慶応三年(1867年)260年余り続いた徳川幕府が、政権を放棄する大政奉還により終焉する。
そして諸藩は旧幕府軍と新政府軍の東西に分かれ戊辰戦争が始まる。
越後長岡藩家老・河井継之助は両軍に属さない武装中立を目指すが、時勢が許さず断念する。
▲2022年6月の新聞の映画広告より
徳川譜代として新政府軍を迎へ撃つ決断を下す。
河井継之助とはどのような人物か
文政10年(1827年)、長岡城下の長町で代右衛門秋紀と貞の長男として生まれる。
幼少の頃は気性が激しく腕白者で、負けず嫌いな性格だったという。
12・13歳の頃、それぞれに師匠をつけられて剣術や馬術などの武芸を学んだが、きかん坊で師匠の教える流儀や作法に従わないどころか、口答えし自分勝手にやったため、ついには師匠から、この子は始末に負えないといわれ厄介払いされる程であった。
その後、藩校の崇徳館で儒学を学び始め、その際、都講の高野松陰の影響で陽明学に傾倒※1していった。
※1.傾倒(けいとう)とは、ある物事に深く心を引かれ、夢中にになること。また、ある人を心から敬愛し慕うこと。
剣術や学問に励み、寛永5年(1852年)、25歳で江戸へ出て既に三島や小林虎三郎らが佐久間象山のの許に遊学に来ていた。
佐久間象山の下で蘭学や砲術を学びます。
長岡藩に戻り、39歳の時に郡奉行となると庶民の暮らしが豊かになるよう、財政立て直しなど藩政改革に努めます。
翌嘉永6年(1853年)ペリー率いるアメリカ海軍艦隊が現れると、当時の江戸幕府老中であった藩主・牧野忠雅は三島を黒船の偵察に派遣する一方、家臣らに対し広く意見を求めていった。
それを受け、継之助、三島、小林らは建言書を提出するも、ともに藩政改革を記した内容だったようだが、三島と小林は内容が牧野忠雅の不評を買い帰藩を命じられた。
継之助の建言は藩主の目に留まり、神知30石を与えられてお目付格評定方隋役に任命され、帰藩を命じられました。
そのため、『李忠定公集』全巻を写し終え題字を認めてもらうと、久敬舎を去り長岡へ戻った。
継之助・備中松山、長崎へ遊学
安政6年(1859年)正月、再び江戸へ遊学、古賀謹一郎の久教舎に入る。
そしてさらなる経世済民の学を修めるため、備中松山藩の山田方谷の教えを請いに西国遊学の旅に出る。
農民出身の山田を「安五郎」と通称で手紙に、認めるなどの尊大な態度に出ていた継之助も、山田の言行が一致した振る舞いと彼が進めた藩校改革の成果を見て、すぐに態度を改めて深く心酔するようになる。
山田の許で修養に励む間、佐賀藩、長崎、熊本藩も訪れ知見を広める。
翌年3月、松山を去って江戸へ戻り長岡へ帰郷した。
文久2年(1862年)藩主・牧野忠雅が京都所司代になると。継之助も翌年京都に行く。
しかしその後、慶応元年(1865年)に外様吟味役に再任されると、3ヶ月後に郡奉行に就任する。
これ以後藩政改革に着手、その後、町奉行兼帯、奉行格加判とどんどん出世し、その間、風紀粛清や農地改革、兵制改革などを実地した。
わけても藩内禄高の改正には、目を見張るものがあった。
継之助は、「1000石の士といえども、君に報ずるところは首一つ。100石の士の君に報ずるところも、また首一つである」といって、2000石は半減して1000石に、30石は加増して50石とした。
これは武士として矜持を失った上級武士に活を入れ、軽輩者にはやる気を起こさせることが目的であったが、一応の成果はあった。
|
最後の武士と言われる継之助
藩主に見出された継之助は、藩政改革に奔走する古い封建社会の秩序を撤廃して人心の入れ替えをおこなった改革は、当時としては画期的なものだった。
継之助が描いた改革構想は、他力の頼らず自力で生きていくようなもの、いわゆる独立国家です。
これを実現するために、藩の組織の改革や、慢性化していた賄賂・賭博・遊郭を禁止または廃止。
武士による不当な取り立てや株の特権・河税なども解消したため、農民は救われた。
藩の財政立て直しに奮闘
継之助は藩士の知行を平均的にし下級武士からは喜ばれ、上級武士からは恨まれました。
これは門閥を弱体化させるための策でもあり、相対的に藩主の威厳や指導力が大きくなりました。
用意周到の継之助
従来の刀や槍では戦えないと武器を西洋統制へと変更し、横浜の貿易商から、ミニエー銃や手動機関銃であるガイリング砲なども購入。
この近代武器購入で藩士から反発を招くも説得に成功、兵学所を造り長岡藩は雄藩にも一目置かれる存在になりました。
戊辰戦争始まる
慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が大政奉還を行うと、中央政局の動きは一気に加速して行く。
慶喜の動きに対し、討幕派は12月9日(1868年1月9日)に王政復古の大号令を発し、幕府などを廃止しする。
一方長岡藩では藩主・牧野忠雅は隠居して牧野忠訓が藩主となっていたが、大政奉還の報せを受けると藩主・忠訓や継之助らは公武周旋のために上洛する。
そして継之助は藩主の名代として議定所へ出頭し、徳川氏を擁護する内容の建言書を提出する。
なんの反応もなかった。
慶応4年1月3日(1月27日)、鳥羽・伏見において会津藩・桑名藩を中心とする旧幕府軍と新政府軍との間で戦闘が開始され、戊辰戦争が始まる(鳥羽・伏見の戦い)。
大阪を警護していた継之助らは、旧幕府軍の敗退と徳川慶喜が江戸へ密かに退いたのを知ると急ぎ江戸へ向かった。
藩主らを先に長岡へ帰らせ、江戸藩邸を処分・家宝などを売却、その金で相場が暴落した米を買って蝦夷地で開港されていた函館へ運んで売り、また新潟との為替差益にも目をつけ軍資金を増やした。
それと同時にイギリス人の武器商人・アメリカ人の武器商人などからアームストロング砲、ガトリング砲、エンフィールド銃、スナイドル銃、シャープス銃などの兵器を買った。
継之助はこうして政局の中「朝廷、旧幕府軍のいずれに与することなく、人道の義理に徹し、譜代大名たる牧野家こそが、公・武の間を周旋し、内戦の勃発を阻止すべきだ」と説いた。
5月に入り北越戦争となって、中立を堅持する継之助の努力も虚しく、長岡藩を戦火の中に巻き込むこととなったいく。
5月2日、官軍=東征軍が長岡を隔てる四里の地・小千谷(おちや)に迫ってもなお、継之助は官軍本営に乗り込み、素直に中立を表明する。
官軍からは献金や出兵の要請がなされるばかりで、ことごとくを辞退してきた。
翌3日、ついに長岡藩は官軍と対峙することに決まった。
この北越戦争に七万五千石の小藩が4ヵ月余りも、官軍の攻撃を耐え抜いたのは、前持って武器の購入と継之助の優れた統率力と用兵にあった。
継之助は流弾によって肩と脛を貫かれ、再起を期して会津に通じる八十里峠を越える途中、“八十里こし抜け武士の越す峠”と自嘲しながら、8月16日ついに帰らぬ人となる。
享年42歳。
河井継之助を題材にした「最後のサムライ 「峠」
6月17日より全国一斉に役所広司主演の映画です。
小泉堯史監督・脚本、司馬遼太郎原作、仲代達矢無名塾長(前の長岡藩主役)です。
あらすじは、観てのお楽しに残しておきます。