岩村の旧家・山上家は東濃地方・最古といわれる旧家といわれています。
東濃地方というと、岐阜県南部にある「美濃」の東側です。
岐阜県の中津川市、恵那市、瑞浪市、土岐市、多治見市です。
可児市と御嵩市は中濃じゃないですかね?
そんな広い範囲で最古といわれる旧家(山上家)で、43代の新左衛門の次男が、馬籠宿の島崎家に養子に入った島崎藤村の祖父、現在は、当主48代目で旧恵那郡の時岩村町長をやっておられました。
岩村城創築と山上伝説
岩村城創築に関する伝説は幾つもありますが、寛延4年(1750年)に首藤玄震の著した「巌邑府誌」に、山上伝説があります。
それは、山上村(現在の岩村町になる前の古名)は、しばしば山賊が侵入して村を荒らしたので村人は飢え苦しみました。
邑長(むらおさ)は、これを憂えて※1伊勢神宮に参籠して祈ったところ、その夜、霊夢あり、その翌朝、宇治橋において武将に会いました。
▲※1.憂えてとは、良くない状態になるのではと心配し、不安を抱くこと。嘆き悲しむこと、嘆きや苦しみを人に訴えること。
▲岩村発祥の地の邑長の山上家、現在も原型を留めている。注意の処に加藤景廉の座った巌のことが書いてある。実物はこの家の裏の方です。
その武将に村の窮状※2を訴え、山上村に伴って帰り、里人と共に山賊と戦って、これを全滅させることができました。
※2.窮状(きゅうじょう)とは、貧困などのために困り果てているようす。
この武将こそ加藤景廉であったというのです。
その後、源頼朝が伊豆で旗挙げした時、景廉も参戦して伊豆の国司・山木兼隆の首をとり大功を立て、岩村地方を領地としてもらいました。
景廉は頼朝の側近で鎌倉を離れることができず、嫡男・加藤景朝に城を築かせた。
里人は景廉が座った巌を祟めて祭り、加藤次腰掛巌、別名霊夢岩と呼んだという言い伝説です。
▲山上家の裏山にある「腰掛巌」
▲これらがあります。
景廉はこの巌の上に座って東に向かい小高い山に城を定めたともいいまが、この巌は山上家の裏にあり、鳥帽子巌・屛風巌もあります。
こんな伝説のある場所なんですが、恵那市は整備も何にもやっていない状態で残念で呆れます。
記者が現場を訪れたとき草が茫々で、どこから入ったらいいか分からず山上家に行って道を訪ねました。
岩村在住の町民に話しても知らない人が多いです。
山上家には、桐中将にまつわる伝説もあり、山上家の家紋である丸に二の字紋と格子紋の由来となっています。
景廉の息子・遠山景朝の遠山氏と良く似た紋です。
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島崎藤村の祖父は山上家から島崎家へ養子に
詩人・小説家の島崎藤村は吉左衛門を祖父、正樹を父として生まれました。
藤村は美濃人と信州人血統をもつと万有百科大事典は書いています。
特に藤村の芸術家としての素質は祖父の血を引いたといわれますが、美濃人の血統も芸術家としての素質も岩村山上家からのものです。
藤村の祖父は山上家43代新左衛門の次男で、島崎家へ養子に入って16代島崎吉左衛門重韶(しげつぐ)となりました。
岩村山上家と島崎家の関係は15代吉左衛門重好も岩村の問屋・森伝六郎の倅でですから、血が濃いわけです。
このほか馬籠の脇本陣・峰谷家へも前紀の森家から養子に行ったり、山田家から嫁いでいます。
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島崎家は中山道馬籠宿の本陣です。
本陣というのは江戸時代に大名や幕府の高官が泊まる家で、宿場には一軒しかない格式の高い家です。
馬籠宿を西へ行くと落合宿→中津川宿→大井宿→大鍬宿と中山道ga続きます。
島崎家はさらに庄屋と問屋をかねた旧家ですから、養子を求める場合に身分格式が問われますので、東濃の城下町岩村に頼ったものです。
重韶(しげつぐ)は立派な国学者で、俳句もよくした文芸家でもありました。