後藤又兵衛は黒田官兵衛を支えるも、息子・黒田長政に疎まれた名将です。
その話は別の機会にしますが、まずは、大阪夏の陣に参戦した浪人五人衆とは、後藤又兵衛・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登・真田幸村の事をさしています。
その他、関ヶ原の戦いで徳川家より改易になった武将も参戦して、勝る勝負をみすみす逃した大阪の夏の陣でした。
スポンサーリンク
大阪方に参戦した武将たち
豊臣家では、徳川家と戦が控え浪人たちを多く集めた10万人ともいわれる。
ゾロゾロと大阪城に入城した浪人の中には、大将級の者以外にも、過去に関ヶ原の戦いで西軍に加担するなどして改易された武将の子弟達がいた。
その中には、真田幸村の義父・にあたる名将・大谷吉継の子・大谷吉治もいた。
父・吉継戦死後、各地を放浪した末、慶長19年(1614年)10月大阪城へ入城する。
しかし、夏の陣天王寺口の戦いで戦死した。
他にも、信濃小諸城主・仙石秀久の嫡男・仙石秀範や、浅井長政の3男・浅井井頼(養子とも)つまり淀殿の義弟とされる、福島正則の弟・福島正守や細川忠興の次男・細川興秋など、徳川方の大名の子も少なくなかった。
その他、現役大名は誰一人誘いに応じなかったものの、大阪方は秀吉の遺産が蓄えられ金に物いわせ、10万人ともいわれる兵を集め、開戦の準備を勧めていった。
スポンサーリンク
大野治長と城外出撃論
この男、大野治長は無策の持ち主だったらしい、10万人越えの浪人衆を召し抱え大軍に膨れ、にわかつくりの烏合の衆で統制が難しく、譜代と新規召し抱えの武将との間の調整は容易ではなかった。
それを統括してた男が大野治長である。
治長の母・大蔵卿は淀殿の乳母であり、淀殿と治長は乳兄弟になる。
豊臣家家老の片桐且元が去った後、この治長が大阪方の総師として仕切っていたが、戦場での経験は少なく、しかも、武将の意見は淀殿に伺い決定したという。
そうした治長の統括権は、軍議にも及んだ。
大阪城内では浪人衆を交えた軍議が盛んに行われた。
『難波戦記』によると、まず大野治長が、片桐且元の茨木城を落として京を焼き討ちして、京都所司代の板倉勝重を虜にしてはどうかと積極策を提案したという。
ここで真田幸村は、京を占領しても宇治・勢多を越えられては意味がないと主張し、さらに後藤又兵衛も、この案に和して「徳川方の全軍が大阪に到着する前に、宇治・勢多の橋を落として畿内西国との往来を阻めば、諸大名も味方に着くだろう」と治長の上を行く攻勢を主張した。
この時点では、あくまで籠城は最後の手段であったのだ。
しかし、浪人衆の小幡景憲が、「宇治・勢多を守って古来勝利した者はない」と異論を唱えると、結局治長は籠城策を採用する。
大阪城はかつて豊臣秀吉が富と権力を結集して築城し、幅40〜50間(1間=180m)もある堀を備えた広大堅固な巨城であった。
大野治長や淀殿は浪人衆より、この防護力を頼みにしたのだった。
こうして大阪方は積極策を否定し、援軍ないないなかでの籠城策を選ぶこととなる。
幸村が提案した出撃論は危険だったとの指摘がある. というのも浪人の寄せ集めでである大阪方の脆弱な統率力では、長距離出撃した部隊が制御不能になる可能性が高かった。
さらには、軍議が開かれた頃には、すでに数万の大軍が上方へ進出しており、出撃の意図が阻まれいたと思われる。そうしたことから、籠城策が賢明であったというのであった。