鎌倉幕府の滅亡のきっかけは、
天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る、といって手紙が送られてきた。
その手紙の内容は、
昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、お互いに仲良くすることに務めてきた。
まして、大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も、代々の皇帝を恐れ敬って家来になっている。
例えば、私が皇帝になってからも、高麗(朝鮮)が蒙古に降伏して家来の国となり、私と王は父子の関係のようになり、喜ばしいこととなった。
高麗は私の東の領土である。
しかし、日本は昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?
日本が我々のことを知らないとすると、困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝えよう。
これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか、我々は全ての国を一つの家と考えている。
日本も我々を父と思うことである。
このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない、日本国王はこの気持ちを良くよく考えて返事をしてほしい 不宣
至元三年八月(1266年・文永三年)
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これが元(蒙古=モンゴル)の皇帝「フビライ・ハーン」から日本に送られきた蒙古の国書です。
この中にもあるように蒙古は東は高麗・中国から西はヨーロッパまでを領土とする史上最大の国でした。
これに対して鎌倉幕府は蒙古と戦った。
御家人たちは戦ったのに、元寇※1によって疲弊した御家人は鎌倉幕府に対して不平不満を持ち始め、暗雲が立ち込めていきます。
※1.元寇(げんこう)とは、鎌倉時代中期の文永11年(1274年)・弘安4年(1281年)にモンゴル帝国(元朝)及び属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻されます。
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鎌倉幕府の滅亡のはじまり
元寇の後、御家人の多くは十分な恩恵を貰えないことや、徳政令などの悪政によって困窮し、ますます幕府に対する怒りと不満が募って行き、ここで隙を狙っていたのが当時の天皇である後醍醐天皇でした。
後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒す策略を2回練っていましたが、どちらも事前にバレてしまい島流しの刑を受けたが、島から脱出し、倒幕のために動き出します。
その動きに便乗して倒幕に協力したのが、元々幕府側であった御家人の足利尊氏でした。足利尊氏は京都の六波羅探題(幕府の朝廷監視機関)を倒し、新田義貞が鎌倉を攻め落としたことで、鎌倉幕府は滅亡することになります。
後醍醐天皇
南北朝の対立で極まる混乱
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が「建武の新政」を行ったものの、公家優先の方針を取ったため地方武士の不満は募って行きました。
こうした情勢をみて足利尊氏は反乱を越し建武の新政は崩壊してしまいます。
足利尊氏は「北朝」を立てて室町幕府を開いた、しかし、後醍醐天皇は「南朝」開き対立する南北朝時代がしばらくの間続くことになります。
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農民・土着武士が勢力を伸長していく
南北朝の内乱期の背景として、旧来の荘園制の内部で中小農民が成長してきたことが挙げられます。
農民の解放が進んだため、農村では、それまでの血縁的の同属結合から地縁的結合がみられるようになります。一揆などの武力行使も起こすようになっていたのです。
その後、京都室町の「花の御所」「金閣」を営んだことで知られている足利三代将軍の足利義身が登場し、南北朝の合体実現。
▲金閣寺
室町時代はようやく安定期を迎えることになります。
足利義満はそれまで南朝の強かった九州を平定し、明(みん)との勘合貿易を始めるなど、政治・経済の基盤を整えました。
とはいえ、幕府の権力をなお脆弱で、土岐氏・山名氏といった守護大名の反乱には手を焼いた。
関東基盤の武士が幕府に反乱
足利義満の死後は、有力守護大名の力が強大化し、しばしば将軍家に圧力を加えるようになります。
相次ぐ飢餓や高利貸しからの借金にあえぐ地方の農民や土着武士たちも、幕府に債権の破棄を求める徳政一揆や土一揆を頻繁に起こしました。
鎌倉時代からの残党を含む強力な武士が多かった関東では、鎌倉に「鎌倉府」が置かれていましたが、ここも多くの戦乱の舞台となりました。
鎌倉府の長官である鎌倉公方は、地元勢力を結集して幕府としばしば対立します。
第四代鎌倉公方の足利持氏は狙いましたが、六代将軍・足利義教によって自殺に追い込まれました(永享の乱)。