美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

上杉謙信

武田信玄と戦った上杉謙信の誕生と長尾景虎の年表

投稿日:2024年12月12日 更新日:

   上杉謙信は、桓武平氏の流れをくむ長尾氏の家系に属しています。

長尾氏は、相模国鎌倉郡長尾郷(現在の横浜市栄区長尾台町付近)を本拠とする中世の武家・戦国大名で、桓武天皇の流れをくむ坂東八平氏の一つとされています。長尾景虎は本名の他にどんな名前を持っているの?長尾

 

 

長尾氏の初代当主は平安後期の長尾景弘で、高望王流桓武平氏子孫です。

 

 

上杉謙信の父親は長尾為景で、長尾氏の7代目当主です。

謙信は越後守護代であった長尾為景の末子で、幼名は虎千代でした。

 

 

上杉謙信には実子がなく、天正6年(1578年)に突然死したため、養子の上杉景勝上杉景虎による家督争い「御館の乱」が勃発しました。

 

 

上杉景勝が勝利し、米沢藩の初代藩主となりました。

毘沙門天への誓いをたてた、上杉謙信は長尾景虎という名にちなんで、虎をお使いとする毘沙門天を生涯信仰していました。

 

 

なぜ「虎」を信仰したかというと、庚寅(かのえとら / こういん)年生まれだったとされています。

 

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軍旗は「毘」で、毘沙門天に誓いを立て城内の敷地に毘沙門堂を建てて時折籠もり戦勝祈願をしたのです。

 

 

信仰に厚い謙信には「女性不犯」(一生妻を娶らない)との誓いがありました。

 

 

武将としては異例でしたが正室も側室もありませんでした。

実際、上杉謙信には実子がなく、死後、上杉景勝(姉の子)・上杉景虎(北条氏康の子)の2人の養子の間に後継者問題が起きています。

 

 

 

41歳で上杉謙信名乗った理由

その後、31歳で上杉憲政の養子となり、上杉政虎の名を得てからすぐ将軍の偏諱※8を受けて、「上杉輝虎」と名乗りを改めます。

 

 

元亀元年(1570年)に北条氏康の息子である三郎(彼も寅年)を養子にして、この少年に上杉三郎景虎の名乗りを与えたあと同年末、ようやく初めて「上杉謙信」の名乗りを得ることになる。

※8.偏諱(へんき)とは、貴人などの二文字の中の一方の字を忌み※9▲避けること、または、その字そのものを指します。

※9.忌みとは、神聖なことに対して心身を清め、汚れを避けること。死や不浄などはばかるべきこと。人の死後、近親者がしばらくの間家に慎みこもること。陰陽道などで、ある方角や日取りなどをはばかって避けること。

 

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謙信が上杉謙信になったのは41歳になってからの事です。

元亀元年(1570年)12月、上杉輝虎は法号「不識庵謙信」を称し、これ以降、上杉謙信となったのは41歳になってからの事です

 

 

謙信が剃髪したのは、天正2年(1574年)末のこととされ、謙信と名乗ってから4年後のこととなります。

 

 

この直後、養子の上杉景勝に家督を譲る。

おそらく謙信が黒衣と袈裟を着用したのも、この時期からであったと思います。

 

 

謙信が武士らしい格好を保持していたのは、この頃までと思われます。

謙信は天正6年(1578年)3月に49歳でなくなったので、坊主頭であったのは4年近くだけだったことになります。

 

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謙信の死は高血圧?

隣国のライバル武田信玄とは5度にわたる川中島で戦い、手取川の戦いでは、織田信長にも勝利した。

 

 

戦いの神である毘沙門天を信仰していて負け知らずの軍神。

謙信といえば、今川氏が戦略として内陸にある武田領への塩の流通を禁じた際に禁輸しなかった。

 

 

いわゆる「敵に塩を送る」という逸話があります。

謙信の死因について、天正6年3月9日の正午頃、上杉謙信が昏倒した。

「三月九日ノ午刻、管領(謙信)卒中風煩※10セ玉イ、忽※11たちまち困倒シテ人事ヲ顧※12ミ玉ハス。御一族ヲ始メ、諸将群臣以下、驚動スル事、限リナシ」(『謙信公御年譜』)

※10(はん)とは、ハン・ボン・わずらう・わずらわす
※11.  忽(こつ)とは、コツ・たちまち・ゆるがせ
※12.  顧(子)とは、かえりみる

この4日後に病没してしまう。

 

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上杉謙信の出生

享禄3年(1530年)に越後国の春日山城で守護代だった長尾為景の四男として誕生した。
幼名は「虎千代」. 名前の由来はさっきいったように庚寅※1年生まれだった。

※1.庚寅(かのえとら)とは、十干「戊(かのえ)」と十二支「寅(とら)」を合わせた干支です。庚寅は「鉱物・金属の性質」と「初春の木の性質」があり、庚寅を持つ人は、初春の活発になる樹木や、それを切り倒す鋭い刃のように、明るい勢いある爽やかな雰囲気をしています。

 

 

当時は内乱が激しい時期で、父・長尾為景は、天文5年(1536年8月)に、越後国内の国人領主※2・上条定憲らに追い込まれる形で隠居させられます。

※2.国人領主とは、室町時代において守護国制のもとで独自の支配権を確立しようとした在地の有力士豪(国人)を指します。

 

 

家督は、虎千代=謙信の兄・長尾晴景が継ぎ、虎千代は父・長尾為景から避けらる形で城下の林泉寺に入門した。

 

 

父・為景が虎千代を自分の子でないと疑ったむねがあるという説や、気質が合わなかったという説などがあります。

 

 

天文12年(1543年)、虎千代=(上杉謙信)は元服して長尾景虎と名乗るようになり栃木城に入城しました。

 

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長尾景虎の初陣と戦歴

天文13年(1544年)、越後の戦国大名・上杉謙信(当時の名は長尾景虎)が、当時の越後守護代で実の兄・長尾晴景の要請を受け、栃尾城に攻め寄せて来た越後国人衆を破った戦いのことをいいます。

同年春、長尾晴景を侮って※3越後の豪族らが謀反を起こした。

※3.侮る(あなどる)とは、他人を見下げて馬鹿にする、軽蔑するまた、みくびると言った意味です。

 

 

古志郡司※4であった15歳の景虎は栃尾城に入っていたが、これを
若輩と軽んじた近隣の豪族は、栃尾城に攻めよせた。

 

 

しかし、景虎=(謙信)は、少数の城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を貼る敵本陣の背後を急襲させた。

※4.古志郡志とは、長尾晴景は弟・景虎=(謙信)を古志郡志として栃木城に派遣した。

 

 

混乱する敵軍に対し、さらに城内から本隊を突撃させることで壊滅させることに成功する。

 

 

並外れた指摘官としての才能をみせた景虎=(謙信)は謀反を鎮圧することで初陣を飾った。

 

 

景虎=(謙信)は、その後も連戦連勝して国内の反乱を鎮圧していった。
さらに、兄・長尾晴景に代わって長尾家を継ぎ越後を統一していった。

 

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上杉謙信の生母・虎御前

長尾為景の後妻となって景虎を産む、生母(虎御前=青岩院)の父・長尾備前守房景であるか、それとも長尾肥前守顕吉なのか諸説ありますが、栖吉城※5の姫という記載はどの資料も共通しているから、古志長尾氏の房景の娘です。

※5..栖吉城(すよしじょう)とは、築城年代は定かではないですが戦国時代に古志長尾氏によって築城された。古志長尾氏は越後国守護となった上杉房顕に従って入部した長尾景恒が祖で、その子、長尾景春が蔵王堂城を居城としていたが、後に栖吉城を築いて居城を移した。古志長尾氏は、長尾景信のときに全盛となり、永禄2年(1599年)上杉謙信が上洛して帰国を祝う「侍衆御太刀之次第」に一門筆頭として名が記されています。この上洛の際に上杉謙信は河田長親を見出して、古志長尾氏を継承させて栖吉城となり長尾景信は上杉を名乗った。

 

 

その母の名が虎御前で、生まれた子が寅年なので当然虎がつく名前が付き幼名は虎千代と名乗った。

 

 

信心に篤く景虎=(謙信)の信仰にも影響を与えたと言われています。
夫・長尾為景に死後仏門に入って菩提を弔う余生を過ごしました。

 

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義を重んじた上杉謙信の生涯を探る

天文21年(1552年)、足利義藤(後の義輝)の斡旋により朝廷から、「弾正少弼」※6の官職を授かると、自他共にこちらの称号を優先することになった。

※6.少弼(しょうひつ)とは、律礼制で弾正台の次官(すけ)を指し、正五位下相当の官位です。

 

 

景虎は越後に在国しながら官職を得たことに感謝して上洛を志す。

翌年、その長尾弾正少弼景虎が上洛した。

景虎は、京都・大徳寺で法号「宗心」を授かる。

 

 

ここで景虎は、公的には「長尾弾正少弼入道宗心」に名乗りを改めることになった。

 

 

官職の後に入道がつくのは、もはや出家の身となるので、その任を正式に続けているわけではありませんという立場を示すことになる。

 

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越後の虎と称される景虎の真実

宗心の法号を得た時、謙信は三帰五戒という修行僧としての誓いも立てており、入道の名乗りを得ているとしたら併せて考えており、入道の名乗りを得ていることと併せて考えると、単なる気まぐれで名乗りを改めたのでなく本気で出家を考えていたと思われるます。

景虎はわずか24歳(数え年)で隠遁※7を希望したのです。

※7.隠遁(いんとん)とは、交わりを絶って俗世間から逃れて暮らすこと。

 

 

 

-上杉謙信

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。