永禄3年(1560年)上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が雨の降る豪雨の中奇襲をかけて倒したと考えられています。
これが一般に知れ渡っている通説だと思います、
しかし、今日では信頼おける信長記の作者・太田牛一『信長公記』などの見直しによって、今までの定説が覆っています。
今川義元は、織田信秀(信長の父、岩村城主お通夜の方の兄)亡き後、三河国を平定したくて尾張国へ侵攻したということです。
それを阻止しようと信長は兵を出し、一方義元は25000の兵を率いて侵攻している織田軍なんか蹴散らせてやると思って侵攻したに違いない。
▲清洲城
義元が駿河を出て三河・尾張と進んでいる最中、信長は清洲城を出発し、途中「熱田神宮」で戦勝祈願を行い、善照寺砦に入り兵を率いて義元のいる桶狭間に向けて思案六方しながら闘志を燃やして進軍した。
▲織田信長が戦勝祈願した熱田神宮
すなわち、義元は上洛を目的とはしてなく、信長も奇襲したわけでもない。
襲った所は、谷間でもなく“桶狭間山”という丘の上にいた義元の本隊を、雨が上がった時を見計らって襲い首を跳ねて勝利したというのが読み取れます。
▲桶狭間公園
では、何故信長が勝てたのか?何故、本隊に近づけたか?
疑問が残ります。
信長ひとりで考えた桶狭間の作戦
この合戦は、信長の挑発が直接の原因、元々尾張領だった鳴海城の山口左馬助が、信長の父・信秀の死後、今川方に寝返り今川領となっていたものを尾張統一を進めている信長が取り返しにかかった。
というわけで、信長が今川氏に侵出し、今川方の城(鳴海城と大高城)の間に付け城※1(鷲津城・丸根城)を造って攻撃を仕掛けた。
※1.付け城とは、陣城ともいい、戦いの際に臨時で築かれる前線基地のこと。▲
▲信長の付城の位置
ここで『信長公記』を書いた太田牛一の書を引用。
義元を討つ前夜の行動、家臣を集めたものの、「いろいろ世間の御雑談迄」で作戦の話は全くなく、深夜に解散した。
「運の末には智慧の鏡も曇る」と家老たちは嘆いて帰ったと言います。
これは当然、信長の意図した行動で、まず、深夜まで家臣を集めて引き止めたのは、寝返りや内通を防止のため作戦の話をしないのも漏れることを恐れた。
それは何故か?
普通に考えれば大軍に小軍が戦いを挑めば敗れる。
そんなことを家臣に伝え作戦を練ってもやる気をなくすだけであるし負け戦をするのは損と思うし家臣達はたまった者ではない。
事前に話せば反発をする家臣があらわれるし、成功しないと織田軍が全滅するから味方にも秘められた。
この戦にまともに戦えば勝ち目がない勝つ方法は一かバチかであるな。
私情をすて捨て石作戦
信長が密かにとった作戦とは、付け城の鷲津・丸根両砦が今川方から攻撃される。
だが動こうとしなかった信長、何故かというと、攻撃の前夜から何度も何度も今川方の敵の来襲を予測する注進がきても、なおも信長は動こうとしなかった。
両砦には佐久間大学と織田玄蕃を配していたが、鷲津・丸根両砦を助けるつもりはなく捨てるつもりだった。つまり両武将を捨て駒として捨てた。
つまり、朝、出陣後、信長が自ら述べているように、今川軍に両砦の攻撃を行わせ疲れたとこをみて叩くという作戦に出た、ですから明け方攻撃をした。
信長は捨て石にした、佐久間盛重(通称:佐久間大学)は信長の弟・信行(信勝)付きの家老で鎌倉の13人に出てくる三浦一族です。
信長に前哨戦において5月に丸根砦の守備に置かれ、近隣の鷲津砦と連携して今川方の尾張侵攻の拠点である大高城を牽制する任を担ったが、大高城救援のため出陣した今川方の武将・松平元康(家康)勢の攻撃により丸根砦は陥落し討死した。
▲ここに大高城の家康を入れる▲
もう一人の織田玄蕃なる人物は、清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」当主織田信定の末弟で、父の叔父にして信長にとっては大叔父にあたる。
のちに父・織田信秀に仕え信長の後見人を任される。
鷲津砦についた織田玄蕃(本名:織田秀敏)と甥・飯尾定宗と共に置かれたが今川軍の猛攻で鷲津砦は落城し、戦死とも行方不明とされる。
これを事前に打ち明けていれば、捨てられる家臣はたまったものではない、これを秘密裏/秘密裡にしたことによって大軍の今川軍を小軍の織田信長が生き延びることが出来た作戦だった。
二人に信長は、すまぬと思って心で手を合わせていることでしょう。
成功した信長は、思い通り戦況が進み「敦盛」を舞い法螺貝を吹かせ家臣を待たずに出陣した。