばれ、一部は金森家の後に郡上藩にやって来た青山家に仕えることが出来たが、郡上で町人となった者も多く、そして数多くの金森浪人が郡上を離れ他国へと流れていった。
青山氏の時代も厳しい財政難が続くことになる。
しかし農民たちの願いに応じて村ごとに三ヵ年限定の定免法採用をしばしば認め、飢饉時には農民に対する支援も行った。
また歴代藩主は領内を巡検して農村事情を確認するなど、厳しい財政状況に悩ませられながらも、青山氏はきめ細かい農村への配慮を欠かさなかった。
青山家の農民支配は厳しい統制を行う反面、農民たちに対する配慮も見られた。
また、青山氏が郡上に転封となった郡上一揆直後、領内は立者、寝者の厳しい対立や、一揆によってお家断絶となった旧金森家家臣である金森浪人の存在など様々な反目が渦巻いていた。
実際、金森氏改易後、青山氏の着任までの間郡上を治めた代官の多羅尾四郎左衛門に対し、立者たちが多数を占める村で寝者が孤立して難儀しているとの訴えが多く出され、また金森浪人の指示で一揆勢の墓石を破壊した上、川に投げ捨てるといった事件も発生している。
▲新聞に出てた郡上おどり
このような藩内がずたずたとなった状態を和らげ、人々の融和を図るため、郡上に転封された青山幸道が夏の盆踊りを奨励したことが郡上おどりの起源であるとの説がある。
▲郡上おどり(イメージ)
郡上一揆後、農民たちは一揆で犠牲となった人々の供養を行うようになった。
▲2022年7月4日撮影まだ盆踊りには早かった。
明和元年(1764年)に七回忌が行われたのが最初の供養とされ、嘉永2年(1849年)から嘉永3年(1850年)にかけ、郡上郡内全域で百回忌が行われた。
しかし江戸時代に村方三役や藩などと厳しく対立した郡上一揆の参加者を顕彰することはやはり困難があり、ようやく明治以降になって一揆の顕彰が始まるようになった。
本格的な顕彰の動きは、明治44年(1911年)北濃村の三島栄太郎が「濃北宝暦義民録」を刊行し、義民顕彰碑建立の計画を立てたことに始まり、現在郡上市内各地には、「宝暦義民碑」「郡上義民碑」など、一揆に加わった農民たちを顕彰し、記憶にとどめるための記念碑が数多くある。
まとめ
郡上藩は美濃国の北の方にあり、郡上藩主・金森頼錦は贅沢を好み幕閣中枢に対しての接待を繰り返し行ってきた。
そのため財政が圧迫してきたため年貢をあげる、それに反対する農民が一揆が勃発する。
その後入封してきた殿様・青山幸道が藩内の状態を和らげるために、一揆で処刑された農民の供養を兼ねて、夏の盆おどりを奨励したのが起源じゃないかと推測します。
いつの世になっても税金はほどほどに徴収しないと庶民は不満を持つようになる。