美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

生い立ち

紫式部の生い立ちと文学者の父・藤原為時との関わり

投稿日:2023年11月16日 更新日:

紫式部はの『源氏物語』は、パリのユネスコ本部で、日本人としてただ一人世界の偉人として選ばれています

 

 

シーザーやゲーテと並んで世界の文化に貢献した人として、紫式部は世界的な存在です。

 

 

平安時代に生んだ女流作家(文学者)は、今の世界に通用する文学を千年前に書いた凄い女性なのです。

         ▲紫式部

 

勤務(宮廷)をしながら一児の母として厳しい環境の中で、同僚のイヤミやネタミを受けながらが長編小説を完成させ、いまでも読み継がれています。

 

 

平安時代女房という呼び名は、どんな意味で何をしていた女性でどんな職業だったのでしょうか?

 

 

簡単にいうと「宮廷」で働いていた女性のことを「女房」と言ったのです。

基本的には、天皇・皇后の他位の高い高貴な人に仕えた。

 

 

宮廷で働くことを「宮仕え」といいます。

例えば、皇后様に仕えて教育係を任されたり、身の回りのお世話をしたり、話し相手をしたり、来客時の対応と多岐に渡っていました。

 

 

また、天皇の着物を塗ったりお香を調合などもしてたようです。

紫式部は、無理やり宮廷出仕させられてことが、当時の日記に綴られていますし、同時代頃に書かれた枕草子更級日記などにも初出仕時の様子が描かれています。

 

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紫式部の家柄と教養

紫式部は平安時代中期に宮廷で活躍した貴族の女性です。

先祖を辿っていくと、父方と母方も藤原北家・藤原冬嗣にたどりつき、藤原冬嗣は摂関政治の礎を作ったような人で、その息子・藤原良房は臣下で最初に摂関となっています。

 

 

つまり彼女は、非常に由緒正しい家柄出身でしたが、父・藤原為時は大して出世していませんが、おそらく生粋の文化系だったのかもしれません。 文章道(漢文学)を志して学者になるのです。

 

 

世間の主流とは、少々異なる道に、最も身近な先達である父が進んでいたのでした。

 

 

母が早死にしたため、紫式部は兄弟と共に父の元で育ち、幼少期の紫式部が、弟よりも先に漢文を読みこなしました。

 

 

実家にいる間、父の蔵書から得た多くの知識・箏の演奏を表に出そうとはしなく(偉そうにしなかった)、また、当時は男性が読むものとされた漢文の書物を読みこなし、弦楽器の一種である箏(そう)の腕は師範級、和歌が上手なことでも有名だったという紫式部です。

 

 

父親から「娘が男だったら」と惜しまれたというエピソードも伝えられています。

もしそうだったら『源氏物語』は誕生していないかもしれません。

      ▲源氏物語の本(イメージ)

 

父親から「娘が男だったら」と惜しまれたというエピソードも伝えられています。

もしそうだったら『源氏物語』は誕生していないかもしれません。

 

 

式部は「源氏物語」を書いた平安時代中期に活躍した女性、誰もが知っている古典の名作の作者で「作家・詩人・女房(女官)」。

 

 

正確な生誕日は不明ですが、おおよそ天延元年(973年)おおよそ1050年前に生まれ、長元4年(1031年)中旬頃に亡くなっています。

 

 

長編小説『源氏物語』の作者で、藤原道長の要請で宮中に上がった際に、宮中の様子を書いた『紫式部日記』もあります。

 

 

歌人としても優れ、子供時代から晩年に至るまで自ら詠んだ和歌から選び収められており、中古三十六歌仙※1及び女房三十六歌仙の一人でもある。

※1.中古三十六歌仙とは、平安時代末期に藤原範兼が『後六々撰』に選び載せた和歌の名人三十六名の総称。

三十六歌仙が選ばれた後に称されたもので、三十六歌仙に属さなかった秀でた歌人と、それ以後の時代の歌人が選ばれている。

 

◯名前一覧
文屋康秀 在原元方 藤原好忠 大江匤衛 兼覧王 紫式部 大江千里 清原深養父 菅原輔昭 赤染衛門 藤原公任 和泉式部 在原棟梁 藤原定頼 藤原高遠 藤原実方 清少納言 相模 能因法師 益基法師 藤原長能 藤原義孝 源道済 伊勢大輔 平貞文 恵慶法師 道綱卿母 大江喜言 道命阿生闍梨 藤原道雅 藤原忠房 安法法師 大中臣輔親 藤原道信 馬内侍 上東門院中将

 

 

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紫式部(本名:香子)

具体的な生年月日は不詳です。

おおよそ970年〜978年頃に生まれ、1019年頃まで生存していた事がわかっていて、生存日数は約50年前後といわれています。

 

 

平安時代中期京都で生まれ、名は、香子(かおりこ・こうし・たかこ)とする説もあり、父は藤原北家良門流の藤原為時、下級貴族でありましたが、天皇に漢学を教えた経歴を持つ漢詩人・歌人でした。

 

 

母は母は藤原為信の娘でしたが、紫式部が幼い頃に亡くなりましたが、兄・姉がいて、父から漢学を学び才女として知られるようになって行きます。

 

 

 

紫式部の結婚後

父親の無職期間が長かったので婚期を逃し、平安時代ではかなりの晩婚ですが、25歳頃父の友人で、また従兄弟にあたる藤原宣孝との縁談話、親子に近い年の差で、正妻ではない結婚をします。

 

 

宣孝は、度々手紙でお茶目な謎掛けをするなど、紫式部の才気を愛していた様子が窺えます、そして二人の間に娘・賢子(後の大弐三位)が生まれて、ささやかな幸せが訪れました。

 

 

しかし、それも束の間年上だった夫・宣孝は、長保3年(1001年)4月に急死してしまいます。

 

 

その後寂しさを埋めてくれたのが『源氏物語』の執筆でした、その評判聞いた当時の実力者・藤原道長に誘われました。

 

 

貴族の女性が外に働きに出ることは、はしたないと考えられていましたが、それでも紫式部は、道長の元で働くことを決定します。

 

 

シングルマザーの紫式部は経済的にも困っていたのかもしれません。

寛弘4年(1007年)頃、一条天皇の中宮彰子に仕え流ことになり、宮中での様子を書いた『紫式部日記)や自らの和歌を集めた『紫式部集』も残しています。

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紫式部というペンネーム

紫式部という名前は、いま風にいえばペンネームです。

『源氏物語』のヒロイン紫の上と、父親の役職だった式部丞にちなんで付けられた呼び名です。

 

 

『源氏物語』が有名になる前は、藤原という姓から一字を取って藤式部と呼ばれていたともいわれます。

 

 

-生い立ち

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。