伝記として伝えられている物語るを“いわむら昔ばなし余話”という本にまとめて載っています。
その中の一つ桃光院を紹介します。
岩村城下町から徳川の大奥に勤めていた女性がいました。
▲いわむら昔はなし余話の中味
現在岩村在住の人に尋ねてもほとんど知らない、岩村に行ったら聞いてください。
面白いですと。
それも老女としてです。
江戸時代の末期、三十三年にわたって江戸城大奥に仕えた、岩村城下町出身の女性です。
江戸末期といっても第11代将軍・徳川家斉の時代からです。
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岩村の浄光寺の娘が大奥に
岩村にある浄光寺※1の八世住職・内田祐智の三女・幼名を間(けん)、在職中浜岡と名乗ったあとの桃光院、その人です。
※1.浄光寺とは、現・岩村町本町三丁目(城下町にある信号の手前)へを南(右)に入ってすぐの所です。
※上記の浄光寺をクリックすると関連記事があります。興味のある方はご覧になってください。
間は文政6年(1823年)15歳で姉の嫁ぎ先、江戸の村上家へ移りました。
11代将軍・徳川家斉※2の代、文政9年(1826年)に村上家と親しかった、大奥務めの岩崎局(いわさきのつぼね)の世話子として大奥へ上がり中臈(ちゅうろう)となり、世継ぎ徳川家慶の正室・楽の宮(後の浄観院)御付きとなります。
※2.徳川家斉は、子沢山であったが、その中の一人徳川斉荘が第12代尾張徳川家の城主になった、その姫・釣姫が最後の岩村城主・松平乗命と結婚しますが。
※上記の釣姫をクリックしてください関連記事があります。
家斉亡き後、徳川家慶は第12代将軍となりますが、楽の宮が天保11年(1840年)に亡くなりましたので、次期世継ぎ家定の正室・有姫(後の天親院)御付きとなり、中年寄となりました。
嘉永2年(1849年)有姫が亡くなりまして、後の正室・寿明姫(後の澄心院)御付きの御年寄となります。
この姫も2年後に亡くなりましたので、将軍・家慶(後の慎徳院)御付きの老女となりました。
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桃光院は、その頃、岩村藩主が将軍に献上した“岩千鳥”※3を傍らにいて見てのかも知れません。
▲※3.岩千鳥とは、ラン科の多年草。
魂根は球状に肥厚くする。花芽は長さ5〜10cm、下部に一葉をつける。葉は被針形、長さ3〜5cm。5〜6月に頂生花序に1cmほどの淡紅色の花を1〜5個つける。
唇花が大きく目立ち深く三裂し、中裂片はさらに先端が二裂する。長さ2〜2.5mmの短い距がある。
本州の中部地方以西、四国の沢沿いの湿った岩壁に生育する。名は花を鳥に見立て、岩場に生息することになる。
▲岩千鳥
家慶が2年後に亡くなりましたので、桃光院は退職を願いましたが許されず、次代将軍・家定(後の温恭院)御付き老女として大奥に残りました。
安政5年(1858年)家定も亡くなり、そこで剃髪を願い許されて退職しました。
間(桃光院)は18歳から50歳までの33年間に渡って務め上げました。
同年11月増上寺で剃髪しました。
▲イメージ
法名は桃光院殿仙誉宝池玉澗大法尼です。
以上が桃光院の原文のままです。
その後の桃光院と天璋院のこと
安政6年(1859年)5月、桃光院は浄光寺へ在職中仕えた五人連名の三つ葉葵の紋入り位牌、親族のもの本人のの三体と祠堂金二百五十両を納めました。
浄光寺は桃光院御部屋あてに供養行事の細かい計画書「永世御寄付団地規定」を贈りました。
桃光院はまた増上寺へ五百七十五両を贈ったので、同寺から桃光院御局鶴野あての「祠堂金約定書」が送られています。
同年9月のことであります。
桃光院の「御肖照掛軸」の選文は田辺恕定、画は唐沢湖城によります。
その材料には、14代将軍・徳川家茂夫妻より、ご下賜の布が使われ、風帯、一文字には葵の紋が織り込まれています。
13代将軍・徳川家定の三人目の正室・篤姫(後の天璋院)は、安政4年(1857年)島津一族から輿入れしておます
この輿入れは幕府に対するスパイの役でありました。
当時、家定御付きであった桃光院とは出会うことも多く、桃光院の徳川家への忠勤振りに感動して、婚期の大切さを深く心に留めたのでしょう。
明治維新の際、「私は徳川の人である。徳川家の大奥がどんなに見事か思い知らせてやるのだ」と調度家具類は一切運び出さず、最後まで残り、身一つで江戸城を出て一橋家へ移ったそうです。
更に、大奥に仕えた多くの人の身の振り方までに心を配ったそうです。
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まとめ
桃光院は、徳川家斉・家慶・家定に仕え老女まで昇って勤めたことは凄いことです。
岩村へいった時は、ぜひ浄光寺をお参りしてください。