美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

初 出仕

紫式部の朝廷に出仕した時期はー『源氏物語』は藤原道長のおかげで完成

投稿日:2024年3月3日 更新日:

   紫式部の事をもっと知りたい、いままでは、紫式部の結婚相手は歳の差婚の藤原宣孝とした事を伝えて来ました。

 

 

藤原宣孝なる輩はどういう人物かというと、平安時代中期の貴族で、藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子で、円融天皇期末に六位蔵人兼左衛門尉を務め、永観2年(984年)円融天皇が花山天皇に譲位すると、藤原宣孝は院判官代に補せられ、しかし、まもなく今度は花山天皇の蔵人に転じてた

 

 

一条天皇朝の正暦元年(990年)筑前守に任じられて筑紫に赴任すると、、正暦3年(992年)頃、太宰少弍※1も兼ねていた。

※1.太宰少弐とは、太宰府の次官。定員二人。従五位下相当。職業は大弐に同じ。鎌倉時代に御家人・武藤氏(のちに少弐氏)が少弐を世襲してからは政務も実験を握り、帥、大弐の使命はは有名無実化する。

 

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のちに、右衛門補佐として京官に復し、長徳4年(998年)山城守を兼ねるが、この頃に紫式部と結婚して一女を設けている。

 

 

また、任官時期は不明なるも弁官を務め他らしいが、蔵人・右衛門補佐(検非違使佐)と同時には兼帯せず、三事兼帯とはならなかったという。

 

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紫式部の出仕

寛弘2年(1005年)頃の年末に一条天皇の中宮・藤原彰子の元に出仕する。

初めの呼び名は藤式部だったが、途中で紫式部と呼ばれるようになる。

 

藤原道長が紫式部に朝廷への出仕を熱望

藤原道長が紫式部に朝廷に出仕を頼んだ経緯は、紫式部の執筆した『源氏物語』が宮中で評判になっていた、それを知った道長は、娘の彰子に一条天皇の子を産ませることによって、権力を手中にに収めたい紫式部に接触をした。

 

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しかし、一条天皇は愛する先の中宮・定子を亡くしたばかりで、彰子に全く興味を持ってくれませんでした。

 

 

そこで、藤原道長は彰子の周辺に優秀な女房を、揃えることよって彰子自身を魅力的な女性に教育させようと考えて、こうして、彰子を魅力的な女性に教育させようと考えた。

 

 

そして、目をつけらたのが、『源氏物語』書いている紫式部にアッタクした、こうして、彰子の魅力向上のために、式部の才能を買われ家庭教師となったのです。

    ▲紫式部と藤原道長(イメージ)

 

 

断りで切れなかった紫式部

寛弘2年(1005年)頃の年末に、紫式部は一条天皇の中宮・彰子の女房となる女房を採用、彰子の父である藤原道長は、彰子を天皇の寵愛を得る女性にしたいと、周りに仕える教養豊かな女性たちを集めていた。

 

 

『源氏物語』を書く紫式部の評判を耳にしてスカウトに走ったした、ただし、当初出仕に乗り気でなく、道長夫婦あらゆるルートを使って紫式部の出仕を促したといわれます。

 

 

紫式部道長の妻の源倫子は、又従姉妹の間柄であり、亡き夫・藤原宣孝の兄・藤原説孝も藤原道隆に仕える立場にあり、こうした人々に出仕を勧められた上、自身の父も弟も道長の恩顧なっている事を考えれば断りきれなかった。

 

 

宮廷で“いじめ”を受けて引き籠り

いつの時代でも“いじめ”はあるんですね。

こうして出仕した紫式部であったが、年を越すとすぐ里下がりをしてしまう。

 

 

その背景には、同僚女房による“いじめ”があった、『源氏物語』の作者という経歴から、同僚女房から「才能を鼻にかけ、とっつきにくく人を見下している人」と警戒されたのです。

 

 

だが、その後、彰子や同僚女房たちからの手紙を受けて、紫式部は5ヶ月後にようやく復帰した。

 

 

1000年前でも現在でも“いじめ”という問題はなくならないという事を肝に命じておいた方がいいと思います。

 

 

今度は間抜けな振りして同僚の警戒心解いたことが『紫式部日記』で語られています。

 

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『源氏物語』は藤原道長のおかげで完成

『源氏物語』は、書き始めた頃は紫式部の仲間内で批評し合う程度のものでした、というのも、当時、紙は非常に貴重のもので、そう簡単に手に入る物ではない、そのため、紙が手に入ればその都度書く程度のものでした。

 

 

長編にしようとしたわけではなく、「枡形本」という小さな冊子にして書いていました。

 

 

しかし、次第にその評判が広がっていき、藤原道長のもとまで評判が届き、道長ははすっかりファンになってしまい、道長は娘・彰子の家庭教師と採用するわけですから、それだけではありません、書くためのスポンサーになってくれて、大量の紙や硯の提供、丁寧な装丁を施したりしていました。

 

 

『源氏物語』は、全部で54帖に分かれており、これは、400字詰めの原稿用紙に換算すると2500枚の量になります。

 

 

それほどまでに協力してくれる藤原道長がいたからこそ、『源氏物語』完成した言っても過言ではないと思います。

 

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道長は『源氏物語」の続きを催促していた?

道長が『源氏物語』を支援していたのはファンだったということもありますが、娘・彰子と天皇の仲を深めたいという野望がありました。

 

 

天皇も『源氏物語』を愛読してて、その都度、紫式部の元に訪れることができ、このような目的があったため、道長は頻繁に式部の元を訪れて催促していました。

 

 

 

-初 出仕

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。