清少納言は、藤原道隆の娘・定子に正暦四年(993年)前後に仕えて長保3年(1001年)頃宮廷を去っています。
一方、紫式部は藤原道隆の弟・藤原道長の娘・彰子に寛弘2年(1005年)頃から仕えています。
だから二人は面識がなかったと言われます。
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日本文学史において女流文学の道をきり開いてきた作家は沢山いますが、その筆頭と言えるのは、『枕草子』の著作である清少納言と、同じく『源氏物語』の紫式部です。
この二人が活躍した時期は平安時代中期であって、宮廷で働いていた身分であることなど、その共通点をいくつか挙げることが可能です。
まず、二人は藤原兼家の長男・藤原道隆の娘・定子を第66代一条天皇の正室(皇后)に嫁がせる。
▲清少納言と紫式部の関係図
弟(五男)・藤原道長の娘・彰子を一条天皇の中宮※1として入れる事に成功。
※1.中宮(ちゅうみや)とは、皇后・皇太后・太皇太后の別称。
平安時代には皇后につぐ后(きさき)をさす一条天皇のとき、藤原定子と彰子の二人が皇后に立つことになったので彰子を中宮と称してから、皇后につぐ后をさすようになった。
皇后と同じ資格・待遇を与えられた。
定子に仕えたのが清少納言、彰子に仕えたのが紫式部、一条天皇自らも詩歌や器楽など芸術全般に優れた人物でした。
これは、天皇が政治に携わらない時代であることも意味します。
王朝文化の最盛期は、摂関政治※の最盛期であった。
※摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、天皇の外威として摂政や関白あるいは内覧といった要職を占め、政治の実権を代々独占した。
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清少納言
清少納言は藤原道隆が摂政をしてた時に中宮・定子に仕える。
紫式部と双璧を成す有名な女房(女官)ですが、面識は全くありませんが紫式部の方がライバル視をしていました。
▲清少納言(イメージ)
『枕草子』は、中宮・定子に仕えた女房(女官)、清少納言により執筆されたと伝わる髄質です。
清少納言には、二人の子、一人は橘則長と、もう一人は小馬命婦です。
長男である橘則長は、橘則光との子、長女・小馬命婦(後に同姓同名がいたため上東門院小馬命婦と改名)は、清少納言が橘則光と離婚後。藤原棟世との子です。
娘・小馬命婦は、宮廷に出仕していましたが定子の後に中宮となった彰子に仕えました。
当時としては母子で宮仕えは珍しくなかったといわれ、紫式部の娘・大弐三位。和泉式部の娘・小式部内侍も母子で出仕していました。
清少納言は明るく朗らかな性格だったといわれてます。
また、紫式部と同様、彼女も百人一首にも選出されています。
清少納言も三十六歌仙に名を連ねている歌人です。
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清少納言の生い立ち
清少納言は康保3年(966年)頃誕生、父・清原元輔は『後撰和歌集』の編集に従事したほどの当時の代表歌人の一人でした。
清原家は地方の任国で行政事務を行う受領層※2でした。
※2.受領(ずりょう)とは、国司四等官のうち、現地に赴任して行政責任を負う筆頭者を平安時代以降に読んだ呼称です。
実際に現地に赴任する国司が前任者から文章や事務の引継ぎを受けることを「受領(する)」と言い、それが職名になった(なお、後任者に文章や事務の引継ぎを行うことを「分付(する)」と称した。
長は守及び権守で、おおよそ四位、五位どまりの下級貴族である諸太夫が、この任に当てられた。
但し、親王任国の上野国、常陸国上総国の3か国は守たる親王が現地赴任しないため、次官の介及び権介が受領である。
次席である介(受領である場合を除く)、三席の掾、四席の目は任用と称する。
なお、任官されながら実際に任国に赴かず官職に伴う給付だけ受ける国司を遥任という。
その上、清原家には漢学に精通した人々が多く、清少納言は幼い頃より教養的に豊かな環境で育ち、16歳頃橘 則光と結婚し、翌年には長男・則長を出産、その後約9年間の結婚生活を離婚で終わらせました。
夫・橘 則光のことを“お人好しで小心者”感じていたようです。
清少納言の歯に衣(きぬ)を着せぬモノいいは、若い頃からの性分のようです。
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清少納言は何をした人でしょう?
清少納言といえば、傑作随筆『枕草子』です。
『枕草子』は清少納言が宮中に出仕しているときに書き始められた物語です。
それは華やかな宮廷生活を清少納言の感性で切り取ったものです。
父・元輔は有名な歌人であったのに、清少納言は歌が苦手だったという説があります。
清少納言は、和歌でも物語でもない新しいジャンルを築き上げました。
『枕草子』は、清少納言の個性、新鮮な視点、切れ味の良い文体で宮廷の美を綴った斬新な作品でした。
時間にとらわれない場面性があり、映像的で連想的に書かれているからです。
おおらかで優しい中宮・定子に見守られて、のびのびと才能を発揮していく宮仕えの生活が『枕草子』を綴ったのです。
中宮・定子のサロンは華やかな社交場でした。
清少納言はウイットに富んだ会話を楽しみ、当意即妙のやりとりにワクワクし、生まれながらの優れた素質を発揮しましたが、清少納言の出仕した期間は意外に短く、定子が没すると共に約10年間で終わりました。
清少納言の晩年
清少納言の晩年は、ほとんど明らかになっていませんが、『古事記』によれば、晩年には零落の身※3になったと書かれています。
※3.零落の身とは、落ちぶれること。見る影もない。
清少納言の家と呼ばれる家が荒れ果てていて、前を通った人が「才女もここまで落ちたか」と笑った、と。
けれども、その時破れた簾をあげ、恐ろしい顔つきの老婆が言った「落ちぶれても駿馬※4の骨には買い手がいる。
※4.駿馬(しゅんめ)とは、足の速い馬。すぐれた馬。
馬鹿にしなさるな」と最後までプライドを捨てなかった清少納言の、闊達※5な性格が伺いしれるエピソードです。
※5.闊達(かったつ)とは、度量が大きくて、小さな物事にこだわらないさま。
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紫式部と藤原道長との出会い
藤原道長は藤原兼家の五男、長男の藤原道隆が死去したため跡を嫡男の伊周が継ぐところを藤原道長が殺害して権力を手中にいれる。
▲紫式部(イメージ)
藤原道長は「この世は私の天下」と和歌に残すほど栄華を極めた、藤原北家(後で記事を書きます)の五男でした。
兄・藤原道隆の娘・定子は一条天皇に嫁ぐが父の死により出家した後も一条天皇が定子を求め再会するも第二皇女出産に伴い定子は死亡。
弟・ふじわr道長は娘・彰子を一条天皇の後沿いに押し付け正妻に成功します。
一条天皇はロクに彰子とは話をしなかったが、定子がいなくなったから寂しさを彰子に求め、定子の産んだ皇子を彰子が育てる旨を天皇に願い彰子と仲良くなった。
それを確認した道長は優秀な女房たちを求めた。
その時、紫式部の噂を聞いて交渉して彰子の教育係に紫式部が仕えました。
紫式部の生い立ちについては、URLをご覧になってください。
こうして中宮・彰子との接点ができ、知性豊かな女房が多く仕えるということは、彰子にも知性があると一条天皇に思っていただくためです。
女房となった紫式部は彰子に漢文学を講義するなど家庭教師のような役割を担いました。