源頼光の親は清和源氏の祖・源満仲(清和天皇の曾孫)、先祖に清和天皇を持つサラブレット、五人兄弟の長男で弟には河内源氏の祖・源頼信がいて子孫には鎌倉幕府を創った源頼朝がいる。
頼光・四天王は渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、ト部季武の主君で、酒呑童子や土蜘蛛といった鬼退治物語にも登場する面々です。
悪鬼をも恐れぬ勇敢な武人として、語り継がれている人物たち。
酒呑童子に対峙した時には、自ら名刀“童子切安綱”で戦い、その首を切った活躍切られた首が頼光の兜にカブリついたという話が語り継がれている。
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源頼光とはどういう人物か
平安時代中期の武将、「らいこう」とも呼ばれる。
鎮守府将軍、源満仲の長子で清和源氏の3代目、源満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田の地を相続し、その子孫は摂津源氏と呼ばれる。
▲清和天皇から源頼光・頼朝・義經等の系図
童子切安綱という刀の名前の由来
安綱は平安時代末期の伯耆の国の名工。鎬造※1腰反りが高く、踏張りのある小峰のあるこの刀は三条宗近や古備前友成とともに在名の刀としては最も古いといわれる。
童子切の名は源頼光がこの刀で酒呑童子の首をはねたという逸話から来ている。
※1.鎬造(しのぎつくり)とは、日本刀の作り込みの一。刃と峰との中間よりやや峰より鎬をつけた本造りのもの。
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刀工・大原安綱は
安綱は、平安時代中期に伯耆国(現・鳥取県)で作刀した刀匠で、「刀工の祖」とされています。
なかでも、北条時政の「鬼丸」、「童子切」は代表作、太刀の刀身は腰反りが高く、踏ん張りがあって力強い印象です。
※上記の北条時政をクリックすると「鬼丸」の記事があります。興味のある方は読んでください。
※織田信長の「へし切長谷部」の記事もよかったら読んでください。
※義経の名刀・「薄緑」の記事もよかったら読んでください。
峰 / 切先のかたちは「小峰(こきっさき)」を採用しているため、豪壮ななかにも優美さを秘めた太刀姿です。
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地金は板目が肌がたち、地中の働きは地沸(じにえ)が強くつき、地斑(じふ)が入っています。
刃文は小乱れや子互の目、小湾れなどが混じり、刃中の働きは匂が深く、砂流しや金筋がきわたつ。
銘は安綱の二字、安の字より綱の字が大きい。
天下五剣とは?
童子切安綱は足利家の重宝げあり、源頼光の佩刀であったとも伝えられている。
天下五剣とは、刀剣鑑賞の基礎が固まった室町時代に定められた五振りの名刀を指す。
童子切安綱の他、鬼丸国綱、大典太光世、三日月宗近、数珠丸恒次が名を連ねている。
五振りの全てが平安初期から鎌倉時代にかけて作られており、いずれも由緒正しい宝刀です。
なかでも童子切安綱は最も古い時期に作刀されていることから、筆頭とされています。
最古の刀工の最高傑作
平安時代は現在の日本刀の原型が作られ始めた草創期である。
童子切安綱を作刀した大原安綱は、伯耆国の名工であり、個人名が確認されて中では日本最古の刀工の一人とされています。
その安綱の作刀の中でも“童子切安綱”は、出色の出来であったらしく、後に本阿弥家が記した『享保名物牒』にも「極々上の出来、常の安綱に似たる物にあらず」とある。
現代では、国宝の大包平(これを持ってた武将は、池田輝政、後日書きます。)と並んで日本刀の最高傑作と賞されている。
安綱を始祖とする大原一門は息子の真守以降も受け継がれてていった。
一門の拠点となった伯耆国は、中国山地から豊富な砂鉄が採れたこともあり、以後刀剣の名産地として広く知られるようになった。
源頼光の酒呑童子退治
童子切の異名は、酒呑童子が首を斬ったという伝説からはじまる。
平安中期、都で美しい娘を狙った人さらいが多発していた。
陰陽師の安倍晴明が判じたところ、犯人は大江山の悪鬼・酒呑童子であるといった。
▲源頼光が数々の小野退治
これを重くみた一条天皇は、武士団の長の源頼光に討伐を命じる。
頼光は、渡辺綱、坂田金時ら四天王を引き連れ大江山へ向かった。
変装して酒呑童子の館へ潜入した頼光は、鬼には猛毒の酒「神便鬼毒酒」で童子を酩酊させることに成功する。
▲毒酒を振る舞い鬼を退治、源頼光と四天王
頼光は安綱作の太刀を掲げるともの、酒呑童子の首を一刀両断に切り落としたのである。
これが「御伽草子」や能の「大江山」などで広く語られる、酒呑童子退治の顛末である。
一説では、源頼光が退治したのは鬼ではなく山賊だったともいう。
六つ胴を断ち切った切れ味
足利将軍13代・足利義輝が内乱で命を落とした。
童子切安綱は織田信長の手に渡った。
その後、のちに秀吉、家康ちと天下人を転々とするが、家康の死後は2代将軍・徳川秀忠によって越前の松平忠直の手に渡った。
没落の危機にも瀕した越前・松平家だが、子の松平光長の代に実子を廃嫡して養子を取ってからは、津山藩十万石を拝領している。
秘蔵されている童子切安綱だが、17世紀終わりの元禄年間に津山藩の江戸屋敷で試し斬りが、家臣の町田長太夫が斬り手を務めたところ、童子切安綱は死体を六体重ね一刀両断にし、さらに下の土壇すら斬ってしまったという逸話もの。