美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

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家康の三河一向一揆はなぜ起き家臣まで敵方に付いたかを詳しく説明

投稿日:2023年1月9日 更新日:

 桶狭間の戦いで主君・今川義元信長に討たれてしまう。

これは家康にとって吉と出るか凶と出るかの分かれ目であったに違いない。

 

 

元康は本隊から離れて鷲津・丸根砦の陥落後大高城に入っていたが、織田方に属していた伯父の水野信元※1から今川義元の戦死を知らされ、このため織田方からの攻撃を避けるため、信元の使者を先導させて三河岡崎城へ帰ってきてた。

※1.水野信忠とは、父・水野忠政の死去、水野家宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部及び三河国碧海郡西部を領した。家康の父・松平広忠と結婚した於大の方(異母妹で家康の母)の兄にあたる人物、いわゆる伯父にあたる。

 

 

義元が敗死したからといって、すぐ信じるわけにはいかず、まだ直ぐには自立できる訳にはいかず。

 

 

まだ義元の嫡男・氏真がおり、家臣の妻子は人質として取られているから、離反したことがわかれば人質は殺害されてしまうから慎重であった。

 

 

そこで、元康は氏真に弔い合戦を進言して誤魔化すが、本心はどうであれ表面は忠誠を示さなければならなかった。

 

 

永禄4年(1561年)伯父の水野信元から元康に信長との和睦を進められたがが即答はしなかった。

 

 

しかし、考えて松平が生き残る策としては、今川方から離れ織田氏と同盟を結ぶことであると思い、永禄5年(1562年)元康は自ら信長の居城である清洲城で会盟をした。

いわゆる清洲同盟である。

永禄6年(1563年)3月に松平元康(家康)の嫡男・竹千代(信康)と織田信長の娘・徳姫婚約が成立し、織田家とのさらなる同盟関係が強化されていきました。一方、元康(家康)は同年6月から10月の間に、名前を松平家康と改名し、義元から与えられた「元」の字を替えたことで名実と共に今川氏からの決別をした。永禄9年(1566年)5月、松平家康は念願だった三河一国の平定を成し遂げ、同年末朝廷より徳川への改姓と従五位下三河守への叙位・任官の勅許を受けました。この叙位・任官及び改姓には、当時の関白・近衛前久、この前久と家康を仲介した三河国出身で京都誓願寺住持・泰翁の尽力があった

 

 

この同盟が氏真に知れ、人質となっていた家臣の妻子は殺されてしまう。

 

元康の妻子も駿河に留め置かれていたが、永禄5年(1562年)に家康自ら軍勢を率いて上ノ郷城の鵜殿長照※2を三河・西郡常に攻めたときに生捕りにした長照の子・氏長と氏次を捕らえ、元康の妻子と人質交換する形で交渉した。

▲※2.鵜殿長照とは、三河国宝飯郡上ノ郷城主で、今川義元の妹正室に迎え、最も信頼されていたので大高城の城代を任されていた。桶狭間の戦いで元康が兵糧を運んで交代をした。しかし、永禄5年(1562年)松平勢は家康自ら軍勢を率いて上ノ郷城を攻撃。▲

 

 

鵜殿長照の正室は今川義元の妹といい、氏真も見殺しには出来ず人質交換に応じた。

この時家康は鵜殿長照の娘を側室した。

※上記の鵜殿長照の娘をクリックすると側室・西郷局の記事があります。興味ある方はご覧になってください。

 

 

三河一向一揆の蜂起

三河一向一揆とは、一向宗と呼ばれる浄土真宗本願寺派の門徒による一揆である。

 

 

その頃、三河では、上宮寺・本證寺・勝鬘寺という本願寺派寺院が「三河三ヶ寺」と呼ばれ複線を拡大させていた。

 

 

ことの発端は、永禄6年9月に松平家康の命を受けた菅沼定顕浄土宗真宗本願寺系列寺院、上宮寺から糧米を強制徴収したことから一向宗徒が蜂起したと言われています。

 

 

しかし、菅沼定顕※3という家臣の実在が不詳のため、西尾城主・酒井正親が坊主を捕縛したことがキッカケとなって一揆が起こったともいわれていますが、どちらにしろ、松平氏は西三河を平定し、今川の領土である東三河方面に進軍するため、農民からの納貢米に加えて、これを寺院にも適用したといえる。

※3.菅沼定顕(すがぬまさだあき)とは、『松平起』によれば永禄6年(1563年)定顕に命じて佐崎)岡崎市)に砦を築かせ、上宮寺から兵糧を奪ったことがキッカケとなり三河一向一揆が起こったとされるが。しかし、『松平記』の記事を全面的に信用することができないとして、菅沼定顕を一揆の火付け役的存在とする記事は事実ではないとすることも多い。

 

 

三河の本願寺教団は、松平広忠※4から与えられた不人の特権※5を元に寺内町を形成し、寺内から取り立てた諸税を本願寺に上納したり、松平家臣に貸付たりしていたため、三河統一を目指す家康としては、必然的に解体を計らねばならぬ存在だった。

▲※4.松平広忠とは、1526年〜1549年まで生きた、戦国時代の武将で三河国額田郡岡崎城主、松平宗家第8代当主24歳で死去、家康の父で松平清康の子。▲

※5.不人の特権とは、検断権の拒否である年貢・諸役の免税▲

 

 

三河一向一揆は3つの寺(宮寺・本證寺・勝鬘寺)に集結した門徒衆と、これに呼応した東条城主・吉良義昭・荒川氏・桜井松平氏・大草松平氏などの在地領主を始め、家康の家臣・渡邊高綱、渡邊守綱、酒井忠尚※6や夏目吉信らが家康に反抗の姿勢を構えた。

※6.酒井忠尚とは、松平氏(徳川氏)の家臣で三河上野城主、酒井康忠の子で酒井忠次の叔父にあたる、家康の父時代から仕えた重臣で一向一揆の時家康に反逆し上野城に籠城したし、石川康正・石川数正・渡邉守綱・渡邉高綱は鎮圧され家康側に帰ったが、忠尚は駿河に逃れその後行く方知れずになった。

 

 

また、鳥居・石川康正・本多・内藤の一門衆からも一揆側に走る者が多く出たため家康は苦戦したが、上宮寺に鳥居氏、勝鬘寺に大久保氏、本證寺に藤井松平氏、西尾城に酒井正親を配置して対抗した。

 

 

翌永禄7年(1564年)上和田の戦いで敗れた家康は山中八幡宮にある鳩ヶ窟に身を隠して一揆軍の探索を逃れるという危機にも直面したが、戦いが長引くにつれ家康に降伏して来る者が続出してくる。

 

 

吉良義昭・荒川氏といった反抗地領主は三河の地から上方に逃亡し、酒井忠尚は今川氏真を頼って駿河に出奔した。

 

 

一方一気に加わった家臣はどうなったのか?

門徒であった本多正信や松平家次らは許されて家臣に帰り咲いている。

 

 

家康自身も浄土宗の帰依していたから、信仰心から一気についた事情を理解していたのか、ただし、国内の本願寺派の寺院・道場は全て破却している。

 

 

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