応仁の乱とは、室町時代に日本で起こった内乱の一つです。
室町幕府の将軍後継や有力大名の家督争いに端を発し、東軍に細川勝元・西軍に山名宗全ら諸大名が分かれ10年以上に亘って京都を中心に戦を繰り広げた無意味な戦いです。
この大乱を「戦国時代の幕開け」と位置づける見解も存在します。
応仁の乱といっても、応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)にかけて、およそ11年もの長期に及んで続いた日本の内乱「応仁・文明の乱」とも呼ばれています。
この戦いをきっかけに日本は室町時代から戦国時代になったとも言われています。
この大乱が、どのような戦いだったかハッキリ言ってしまえば簡単に説明できるものではありません。
全体的にあまりに複雑で、原因も複合的で目的もバラバラで実質的な勝者がいない混沌とした戦いだった。
なんとか強引に簡素化して解説すれば「将軍家と有力大名家の各々跡継ぎ問題が絡んで二大陣営となって戦い合い、引き分けで終わった戦い」となる。
当時の人々からしても意味不明な戦いと受け止められており、興福寺の僧侶・尋尊は、この戦いについて、自らの記した日記『尋尊大僧正記』の中で「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と記したほどである。
大乱の幕開け
文正元年(1466年)の暮れ、畠山義就が軍勢を率いて河内を立ち、上洛の途についた。
これは文正の政変前後から繋がりができつつあった。
山名宗全の呼びかけの応じてのものであったとされ、入京した畠山義就は山名宗全らの支援と軍事力とを背景に、将軍・義政に畠山氏当主への就任を認めさせている。
この一連の行動によって、幕府は事実上山名派の牛耳るところとなったが、当然細川氏も黙っていなかった。
とりわけ畠山義就の復権によって畠山氏当主のみならず、管領職までも追われた畠山政長は細川勝元らの支援を得て巻き返しを図り、畠山義就上洛から間もない、翌文正2年(1467年)正月には、花の御所にも程近い京都郊外の上御霊社にて、畠山政長勢と畠山義就勢との間で戦端が開かれた(御霊合戦)。
この時、将軍・義政から山名宗全と細川勝元に対し、合戦への軍事介入を禁じる命令が出されており、実際に細川勝元はこれに従って静観の構えを見せていたが、これに対して山名宗全は(合戦に間に合わなかったとはいえ)畠山義就勢への援軍を差し向けており、結果細川派はこの合戦に敗北を喫したのみならず、盟友であった畠山政長を見捨てたとして細川勝元への評判までも損ねるという、二重の意味での屈辱を味わうこととなった。
山名派と細川派の本格的な衝突は、この時をもって最早避けられぬものとなったのである。
御霊合戦の後、何号が応仁へと改められたこの年の春頃までは、束の間の平穏が保たれていたが、やがて応仁元年(1467年)5月に入ると、諸国にて細川派による軍事行動が相次いで発生、この頃までに細川勝元と結託していた赤松政則や斯波義敏も、それぞれの旧領である播磨や越前を奪還すべく侵攻を開始した。
5月26日には、山名派の一色義直邸が細川派の軍勢によって焼き討ちを受け、これを境に両陣営は全面衝突に入った。
これが「応仁の乱」の幕開けです。
両陣営は地元から兵を集め、続々と京都の各勢力に集結。
洛中東側に陣を構えた細川k勝元が率いる東軍と、洛中西側に陣を構えた山名宗全が率いる西軍の二大陣営が形成された。
将軍に就任した足利義政の足元のふらつき
文安6年(1449年)、当時14歳であった足利義政が、室町幕府第8代将軍に就任します。
就任当初、幕政の実権は管領や乳母といった周囲の有力者によって握られていたが、長ずる※1につれて自らの手による政権運営を志向するようになり、関東方面での騒乱や有力大名の家督争いへの介入、伊勢貞親らを始めとする側近勢力の強化などを通して、将軍による専制体制の確立に努めていた。
※1.長ずる(ちょうずる)とは、成長する。育つ。「ー・じて実業に就く」また、まさっている。すぐれている。「枝芸にー」。
とはいうものの、やはり有力大名による政治介入に関しては、将軍である足利義政をしても如何ともし難い部分があり、また、そもそも義政自身のスタンスも、その時、その時の情勢によって優勢な側へ有利な裁定を下し、ときには、その裁定を覆すことすらザラであったという。
極めて優柔不断なものであったといわれる。
そして、この将軍の無定見ぶりは、その後の大乱においても事態の混迷ぶりに拍車をかける要因の一つとなったのである。
将軍の判断ミスによって後継者争い
それから10年余りの後、寛正5年(1464年)に入ると将軍・足利義政は30歳手前にして隠居を考えるようになり、当時、僧籍にあった実弟の浄土寺義尋(ぎじん)に将軍職を譲ることを打診すると、これを受けて義尋は還俗し足利義視(よしみ)と名を改めた。
ところが翌年、寛正6年(1465年)、将軍・義政と正室・日野富子との間に嫡男・足利義尚が誕生する。
この義尚の誕生によって足利義政・妻富子の夫婦と足利義視の関係が悪化して行く、自分の実子を将軍にしようと考える富子が山名宗全(持豊)を息子義尚の後見役立て、義視の排除に動いたと長らく語られてきました。
実際のところ足利義視の正室に日野富子の妹が嫁いでいたこともあり、両者の関係は必ずしも悪くはなかった。
将軍・義政に嫡子が誕生したとはいえ幼児の生存率も低かったこの当時、義視は義尚が無事成長するまでの中継ぎとしての役割を、義政夫婦らにより期待されていたとも考えられています。
.有力者たちの睨み合い.
当事者間の関係は悪くないが、それを取り巻く有力者の思惑が絡んでくると話は変わってくる。
例えば、義政と義尚の教育係でもあった伊勢貞親などは、あくまで義政による政権(と、自分達の立場)の維持を望んで義視の将軍就任に難色を示し、また、一方でで貞親ら将軍側近勢力らは、管領家の斯波氏の家督争いに介入した上、将軍・義政に義視を暗殺させようとしましたが失敗。
伊勢貞親は細川勝元・山名持豊らによって京都から追放されました(文正の政変)※3。対立していた山名宗全(持豊)らは、逆に彼らの後ろ盾であった義政の引退(と、義視の諸軍就任)を望んでいた。
そして政治路線的にこの両者の中間に位置していたのが、当時の幕府管領であった細川勝元らの勢力であり、彼らとしては義政の早期の隠居は望むところではなかった一方、前述したように中継ぎとしての義視の将軍就任を支持していたとみられている。
後継者問題は足利将軍家だけではに限ったことだけではなかった。
この時期「三管四職」の一端を担っていた畠山・斯波両家内でも、それぞれお家騒動が深刻化しており、例えば斯波氏の家督争い(武衛騒動)では将軍側近勢力や細川勝元が斯波義敏を推したのに対し、山名宗全は斯波義廉の盾として支援の回るなど、方々で各勢力による絡み合いという構図が展開されていた。
こうしたお家騒動の頻発と激化は、元を糺せば足利義教横死後の幕府内において、義教によって家督を追われた者たちを復権させる事で自らも勢力拡大を企図※2していた畠山持国と、これに対抗して義教に重用されていた側を支持した細川氏との勢力争いがその根底にあった。
※2.企図(きと)とは、目的を立て、その実現の手段を計画すること。企て。
つまるところ、義教在世時の「万人恐怖」によって生じた歪みが、息子である義政の代にも深刻な悪影響を及ぼす格好となっていたのです。
※3.文正の政変とは
文正元年(1466年)に発生した文正の政変です。
この頃、将軍側近勢力は有力大名のお家騒動への介入だけでなく、将軍生母・日野重子の逝去(寛正4年(1463年)に際し、当時幕府から敵と看做(みな)されたていた畠山義就や斯波義敏、大内政弘といった面々を赦免することで、彼らを自陣営に引き込むことも画策していた。
しかし、赦免された斯波義敏が、将軍側近勢力の後押しや関東方面での政策転換などから、将軍・義政の裁定により斯波氏の家督を継ぐことになるや、当主の座から追われた斯波義廉は巻き返しのため山名宗全に接近し行く。
さらに赦免されたとはいえ未だ逼塞の身にあった畠山義就と、山名宗全を結びつけるべく奔走もしている。
※3.逼塞(ひっそく)とは、落ちぶれて世間から隠れ、ひっそりと暮らすこと。「郷里にーする」。江戸時代の武士や僧侶に科せられた刑罰の一つ。門を閉ざして昼間の出入りを許さないもの。閉門よりも軽く、遠慮より重い。
加えて前々から将軍側近勢力に反感を」抱いていた細川勝元もまた、彼らを支援する動きを見せた。
そのような情勢の中、9月に入ると将軍・義政は謀反の疑いありとして、義視の誅伐に乗り出す。
これはあくまでも義視の排斥にこだわっていた伊勢貞親らの進言を受けての行動であったが、危機感を抱いた義視は細川勝元を頼り、結果細川勝元と山名宗全ら有力大名によって讒訴※4の罪を問われた伊勢貞親らは京を追われ失脚に追い込まれたのである。
※4.讒訴(ざんぞ)とは、(他人を落とし入れるため)目上の人や主人に、ありもしない事告げること。讒言(ざんげん)して訴え出ること。かげで他人の悪口をいうこと。その陰口。
伊勢貞親らの失脚による将軍側近勢力の崩壊は、即ち将軍・義政による親政※5が行えなくなったことを意味し、実際政変の直後には義視を事実上の将軍とした暫定政権も発足しています。
※5.親政(しんせい)とは、天皇が自ら政治行うことを意味する政治システムです。
【親政を行った天皇には、次のような人がいます。醍醐天皇:皇族ではない一族の男子でしたが、皇族に入り皇太子となって天皇に即位しました。摂政・関白を必要としない積極的な政治を推進しました。
村上天皇:醍醐天皇と共に摂政・関白を置かず、天皇を中心とした政治を行いました。
二人の治世を延喜・天暦の治と呼びます。また、明治時代には「天皇親政運動」が展開されました。これは、幕末期から明治22年(1889年)の明治憲法の成立、翌年の教育勅語の渙発※6まで行われました。】
※6.渙発(かんぱつ)とは、詔勅※7を広く天下に発布すること。
※7.詔勅(しょうちょく)とは、天皇が公に意思を示す文書。詔書と勅書と勅語と。
西洋諸国への対抗を意識した国際環境を背景に、王政復古の理念に忠実に、天皇自ら政策決定会合に出御し、明治政府の政治方針の実質的決定者として機能しました。
前述の通り、これは山名派の思惑通りの結果となった訳だが、程なく義政が伊勢一族らの幕府からの追放や、義視の身の安全を保証する事を条件に再度政務に復帰し、その思惑も敢え無く崩れ去ることとなった。
この義政の」復権は、山名派の勢力拡大を不安視した細川勝元による働きかけがあったものとみられている。
当初、婚姻関係などを通して良好な関係の維持に務めてきた山名・細川の両家も、この頃になると前出の諸大名のお家騒動や、赤松・大内といった、それぞれの利害の競合する大名(赤松氏は嘉吉の変以来山名氏と、大内氏は貿易の利権を巡って細川氏と対立していた)への対応を巡る見解の相違などから、その関係も次第に冷え切りつつあった。
そして、この政変で将軍側近勢力という共通の敵が消失したことと、如実に浮き彫りとなった政治路線の相違とが、程なく始まる大乱へと直結行くことになる。