日本には戦国時代と呼ばれる時代がありました。
特に人気の高い時代です。
ですが、歴史区分に戦国時代っていう区分はありません。
日本には、縄文時代→弥生時代→古墳時代(大和時代)→飛鳥時代→奈良時代→平安時代→釜村時代→室町時代→室町時代→安土桃山時代→江戸時代→明治時代→大正時代→昭和時代→現在となっています。
では戦国時代はいつから始まっていつ終わったか?
長く見積もって室町時代の後期から安土桃山時代を経て江戸時代の始め頃の範囲が戦国時代と言われています。
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戦国時代の始まり
いくつかの説がありますが、最も一般的に認識されているのは応仁元年(1467年)の応仁の乱からです。
応仁の乱は室町幕府の内部対立が激化し、全国的な戦乱へと発展した出来事です。
他にも、享徳3年(1454年)の享徳の乱や明応2年(1493年)の明応の政変をを戦国時代の始まりという説もあります。
これらの出来事は、地方の大名たちが独自の権力を強め、中央の統制が弱まったを示しています。
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大名家の家督争いが表面化
室町幕府第8代将軍・足利義政は政治には無関心で、贅沢を好み寺社などの土木工事を盛んに行い、その妻・日野富子は逆に政務に積極的に介入し、収賄も頻繁に行われ幕府政治は混乱極めます。
一方、武家社会の成熟とともに「嫡子単独相続」が定着し、各地で有力武将たちの家督争いが勃発しました。
有力大名である斯波、畠山氏でもそれぞれ後継争いが起き、それに幕府の重臣である細川、山名両氏の勢力争いも加わって事態は緊迫の度合いを深めます。
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将軍家にも後継問題が勃発
さらに、将軍家でも足利義政に子がしばらく生まれなかったことから家督争いが表面化しました。
当初次期将軍になる予定だった現・将軍の弟の足利義視を推す勢力と、のちに妻・富子産んだ義政のの実子の義尚を推す勢力との間でも、一触即発の状況が生まれます。
そして、細川方の東軍、山名方の西軍に分かれて骨肉相食む応仁の乱へと突入して行くのです。
跡継ぎ決めたのに・・・
8代将軍・足利義政は、奢侈※1を好んで土木工事を盛んに行い、徳政令を乱発するなどして幕府財政を窮乏化させました。
※1.奢侈(しゃし)とは、必要な程度や身分を超えた贅沢。「ーに流れる」
「悪政」の下で、義政が求心力を失う一方、守護大名家内や守護同士の争いは、年ごとに激しさを増していきます。
そうした中、将軍家にも家督争いが発生しました。
もともと将軍・義政には男子がなく、弟の義視を還俗させて跡継ぎと正式に決めていましたが、その直後、義政の正室・日野富子がついに男子を誕生(のちの足利義尚)、富子は、将軍側近や有力守護の山名持豊(宗全)と組んで義尚の家督継承を強く望み府内は混乱します。
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伊勢氏の策謀は失敗
義尚の家督継承を策謀し、幕政の実権を握ろうとした諸軍側近の伊勢貞親らは、管領家斯波氏の家督争いに介入した上、将軍・義政に義視を暗殺させようとしますが失敗。
伊勢貞親は細川勝元、山名持豊らによって京都から追放されました。(文正の政変)。
伊勢貞親を放逐後、細川、山名漁師は幕府の最高実力者の地位を巡って激しく対立するようになりました。
富子は山名持豊に後ろ盾を頼み、足利義視は細川勝元側につきました。
将軍専制を図っていた将軍・義政ですが、実子の誕生を契機に、完全に挫折の道を辿ることになったのです。
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乱の収束後も各地に火種
京都を主戦場とする戦乱によって、幕府権力は大きく衰えました。
足軽たちは神社仏閣に火を放ち、都は荒廃します。
鎌倉府が置かれた要衛の関東を始め、有力大名がいる地方部で、中央への反乱や内紛が相次ぎました。
応仁の乱後は、大名同士の争いだけではなく、土一揆も頻発していきます。
畠山氏の内紛がなお続いていた山城では、国人、農民らによる自治も行われました。
また、一向宗(浄土真宗)の中興の祖といわれる蓮如は、庶民を中心に各地で信者増やすことに成功し、宗徒たちは強大な教団組織を構築。
北陸を中心に一向一揆が頻繁に起きました。
こうして、応仁の乱を境として、身分や家柄よりも実力がものをいう「下克上の時代」が訪れました。
100年以上続く戦国時代が幕を開けることになったのです。