足利義満の子供で第四代将軍になった足利義持が後継者の決定を重臣に委ねたため、畠山満家らは、石清水八幡宮社前のくじで将軍を決定になってしまった。
選出されたのは青蓮院門跡義円、のちの義教でした。
どうして青蓮院門院跡義円が選ばれたかいうと、兄の4代将軍・足利義持の実子・義量は病弱で早死にしてしまい。
その上義持は後継者を指名しないまま亡くなったため、次の将軍を決める必要がありました。
その結果、義持の弟たちの中から次期将軍を選ぶためにくじ引が行われました。
スポンサーリンク
六代足利将軍・足利義教
くじ引きをした結果義円が選ばれ、還俗※1して義宣と改名した。
※1還俗(げんぞく)とは、.出家した者がもとの俗人に戻ること、または僧侶などの聖職者が俗人となることを意味します。服飾とも呼ばれます。
古代中世では、僧尼が罪などを犯すと俗名などがつけられ僧尼身分を奪われることを還俗と呼び、官人にとっての除名に類していました。また、南北朝時代以降の戦乱によって僧侶が自発的に還俗することもありました。
義宣と改名したはいいけど、元服前に僧となり、官位もなかったため、すぐに将軍の座に就く事に反対意見が出て、髪が伸びて元服するまで待つことになった。
その際に、義持の猶子※2となっていた鎌倉公方の足利持氏※3が将軍になるのではないかとの噂が広まった。
※2.猶子(ゆうし)とは、(公卿・武家の社会で)兄弟や親族の子などを自分の子として迎え入れたもの。義子。
スポンサーリンク
※3.鎌倉公方・足利持氏
第三代鎌倉公方・足利光兼の子。
第三代将軍・足利義満の3男として誕生、応永16年(1409年)、幼名・幸王丸は父が亡くなったため12歳で家督を継いだ。
翌年、元服して第五代将軍・足利義持の一字を与えられて足利持氏と称した。
その頃、叔父である足利満隆(第三代鎌倉公方・足利満兼の弟)が13歳の持氏に対して謀反を企てているとの噂が立ち、持氏が関東管領・上杉憲定(山内上杉家)に逃げ込むという騒動が勃発した。
上杉憲定は、応永18年(1411年に関東管領を辞任している。
いまだ若年の持氏は、新たに関東管領となった上杉禅秀(氏憲/犬懸上杉朝宗の子)の補佐を受けていたが、しばらくすると、持氏は禅秀から距離をおき始め、対立が激しくなった。
それは、禅秀が持氏の支持する山内上杉家の人ではなく、叔父の満隆と同盟を組んでいた事も起因している。
ついに、応永22年(1415年)に禅秀は関東管領を辞し、18歳になった持氏は、山内上杉家の上杉憲基(憲定の子/当時24歳)を後任とした。
ところが、応永23年(1416年)、禅秀・満隆はクーデターを起こした。
禅秀の誘いに、陸奥・常陸・信濃・上野・下野・武蔵・相模・伊豆・鎌倉の武士たちが呼応した。
持氏は、憲基と共に鎌倉を追われて小田原に配送。持氏は駿河に、憲基は越後に逃げた。
鎌倉は禅秀に一時制圧され、公方に満隆、関東管領に禅秀が就いだ(上杉禅秀の乱)。
しかし、この反乱は、翌応永24年(1417年)に、鎌倉府が京の幕府に対して、反抗的にならないように配慮し、持氏側についた。幕命を受けた越後の上杉房方・駿河の今川範政らによって鎮圧され、持氏らは鎌倉に復帰した。
乱が落ち着くと、持氏は敵に回った関東諸侯の討伐を開始する。
幕府側の常陸の山入氏や小栗氏も討ったため、鎌倉府と幕府の対立構造が明らかとなった。
応永25年(1418)年に、27歳の若さで関東管領・上杉憲基が亡くなり、翌年まだ10歳の上杉憲実(越後守護の上杉房方の子)が選ばれた。
この時、持氏は22歳。
主人をサポートする側の関東管領が、公方より若く、しかも幼少だったため、しばらく持氏は管領の業務までこなさなければならなかった。
応永35年(1428年)正月、第4代将軍の義持が死去(後任の第5代将軍が早世したため、義持が政務を取り仕切っていた)。
4月に年号が正長に改元され、籤引きで、出家していた足利義教(35歳)が第6代将軍に就いた。
持氏(31歳)は自らが将軍後継の候補に選ばれなかった事に不満を持ち、兵を率いて上洛しようとするが、憲実(19歳)はこれを諫止した。
持氏は、新将軍就任の賀使も送らなかった。
さらに9月に永享と改元されても、新年号を用いなかった。
スポンサーリンク
永享10年(1438年)には、持氏(41歳)の子の健王丸の元服の際、憲実(29歳)が将軍の一字拝領を願い出るよう勧めたが、これも拒否した。
常に、幕府側と協調路線を維持してきた憲実だったが、諦め、居城である上野に帰ってしまった。
永享11年(1439年)、持氏は、すぐに憲実討伐に動いたが、これに乗じて、幕府が介入し、憲実と結託して鎌倉府討伐を実行。
持氏は大敗を喫す(永享の乱)。
憲実は、将軍義教に、持氏の助命嘆願をしたが、聞き入られず、自刃させられた。
ここに、鎌倉府が滅亡した。
遺児である、春王丸10歳と安王丸8歳は、下総の結城氏朝に保護され、幕府に反撃を試みたが、あえなく敗戦(結城合戦)。
将軍義教は、春王丸・安王丸を京への護送途中に殺させた。
もうひとりの遺児、永寿王丸2は、母方の信濃の豪族・大井持光に逃げた。
後に復活した鎌倉公方(初代・古河公方)・足利成氏となる。
持氏自身も不安を持ち、義教の将軍襲職祝いの使者を送らなったという。
しかし、その後、義宣は正式に征夷大将軍に任じられ、名を足利義教に改名した。
義宣は「世を忍ぶ」に通じると嫌ったためとも言われています。
将軍に就いてからは、当初、施政も前例にならっていたが、家臣の意見に耳を貸さなくなっていった。
公家にも相続など口を挟むようになり、寺社にも専制政治を行うようになっていった、永享6年(1434年)、延暦寺が鎌倉公方・足利持氏と共謀し、義教を呪詛しているとの噂が流れたため、義教は直ちに比叡山苑暦寺に圧力をかけ、一旦和睦したと見せかけ、翌年、延暦寺の代表僧侶を結果的にだまし討ちし殺害した。
スポンサーリンク
永享の乱・嘉吉の乱始まる
足利義教と鎌倉府との関係は悪化し、ついには幕府対鎌倉府の戦争に突入、関東の鎌倉公方・足利持氏にも、圧力をかけ、持氏の家臣でもある関東管領・上杉憲美を利用して、関東の諸大名に持氏包囲網を結成させ、足利持氏討伐の勅令を奉じて朝敵に設定し関東討伐を実行し滅ぼした。
持氏は大敗して恭順したが、将軍・義教は上杉憲美の除名嘆願を無視し持氏を自刃させ鎌倉府を一旦滅亡に追い込んだ(永享の乱)
その後、滅亡していた持氏の遺児の春王丸・安王丸兄弟が結城氏朝に担がれて叛乱を起こした(結城合戦)が結果的にこれも殲滅※4した。
※4.殲滅(せんめつ)とは、残らず滅ぼすこと。皆殺しにすること。
足利義教は、春王丸・安王丸を京への誤送途中に殺させた。
ますます専制を強め有力守護であった、一色義貫・土岐持頼も殺害されてしまいます。
将軍・足利義教は有力守護大名に対して、その家督継承に積極的に干渉することにより、支配力を強める政策を行った。
意に反した守護大名らは、刺客を送られ暗殺された。
身の危険を感じていた守護大名の赤松満祐・教康親子は、嘉吉元年(1441年)、「鴨の子が多数出来」したこと、関東の持氏征伐を終えた慰労という名目に将軍・足利義教屋敷に招待し、そこで義教の首を刎ね、領国の播磨で挙兵します(嘉吉の乱)。
これで恐怖政治が終わりを告げた。
しかし、この頃から室町幕府の弱体化が顕著※5になってくる。
※5.顕著(けんちょ)とは、はっきり目立つさまざま。いちじるしいさま。「ーな現象」
スポンサーリンク
強まる社会不安
七代将軍になったのは義教の長男・足利義勝ですが、義勝は在職一年ほどで死去。
跡を継いだのは弟の三春(のちの義政)が八代将軍に就任、幼少の将軍が続いた、この時期には管領の畠山持国・細川勝元が政務に当たりました。
しかし、有力守護を主導する力はなく、両者畠山も細川も勢力争いをするにおよび、幕府は常に内部分裂の危機を孕んでいました。
関東でも、関東管領の上杉氏と鎌倉公方の足利成氏との対立が表面化しました。
また、義教、義政治世の15世紀中頃は、一揆が活発化した時代でも大飢饉が頻発し、幕府に債務の破棄を求める大規模な徳政一気や土一揆が次々と発生していき、社会不安は頂点に達していきました。