第56代・一条天皇の后になった藤原定子は、貞元2年(977年)にそして正暦元年(990年)14歳で入内して中宮になったが、父の死と兄の流罪で後ろ盾が亡くなり出家するも一条天皇が呼び戻して定子を寵愛、そして、長保2年(1000年)に、一条天皇との第三子を出産後、後産により23歳の若さで亡くなった。
※.上記の藤原定子をクルックすると詳しい記事があります。興味ある方は呼んでください。
藤原道長は一帝二后を設けて、我が娘・彰子を一条天皇の后(中宮)とした。
藤原彰子は永延2年(988m年)に誕生、定子とは11歳の違いがある従姉妹同士、長保元年(1000年)に12歳で中宮になる。長保3年(1001年)に一条天皇と定子との間の第一子敦康の義母になる。
そして、寛弘5年(1008年)に一条天皇と彰子との子敦成(第二子)、翌寛弘6年(1009年)に敦良(第三子)を出産する。
スポンサーリンク
紫式部は藤原道長の出会いで彰子の元へ
后となった彰子に、道長は十分な教養を身につけさせるため、優秀な家庭教師を探していました。
そこで目に留まったのが、宮中で評判になっていた『源氏物語』の作者・紫式部(幼少の名は香子(呼び名は、香子(かおりこ・こうし・たかこ)で、紫式部という名も後日付けられた)に白矢が当たったのが始まりじゃないかと推測します。
紫式部は『源氏物語』を執筆しながら、彰子に仕えて宮中で家庭教師を務め、道長は雇い主となり、また、執筆活動の支援をして貰っていました。
当時は高級品だった紙や硯を贈答されたり、源氏物語の続きを早く書いて欲しいと激励の文を貰っていました。
道長が執筆を催促したのは、娘・彰子と一条天皇の仲を深めるため、物語の続きがどんどん発表されれば、『源氏物語』を愛読している天皇は続きを読みたいから頻繁に彰子・紫式部の元へ訪れます。
そうなると必然的に紫式部と一緒にいるいる彰子とも接する機会が多くなるわけです。
もちろん道長自身も源氏物語の熱心な愛読者だったと言われます。
いずれにせよ、紫式部にとって道長は執筆活動の大きなスポンサーになりました。
スポンサーリンク
紫式部と中宮・彰子との関係
『源氏物語』の作者として有名な紫式部※1、彼女は作品を執筆しながら、雇い主の中宮(天皇の妻)藤原彰子の女房で家庭教師のような存在で務めていました。
▲紫式部
※1.紫式部という名前はどうしてついたか?、清少納言という通称は、「清原少納言の女(関係者)」の略称で女房名(宮廷で使う名前)です。
紫式部の場合は、後世に誰となく言い始めた通称で、本来の女房名は「藤式部」。
これrは紫式部の父、藤原為時が式部省の官僚・式部大氶だったことから来ており、「藤原式部の女(娘)」の略です。
藤式部という女房名は特に珍しいものではなかったので、後世に彼女の作品『源氏物語』に登場する「紫の上」にちなん「紫式部」と呼ばれるようになったと言われます。
和泉式部の場合は、夫(のちに離婚)が和泉守、父が和泉省の官僚だったことからくる女房名です。
女房は、貴族や朝廷に仕える女性使用人の役職に一つで、基本的には主人の身の回りの雑事ななどをし、まだ主人が幼なかった場合には、家庭教師役となって教養を学ばせなせる役です。
そのためには女房になるには頭の良い才女が望まれます。
『源氏物語』を執筆中だった紫式部は彰子の父・藤原道長に文才を見込まれ娘・彰子の女房役を依頼され、彰子に仕えることとなった紫式部は、彰子に文字の読み書きを始め和歌や漢文学などを教え、慣れない仕事に最初は戸惑っていたものの、少しづつ中宮・彰子との間が打ち解けて親しくなっていきます。
スポンサーリンク
名付け親か?中宮・彰子から貰った「紫式部」という名
平安時代の女性は、本名を明かさず別名で生活するのが習わしでした。
紫式部も通称ですが、この紫式部という名を彼女に与えたのが彰子でした。
というのも『源氏物語』を読んだ中宮・彰子は、登場人物の一人「紫の上」をとても気に入り、その紫をとって今まで使っていた「藤式部」→「紫式部」という通称を考え実際にそう呼んでいたと言います。
つまり自分のお気に入りのキャラクターから、あだ名を付けて彰子はそう呼んでいたということで、そう呼ばれた本人も嫌いでなかったようで通称・紫式部と呼ばれる様になりました。
紫式部を嫌っていたり、ただの家庭教師と思っていなければ、お気に入りのキャラクター名を付けないと思います。
こうした点から紫式部は中宮・彰子に好かれていたことが分かります。
中宮・彰子は紫式部を好いており、紫式部も中宮・彰子を慕っていたようです。
『紫式部日記』より
その中で紫式部は、中宮・彰子のついて、こう記しています。
「つらいことも多いなかで心をなぐさめるには、こういう方(彰子)を探してでも仕えるべき」
「普段の沈んだ気持ちを忘れてしまうのは不思議だ」
中宮・彰子に仕えることで、暗い気持ちから救われていた様子が伺えます。
「探しても仕えるべき」と思うほど、紫式部は中宮・彰子の存在が大切だったのでしょう。
紫式部と中宮・彰子は、形式上は中宮と女房の主事関係ですが、あだ名や日記のエピソードを踏まえると、主従関係を越えてお互いを慕い合っていることが分かります。
スポンサーリンク
紫式部と道長の関係は
貴族の系譜を記録した、『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)という本に証拠があるようです。
『尊卑分脈』では、紫式部について、『源氏物語』の作者・紫式部は道長妾と記されています。
妾とは今も昔も「愛人」のこと、つまり紫式部は道長の愛人であったと解釈できます。
しかし、『尊卑分脈』は一部の記述の信憑性が低いと指摘されているため、紫式部と藤原道長が恋愛関係にあったとも言い切れません。
紫式部が残した『紫式部日記』には、道長のアプローチを断っていた記述もみられます。
道長は「あなたは、さぞ恋愛経験が豊富で、よく口説かれもするでしょう」という内容の和歌を紫式部に贈りました。
これに対して紫式部は「私は誰にも惹かれておりません。心外です」と素気なく返したそうです。
『紫式部日記』の別の箇所では「夜に寝ていると、道長が部屋を訪ねてきて一晩中戸を叩かれた」「戸を開けていたら後悔していたでしょう」とも記されています
もし紫式部と道長が恋愛関係であれば、せっかく訪ねてきた恋人を無視はしないでしょう。
『尊卑分脈』を除いて、ふたりに特別な関係があったとする記録はありません。
紫式部日記の記述もふまえれば、愛人説はあまり現実的ではないといえそうです。
紫式部からすると、道長は家庭教師の仕事をくれた雇い主でした。
また『源氏物語』の執筆を支援してくれる、強力なパトロンでもあったのです。
逆に道長からすれば、紫式部は娘の優秀な教育係。
そして惜しみなく支援するほどの才能をもった部下でもありました。
愛人関係にまではなっていませんが、お互いにとって重要な存在であったことは確かでしょう。