戦国時代の元亀元年6月28日(1570年7月30日)に織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が近江国(現・滋賀県)の間でぶつかった合戦です。
俗にいう「姉川の戦い」です。
従来、この戦いは、両軍が正面から激しく衝突し、織田・徳川連合軍が勝利して、雌雄を決した合戦といわれてきました。
近年の研究で、この戦いの実態は少し異なることが分かってきました。
戦上手の浅井長政、後手に回る織田信長、浅井・朝倉軍は大敗を喫していなかったなど?
「姉川の戦い」は・・・浅井・朝倉軍の完敗ではなかった!?
金ヶ崎で信長が九死の一生の危ない目にあった報復とも思える「姉川の戦い」を最新研究で見えてきた。
姉川の戦いに関わった主な人物
織田信長の主な武将たち
柴田勝家・佐久間信盛・森可成・丹羽長秀・池田恒興・佐々成政・木下藤吉郎
徳川家康の主な武将たち
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・石川数正
旧美濃衆の主な武将たち
稲葉良通(一鉄)・氏家ト全・斉藤利治
浅井・朝倉連合軍
浅井長政の主な武将たち
磯野員昌・堀秀村・阿閉貞征・新庄直頼・遠藤直経
朝倉義景の主な武将「たち
朝倉景健・真柄直隆・真柄直澄
金ヶ崎の退き口
永禄11年(1568年)尾張国・美濃国を中心とする戦国大名だった織田信長は、足利義昭を支援して京都へ上洛、室町幕府・第15代将軍となります。
従来、足利義昭は信長の傀儡※1のように言われてきましたが、実際には、信長と義昭の関係は連立政権のように政権を担ってきた。
※1.傀儡(かいらい)とは、あやつり人形。くぐつ。でく。人の手先となって思いのままに使われる者。「◯◯政権」。
しかし、将軍・足利義昭擁立と信長上洛に従わない勢力も各地にいた、特に、その一人が越前国(現・福井県)の戦国大名・朝倉義景です。
足利義昭と織田信長は、再三朝倉義景に京都へ上洛せよ!と促しますが、一向に拒否し断る。
織田信長は将軍・足利義昭と天皇の命を受けて、元亀元年(1570年)4月に越前に向け出陣し、この戦いには信長の同盟者だった、徳川家康も従っていました。
信長は琵琶湖の西岸を北上して、朝倉氏の手筒山城を襲います。
このときの信長は力攻めを強行し、討ち取った首の数は1370と、まさに皆殺しの殲滅戦(せんめつせん)でした。
そして、手筒山城の周辺にあった、朝倉方の金ヶ崎城と疋壇城は、手筒山城の惨劇を知り翌日降参するのです。
ところが、信長が朝倉氏の本拠・一乗谷に迫ろうとした時、思わぬ知らせが信長のもとに届きます。
殿・殿・・申し上げます!!
浅井長政逆臣です!。
我が軍に攻め懸かろうと金ヶ崎に向かっておりまする!
義弟の長政と信長は同盟を組んでいたため、半信半疑で聞いた信長は、浅井長政が突如裏切った?か・・
信長は木下秀吉や明智光秀らに殿(しんがり)を命じ、なんとか京に辿り着きます。
そこから信長は、近江国と伊勢国の国境を迂回して、命からがら本拠地の岐阜城に戻る途中、敵対する南近江六角氏に雇われた人物により銃撃を受け、九死に一生を得ています。
ここから、織田信長と浅井・朝倉の長い戦いが姉川で始まるのです。
▲姉川古戦場跡
姉川の戦いはこうして起きる
信長の圧倒的有利
信長が岐阜に帰るときに、わざわざ近江国と伊勢国の国境を迂回したことから分かるように、近江の浅井長政が裏切ったことで、信長は京と岐阜の通行路を絶たれてしまったので、通行路を確保すべく、近江と美濃の国境にあった浅井方の砦・長比城を織田方に寝変らせます。
そして、岐阜へ帰陣した1ヶ月後、浅井長政を討つべく信長は出陣、信長は一気に浅井領に侵攻し、長政の本拠・小谷城近くの虎御前山に布陣し、秀吉以下の家臣に命じて小谷城下を焼き討ちにする。
▲浅井長政とお市の方n銅像
信長は我が軍の方が圧倒的な兵力がある、ここで長政が挑発に乗って城から打って出れば返り討ちにする!つまり城下の焼き討ちは、信長の挑発行為だったのです。
しかし、慎重な長政は挑発されても動きませんでした。
長政を一気に叩くことが難しいと判断した信長は、次の手を打ちます。
我らは、これより南の横山城を攻める!
信長は全軍を南に後退させ、横山城を四方から包囲し、信長自身が率いる本隊は竜ヶ鼻に陣取りました。
さらにこの日、徳川家康の援軍も到着し、織田・徳川連合軍の兵力は35,000人ほどになり家康も竜ヶ鼻に陣を張った。
竜ヶ鼻は小谷方面を一望できる上、姉川である程度、敵の動きを食い止めることができ、兵力だけでなく地の利でも、圧倒的に有利な状況を作り出せたのです。
横山城は長政の本拠・小谷城に近く、この城を落とせば、浅井長政に対して大きな精神的な圧力を与えられることができます。
もし、長政が横山城を救うために、浅井本体が攻め込んできても兵力・地理的状況で圧倒する信長軍が殲滅※2すれば良いのです。
※2.殲滅(せんめつ)とは、残らず滅ぼすこと。皆殺しにすること。
ところがこの戦いは、信長にとっては思いがけない展開になって行くことになります。
浅井長政の奇襲作戦
織田方に徳川家康の援軍が到着した頃、長政のいた小谷城には、8,000人以上とも言われる朝倉の援軍が到着しました。
義景ではなく甥の景健が率いて小谷城に入った、長政は「かたじけない!共に信長を討ちましょう!」
劣勢だった長政軍は、援軍が到着したことで、織田軍が分散している状況で攻撃すれば勝機があると考えた。
「我らは信長の本陣を奇襲する!今こそ出陣じゃ〜!」
まず、出撃した浅井・朝倉軍は、陣を大依山に置きます。
さらに浅井・朝倉軍は、その山を降りると、北へ動き始めました。
この動きは信長も見ていたはずですが、敵軍は山に隠れて姿が見えなくなりました。
しかもこの後、一向に姿を現さなかったのです。
信長はこう思ったかもしれません。
長政め、我が軍の規模を見て怖気ついたか、信長は、敵の動きをみて、敵が撤退したと判断しました。
しかし、この時信長は騙されていたのです。
浅井・朝倉軍は、撤退すると見せかけて軍を転進させていました。
そして、その日の夜に浅井軍は先頭にして、軍を南下させたのです。
夜に紛れて織田軍に接近し、信長を討つ!べく長政は浅井軍と朝倉軍の二手に分かれ、夜に紛れて密かに織田軍に接近し、姉川を越えて織田軍を奇襲しようとしていたのです。
兵力劣勢の長政からすれば、その横山城包囲で、敵が分散しているこの状況のまま攻撃し、そこから一気に決着をつけたかったのでしょう。
ところが信長は、敵軍が織田本陣に近づいていることを察知しました。
細川藤孝という人物に宛てた信長の書状に、信長が家康も交えて、先陣を誰にするか軍議を開いたことが書かれているためです。
つまり信長は、敵が近づいてことを察知し軍議を開いたと考えられます。
なぜ信長は、敵軍の接近を察知したのでしょうか?
『姉川合戦記』によれば、浅井・朝倉軍は松明を焚いて進軍していたといいます。
もし、奇襲するなら、松明を焚いていたというのは奇妙です。
実はこれは織田軍を欺くための長政の策でした。
信長の家臣・太田牛一が記した、『信長公記』という資料に奇妙な記述があります。
信長は浅井・朝倉軍を迎え撃つにあたり、姉川の下流方面に徳川軍、姉川の上流方面に織田本隊と美濃三人衆が布陣していたといいますが、信長は軍を従来言われててきた、真正面の北ではなく、北東に向けたというのです。
つまり、長政率いる浅井軍は夜の闇に紛れて、信長の本陣の脇に布陣した可能性があります。
夜が明けて、浅井軍が信長本陣の脇に布陣していることに気づき、慌てて軍を北東の向けたのです。
恐らく長政は、浅井軍は自分の領地であるため、松明を消して織田本陣の脇まで行軍させ、越前から援軍に来た朝倉軍は、浅井領の行軍には慣れていないため、あえて松明を焚かせて、信長の注意を朝倉軍に向けたのでしょう。
信長がどのタイミングで、朝倉軍に気づいたかはわかりませんが、一度撤退したと判断してしまったこともあり、横山城を取り囲む織田の主力軍の到着は見込めません。
信長は竜ヶ鼻に布陣していた徳川軍と美濃三人衆で迎撃することを決意します。
しかし、この段階で信長は、朝倉軍にしか気づいていなかったのです。
朝倉軍に最も近い家康が、先陣を信長から命じられていることからも、信長が警戒していたのは朝倉軍だったことがわかります。
さて、次第に夜が明けて明るくなると、信長は誤算に気づくのです。
松明をつけて行軍していた朝倉軍の他に、本陣の脇に浅井軍がいて織田本陣を襲います。
「姉川の戦い」の火蓋が切られました。
勝者なき戦い
浅井軍の存在に気づいた信長は、浅井軍の方に軍を向かせようとしましたが、軍の向きを変えさせるのには時間がかかり、陣形も乱れます。
そんな時に、浅井軍の攻撃が始まるのです。
姉川の戦いにおける浅井軍奇襲説を最初に主張した太田浩司氏によれば、浅井軍の奇襲はある程度成功したといいます。
浅井軍の奇襲部隊に遠藤直経という人物がいた。
▲奇襲部隊の遠藤直経
浅井軍の奇襲部隊は、混乱する織田本陣を300mほど押し下げますが、その頃には、横山城から織田軍の主力部隊が到着し、遠藤直経らはここで攻撃するも力尽きたのです。
一方西側の徳川軍と朝倉軍の戦況は、劇的に変化することはありませんでした。
太田浩司しによれば、浅井軍の奇襲の成功を見て、一気に朝倉軍も攻める算段だったのではないかと推測しています。
ただの野戦では、兵力で劣る浅井・朝倉軍は、圧倒的に不利な状況です。
奇襲成功時に信長・家康軍にトドメを刺すのが朝倉軍の役割でしたが、織田本隊はなんとか持ちこたえ、横山城から次々と織田の主力部隊が到着したことで、形勢は逆転します。
少人数でも奇襲に、持ちこたえたことから、信長の本隊が精鋭部隊だったことがわかります。
ここで長政は撤退の決断を下しました。
信長の主力部隊が到着したら、撤退することを予め長政は決めていたのでしょう。
長政の判断により、朝倉軍も撤退することになりました。
従来説では
朝倉軍と正面衝突で戦った徳川軍は奮戦し、途中で一部の部隊が朝倉軍の側面に回り込んで攻撃することで、戦況を有利にしたと言われていますが、姉川は視界が開けているため、敵の側面に回り込んでも敵は間違いなく察知しますので、この説は撤退戦で逃げる朝倉軍に対し、徳川軍が後方と側面から攻撃したことの誤りでしょう。
しかし、徳川軍も朝倉軍に対し、壊滅的な打撃を与えることはできませんでした。
浅井軍も余力を残しての撤退戦となったため、戦死者を見ても、浅井・朝倉ともに重臣クラスの戦死者はほとんでいなかったのです。
こうして、浅井・朝倉軍が撤退したことから、姉川の戦いは一応織田・徳川連合軍の勝利ということになりますが、従来言われていたような、浅井・朝倉軍に致命的な打撃を与えるような、戦果を挙げることはできませんでした。
ただし、信長はその後、信長は横山城などその周辺の城を落とし京と岐阜の通行路を確保したことで、今後の戦いを有利に進めるための準備は整いました。
「姉川の戦い」は、織田信長の事前準備の綿密さ・精鋭部隊の強さ、浅井長政の作戦立案力・引き際の判断力、両者の良さがよく出た戦いだったともいえるかもしれません。
参考「文献の案内」
太田広司『浅井長政と姉川合戦』・桐野作人『織田信長』・藤本正行『信長の戦争』