美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

お家騒動

江戸時代の三大お家騒動は加賀騒動・黒田騒動・伊達騒動と他のお家騒動19件

投稿日:2024年5月21日 更新日:

江戸時代大名家では、藩主やその一族、家老などの一団の領袖となりうる立場の人間が派閥を作りあげて内紛を繰り広げた例が数多くあります。

 

 

そのような事象が脚色されて、歌舞伎・狂言の御家物と呼ばれる様式の題材となって伝わりお家騒動として江戸庶民に知られるようになりました。

 

 

抗争の原因として最も多いのは家臣間の対立、古参ともいうべき譜代の家臣と新参の家臣や出頭人との対立、当主の代替わりにおける役職交代による軋轢藩政改革に伴う守旧派と改革派の対立、幕末期における信条の対立など、家臣間には主導権や藩政の方向性を巡ってあらゆる派閥抗争の動機があった。

.軋轢(あつれき)とは、人の仲が悪く争うこと。不仲。

 

 

また、藩主と家臣団の軋轢を要因としてお家騒動を起こした例もありました。

家督騒動や養子縁組が事由の抗争も発生した。

 

 

加賀騒動、黒田騒動、伊達騒動「三大お家騒動」などではこれらの原因がいくつも複合していた。

 

 

こうした内紛は大名家中で解決するのが習わしであったが、問題を幕府や本家、親族の大名に訴え出ることで仲介や裁定を頼んだ当時者もいました。

 

 

特に江戸時代初期の騒動では、求めに応じた幕府が審理に基づいて大名家に介入し、改易や減封、転封などの処置を下しています。

 

 

しかし江戸中期の徳川家宣の治世を経て、幕府は政策を改めて関与を徐々に減らし、19世紀はじめ仙台騒動を最後に、お家騒動への介入は行われていません。

 

 

 

加賀騒動(大槻騒動)

加賀藩前田家で起きたお家騒動。

6代藩主・前田吉徳の寵臣・大槻伝蔵は財政改革を進め、門閥年寄の前田直躬らと対立しました。

 

 

延享2年(1745年)吉徳が急死し襲封した7代・宗辰も1年余りで死去しました。

 

 

直躬らは藩主の死去について大槻に嫌疑をかけて配流し、一族にも罪を着せたのです。

 

 

続いて起きた 8代・前田重熙と浄珠院(宗辰生母)の毒殺未遂事件も大槻と真如院(吉徳側室)の陰謀とされ、大槻は寛延元年(1748年)に自殺し、真如院も翌年殺害され、事件関係者の糾弾は宝暦4年(1754年)まで続きました。

 

 

 

伊達騒動

陸奥仙台藩伊達家で起きたお家騒動は、万治3年(1660年)に、幕府は3代藩主・伊達綱宗を隠居させて2歳の亀千代(綱村)に家督を継がせ、一門の伊達兵部宗勝と田村右京宗良を後見としました。

 

 

兵部は家老の原田甲斐宗輔と連携して藩政を処断したため、反対派の伊達安芸宗重らは寛文11年(1671年)幕府に訴え出ました。

 

 

大老の酒井忠清邸宅で甲斐と安芸は尋問を受けましたが、その最中甲斐は安芸を斬殺し自身もその場で殺されました。

 

 

また、敗訴した兵部は改易されました。

 

 

 

越前騒動

越前福井藩松平家に起きたお家騒動で久世騒動ともいいます。

重臣・久世但馬守と岡部自休の対立が、家老・本多富正と今村盛次一派の対立に発展し、慶長18年(1613年)将軍秀忠の直裁で本多に藩主・松平忠直(文禄4年:1596年~慶安3年:1650年)の補佐が命じられ、今村以下は配流・ 追放されました。

 

 

和霊騒動

宇和島藩初代藩主・伊達秀宗が、総奉行の山家清兵衛公頼を成敗した事件です。

 

 

これは慶長19年(1614年)に創設された宇和島藩が、本家仙台藩から多額の借金をしたためその返済方法などで反対派が形成されたのです。

 

 

元和6年(1620年)6月清兵衛は秀宗が差し向けた刺客に襲われ 家族と共に斬殺されました。

 

 

これ以降藩内では海難や落雷で変死者が続出し、風水害・地震などの天災が清兵衛の祟りとされたため、承応2年(1653年)清兵衛の霊を和らげるため 33回忌に和霊神社を建てました。

 

 

柳川一件

対馬藩宗家に起きたお家騒動で、江戸時代の日朝外交を揺るがせた事件です。

自ら幕臣化を謀った重臣・柳川調興は藩主・宗義成と対立し、争論の過程で近世初頭の日朝外交における国 書の偽造、改ざんを暴露しました。

 

 

寛永12年(1635年)将軍・家光の親裁で、調興は津軽へ流罪と江戸時代のお家騒動、越前騒動、和霊騒動、柳川一件、朝鮮外交の実務を担った以酊庵の規伯玄方は南部藩へ流罪となりました。

 

 

この事件後 「日本国大君」号の使用、京五山の碩学による以酊庵輪番制が開始されました。

 

 

 

黒田騒動

筑前福岡藩黒田家で起きたお家騒動。

2代藩主・黒田忠之は元和9年(1623年)襲封後、新参の倉八十太夫らを側近として重用し、筆頭家老の栗山大膳利章など旧臣と対立しました。

 

 

寛永8年(1631年)忠之は幕府に大膳処分の内諾を取付け、翌年(1632年)帰国すると大膳の知行を没収したため、大膳は幕府に主君・忠之に謀叛があると出訴しました。

 

 

寛永10年(1633年)幕府の審理を受け謀叛は大膳の虚言とされて黒田家は改易を免れました。

 

 

大膳は南部藩へ配流され、倉八は高野山へ追放されました。

 

 

 

海部騒動

阿波徳島藩蜂須賀家で起きたお家騒動。

2 代藩主・蜂須賀忠英は藩主権力確立のため、門閥制 の解体・藩主への権力集中・藩の官僚体制確立を進めました。

 

 

これに反発する益田豊後長行 (江戸家老で海部郡に 5500 石を知行)は、自身の知行地を藩から独立させる資金とするため、 藩有林を無断で伐採して江戸に回送し売却したといいます。

 

 

そのため寛永 10 年(1633年)藩主・忠英は益田らを幽閉したのです。
抵抗を続けた益田家は正保 3 年(1646)に改易されました。

 

 

 

船橋騒動

弘前藩津軽家で起きたお家騒動は、3 代藩主・信義が取り立てた新参の船橋半左衛門と譜代重臣 らが対立しました。

 

 

寛永 11 年(1634年)重臣の津軽伊豆・津軽美作ら13 名は、船橋一派の排除 を幕府に提訴したのです。

 

 

寛永 13 年(1636年)幕府の審理で船橋半左衛門は伊予松山藩へ、伊豆・ 美作は長州藩へ流罪になりました。

 

 

 

津和野騒動

津和野藩亀井家で起きたお家騒動。

元和5年(1619年)初代藩主の亀井政矩は30歳で亡くなり、 嫡子大力(茲政)は3歳で家督を継ぎました。

 

 

幼君は外祖父・松平周防守康重の後見を受けましたが、家臣は多胡主水派と多胡勘解由派に分かれて対立し、寛永12年(1635年)大力(茲政)が19歳の時に両派の反目は頂点に達しました。

 

 

同年5月幕府は双方を呼び出して尋問し、主水派の申し開きが通ったため勘解由派は追放されました。

 

 

 

会津騒動

会津藩加藤家に起きたお家騒動は、寛永8年(1631年)加藤嘉明の死後、会津40万石を襲封した黒田騒動・ 海部騒動・ 船橋騒動・会津騒動・津和野騒動32代藩主・明成は家老の堀主水と対立しました。

 

 

寛永16年(1639年)主水は会津を退去し高野山などに隠れましたが明成は追跡を続けました。

 

 

主水は幕府大目付に明成を訴え、寛永18年(1641年)から幕府が審理を行いましたが、主水は明成に引き渡され江戸で処刑されました。

 

 

事件後明成は病気を理由に領地を幕府に返上し、子の明友に石見で1万石が与えられました。

 

 

生駒騒動

讃岐高松藩生駒家に起きたお家騒動は、生駒親正は讃岐一国を領した武将で、子の高俊が元和7年(1621年)3歳で襲封すると、幕命で後見役の藤堂高虎は江戸家老に前野助左衛門と石崎若狭を任命しました。

 

 

国家老の生駒将監とその子帯刀は次第に前野らと対立し、寛永14年(1637年)帯刀が老中・土井利勝、藤堂高次に前野らの不正を訴えたため、前野らは退去しました。

 

 

寛永16年(1639年)から幕府が審理し、翌年(1640年)前野派16名は死罪、帯刀派3名は大名預かり、高俊は讃岐17万8千石余を没収され出羽由利郡矢島1万石に移封されました。

 

 

池田騒動

播磨宍粟藩池田家に起きたお家騒動は、藩主・輝澄(池田輝政4男)は寵臣菅友拍の推薦で新参の小川四郎右衛門を家老に抜擢したため、家老の伊木伊織ら100人余が脱藩し伊木は幕府に出訴しました。

 

 

寛永16年(1639年)から幕府の審理を受け、翌年(1640年)伊木父子と物頭11名は 切腹させられ、小川は相馬家預かり、菅友拍父子は斬罪となり、藩主・輝澄は領地6万8千石を没収さ れ因幡鹿野に配流となり賄料1万石を与えられました。

 

 

古田騒動

石見浜田藩古田家に起きたお家騒動は、古田重恒は元和9年(1623年)2代藩主になり、藩主を20年余務めましたが嗣子がいないため、正保3年(1646年)に家老の古田左京は、孫の万吉に跡 目相続を画策して藩主側近の富島五郎左衛門にも相談しました。

 

 

しかし、富島は重恒に密告したため左京らは討たれてしまいます。

慶安元年(1648年)に重恒は嗣子がないまま没したため古田家は断絶しました。

 

 

越後騒動

越後高田藩松平家に起きたお家騒動は。

高田藩では藩主松平光長の妹婿である小栗美作が藩の実権を握り藩政を主導しました。

 

 

反対派(御為派)は幕府へ出訴し、延宝7年(1679年)の幕府評定で大老・酒井忠清は、反対派の家老荻田主馬、永見大蔵(光長異母弟)を敗訴としたた め脱藩者が相次ぎました。

 

 

天和元年(1681年)将軍・綱吉の親裁で再審が行われ、小栗美作は切腹、 弟の兵庫・十蔵らは伊豆大島へ流刑、荻田・永見らは八丈島流刑となりました。

 

 

藩主・松平光長も改易され松山藩へ預けられたほか、一族の松平直矩、松平近栄も減封されました。

 

 

野村騒動

伊勢桑名藩松平家に起きたお家騒動。

野村増右衛門は郡代手代の下代から頭角を表わし、 元禄9年(1696年)頃に100石取の台所頭目見になりました。

 

 

藩主・松平定重の寵愛を受けた増右衛門は、その後300石取りの勘定頭、500石取の用人、元禄14年(1701年)に 750石取の郡代になりました。

 

 

次いで新設の大奉行、さらに1500石取りになったといわれます。

増右衛門の専横が目立ったため譜代の家老などが藩主に訴状を出し、宝永7年(1710年)野村は裁定により死罪となりました。

 

 

また、藩主・定重も越後高田へ転封になっています。
なお、藩は文政6年(1823)に増右衛門を赦免しました。

 

 

秋田騒動(銀札騒動)

出羽秋田藩佐竹家で起きたお家騒動。

財政窮迫に悩む7代藩主・佐竹義明は宝暦4年(1754年)に銀札(藩札)の発行を決意し、幕府の許可を得て翌年(1755年)から発行しました。

 

 

銀札に不安を感じる領民は正銀との交換を控えたため藩内は混乱し、さらに凶作で藩は救援米の購入に銀を使用したため深刻な銀不足に陥りました。

 

 

宝暦7年(1757年)に至り銀札廃止派の家老石 塚孫太夫らと、継続派の家老山方助八郎らは激しく対立しました。

 

 

藩主・義明は宝暦7年(1757年)5月銀札廃止派に謹慎を申し渡しました。

しかし、同年6月には一転して継続派に対し厳罰を申し渡し、3家老の切腹をはじめ関係者が処分されました。

 

 

 

七家騒動

米沢藩上杉家で起きたお家騒動。

上杉治憲(鷹山)は明和4年(1767年)17歳で9代藩主に就きました。
治憲は日向高鍋藩3万石秋月種美の2男です。

 

 

その頃の米沢藩は財政が破綻し窮乏の極みでした。

そのため治憲は改革派側近の協力を得ながら藩政改革を進めました。

 

 

しかし、安永2年(1773年)保守派の重臣7人は治憲へ訴状をもって改革派を糾弾し、その罷免をせまり、藩政を旧来とおりに戻すよう強要しました。

 

 

治憲は証人を喚問し訴状は重臣7人の陰謀と判明したため、7重臣を切腹や隠居閉門に処しました。

 

 

 

白黒騒動

豊前小倉藩小笠原家で起きたお家騒動。

6代藩主の小笠原忠固は文化6年(1809年)の朝鮮使節応接後、幕閣で老中昇進を望んだため、執権小笠原出雲は幕閣へ多額の賄賂を使い藩財政の 窮乏を招きました。

 

 

こうした中、藩主の信任の厚い儒学者の上原与市は自身の権勢を築くため、国元の家老を取り込んで出雲と対立させました。

 

 

家中が不穏な状況の中、文化11年(1814年)上原派の家老が実権を握ります。
すると出雲は藩主忠固と相談し、城の鉄御門を閉鎖して藩中枢から追放された者を再登用しました。

 

 

そのため400人近い上原派一党は筑前黒崎に立ち退きました。

この一党は黒党と呼ばれ、残留組は白党と呼ばれました。

 

 

黒党は3日後城に呼び戻され事件は収拾しました。

藩主忠固は100日の蟄居を命じられています。

 

 

仙石騒動

但馬出石藩仙石家で起きたお家騒動。

藩政を巡り改革派の仙石左京久寿と保守派の仙石久恒・仙石主計が対立します。

 

 

こうした中文政7年(1824年)藩主政美が無嗣にて江戸で死去し、左京と長男小太郎が出府したことが主家横領の嫌疑を招いて騒動に発展しました。

 

 

新藩主は決まりましたが両者の対立は続き、反左京派が出訴して幕府が介入することになりました。

 

 

その結果、天保6年(1835年)左京らは処刑され、藩領5万8000石は3万石に減封されました。

 

 

また、左京と縁戚関係にあった老中首座の松平康任は隠居謹慎、子の康寿は転封される一方老中水野忠邦は老中首座、寺社奉行の脇坂安董は老中となっています。

 

 

お由羅騒動

薩摩藩島津家で起きた藩主交代を巡る内紛。

10代藩主・島津斉興の第1子斉彬は積極開明的でした。

 

 

一方、天保の藩政改革を自重策で成果を上げた調所広郷の流れを汲む調所派は斉彬の継嗣に反対し、斉興の側室お由羅の子久光を擁立しました。

 

 

斉彬擁立派の島津壱岐・高崎温恭らが調所派の排除を画策しましたが露見したため、嘉永2年(1849年)に弾圧され高崎らが自刃しました。

 

 

脱藩した斉彬派はなお斉彬の擁立をはかり、福岡藩主黒田斉溥(長溥)・宇和 島藩主・伊達宗城・老中阿部正弘らの尽力もあって斉彬は嘉永4年(1851年)に家督を継ぎました。

 

 

 

青松葉事件

尾張藩徳川家で起きた粛清事件。

同藩では10代・徳川斉朝から13代・慶臧まで将軍家・御三卿出 身の藩主が4代続いたことで、反幕派の金鉄党と親幕派のふいご党が対立しました。

 

 

慶応4年(1868年)1月鳥羽・伏見の戦で幕府軍が敗れると、14代藩主・徳川慶勝は藩論を討幕に統一し、親 幕派の年寄列渡辺新左衛門、大番頭・榊原勘解由、同格石川内蔵允ら14名を秘密裏に城内で斬首しました。

 

 

他にも蟄居や隠居処分にされた者が20数名に及びました。

なお、青松葉は渡辺新左衛門家の異名といいます。

 

 

 

稲田騒動(庚午事変)

徳島藩蜂須賀家で起きたお家騒動。

幕末期、徳島藩は尊王か佐幕か藩論を統一していませんでした。

 

 

その中で筆頭家老の稲田邦植主従は尊王討幕の動きをとりました。

天保期に稲田家は藩から淡路島の海防を命じられ、知行地の課税を増やしたため一揆が起こりました。

 

 

そのため稲田家では幕藩制の矛盾を自覚したのです。

また、稲田家来が士族ではなく陪臣と蔑視されていたことも尊王に向かわせました。

 

 

明治政府は明治2年(1869年)の版籍奉還で尊王に貢献した稲田家家来を士族に編入しなかったため、主従は士族編入と淡路分藩の動きを強め ました。

 

 

これに対し、明治3年(1870年)藩は藩知事への不忠、お家大事から稲田討伐の襲撃事件を起こしました。

 

 

新政府は襲撃事件の指導者らを切腹や流罪に処し、稲田家旧家来には士族編入を条件に北海道日高郡静内に移住させました。

 

 

 

-お家騒動

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。