一言に上洛と言っても様々な意味合いがあります。
天皇のいる京都にいくことを意味しています。
平安時代、平安京を中国の都「洛陽」にちなんで呼ぶことがあり、その一字をとって「絡」と表現しました。
その後、「絡」は京都を指すようになったり、京都に入ること事を「上洛」や「入洛」というようになりました。
しかし、信長の場合の上洛は違っていました。
織田信長みたいに幕府と朝廷を掌握して天下に覇を唱えようとする大名もいれば、上杉謙信みたいにただ謁見して終わり、みたいなこともあります。
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基本的な部分で考えると、朝廷や幕府を牛耳ることによって権威付くのが第一の利点です。
幕府や朝廷の名前を語ると外交で圧倒的優位に立ちます。
政府からの命令と都道府県からの命令では、どちらが強力か分かるでしょう?
第二に、いかに高い官位を授かっても朝廷や幕府にいなければ真に価値を発揮しません。
地方では威張れるでしょうが、地方で威張ったところで権力を行使できるのは朝廷や幕府内の話しです。
つまり、自身が持ちうる権力を行使するためにも上洛は必要だったわけです。
外務大臣や財務大臣が地方で威張っていたところで、権力を行使できるのは国会や省庁でしかないのと同じです。
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上洛するには正当性が必要です。
信長の場合は単純に京に向かうことが上洛ではありません。
もし地方の自衛隊が無断で東京に進撃すれば反逆に見なされるのと一緒です。
呼ばれてこそ、初めて上洛と認められるわけです。
今川義元が征西軍を起こしたのは上洛のためと言われていますが、実際には上洛ではなく単に尾張征服のためといわれています。
また、上洛を許可する書状も受けていません。
織田信長には第13代将軍・足利義輝の弟・義秋(当時)に上洛を命じられ正当性がありました。
武田信玄もまた、将軍・足利義昭から側近の一色藤孝を通して上洛許可の書状を貰いました。
上杉謙信は関東管領就任のお礼という名分があったのです。
上洛するということは、織田信長や武田信玄みたいに、京に行くまでの道すがら存在する敵を討伐しなければなりません。
それに加え、留守中の本領の防衛は当然のこと、兵糧の確保、討伐した土地の統治など問題は山積みです。
上杉謙信のように僅かな側近のみで上洛するにしても、敵国を通るときは身分を隠して農民のフリをしたり、盗賊に襲われないよう気を配るなど、上洛にはどのみち危険と困難がつき物でした。
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織田信長の上洛
延元3年(1338年)に足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府が始まりますが、第13代目の足利義輝の時代に将軍は有力者の傀儡※1となっており、義輝は暗殺され、弟の義昭※2は流浪していた。
※1.傀儡(かいらい)とは、操り人形。くぐつ。でく。又は、人の手先となって思いのままに使われる者。「ー政権」。
※2.足利義昭とは、第13代将軍・足利義輝は同母兄で、父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴で、母は近衛尚通の娘・慶寿院。
足利将軍家の家督相続者以外の子息として、慣例により仏門に入って覚慶と名乗り一乗院門跡となった。
兄・足利義輝が永禄の変で三好三人衆らに暗殺されると、細川藤孝らの幕臣の援助を「受けて南都から脱出し、還俗して義秋と名乗る。もその後、朝倉義景の庇護※3を受け足利義昭に改名した。
※3.庇護(ひご)とは、庇って守るること。
そして、織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任した。
その後、信長と対立し、武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと呼応して信長包囲網を築き上げる。
一時は信長を追い詰めることができたが、やがて京都から追われ、一般的にはこれを持って室町幕府の滅亡とされています。
将軍になる前の、義昭は各地の有力武将に手紙で自ら将軍として上洛してほしいと依頼します。
この依頼を活用して足利義昭と上洛したのが織田信長です。
まだ、名前も売れてない信長が天下を統一することは困難この上ないことでした。
尾張国に生まれた信長は、天文20年(1551年)に父・信秀が死去し18歳で家督を相続します。
世間では「大うつけ」と評判で、これで織田家も終わりと思う家臣が多いなか、天文21年(1552年)の赤塚の戦い・萱津の戦いなどで信長の見事な采配指摘をみせられ、その後尾張の統一が進みます。
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永禄3年(1560年)には、桶狭間の戦いで、強大勢力を誇った今川義元を殺害、その時信長は27歳、2年後には三河の徳川家康と同盟を結び美濃国(現・岐阜県)三重県まで勢力を拡大していき、永禄11年(1568年)に足利義昭と京都へ上洛した。
信長を苦しめた大包囲網
新興勢力として将軍を囲い込んだ信長は、京都で周辺勢力と激しく衝突していきます。
信長が急速な勢力拡大に対して、他の大名たちが危機感を抱き、特に三好三人衆や本願寺顕如などが反信長勢力として結束し包囲網を形成します。
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第一次包囲網元亀元年(1570年)
越前の朝倉氏
信長が朝倉義景を討伐した理由はいくつかありますが、足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府の第15代将軍にしました。
しかし、義昭の命令として出された上洛命令に朝倉義景従わなかったため、信長は朝倉義景に対して敵意を抱き、尚且つ信長は、越前の朝倉氏は北陸地方の重要な勢力であり、信長は、この地域を制圧することで自身の支配を強化しようとしました。
なお、小谷城の浅井長政は朝倉氏と同盟を結んいるとはいえ、信長の妹・お市を嫁がせているので裏切るとは思いませんでしたが裏切った。
浅井長政の裏切り
朝倉家との関係は、浅井家は元々越前の朝倉家と強い結ぶつきを持っていたため、長政の父・浅井久政は朝倉家を重視しており、長政もその影響を受け育っていた、家臣内部にも織田家との同盟に反対する勢力が存在しており、これらの圧力も長政の決断に影響を与えたと考えられます。
一番の問題は、長政の嫡男・万福丸が朝倉家に人質と出されていたため、朝倉家を裏切ることができなかったとも言われています。
長政の嫡男・万福丸の母親はお市の方ではない、何故ならお市の方が嫁いだのが永禄11年(1568年)、万福丸は永禄7年(1564年)で確かな資料がないため家臣の娘が側室であったとされています。
石山本願寺への圧力
信長が次に本願寺明け渡しを要求、顕如は(本願寺の法王)はこれを拒否し挙兵を決意し、元亀元年(1570年)9月12日に門徒に対し摂津福島に陣を敷いていた織田軍を攻撃、この戦いは淀川堤で行われ、織田軍が優勢でしたが本願寺軍は石山に戻り籠城しました。
石山本願寺は、天然の要塞であり、信長は兵糧攻めを試みましたが、毛利軍の水軍が本願寺を支援し、食料を運び込みに成功、これに対し信長は大型の軍艦を製造し毛利軍を撃破しましたが長期に渡り戦いは続きました。
天正8年(1580年)石山本願寺は食糧不足に陥り、顕如は信長に降伏し石山本願寺を明け渡した。
これにより、11年に渡る石山合戦は終活します。
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四国・紀伊半島の勢力の抑え込み
三好長慶は主君であり、幕府の実権を握っていた細川晴元に対し、長慶の父・三好元長の死後、同族ながら対立していた三好政長に奪われた領地の返還を訴えますが、訴えは実らず不満を持った長慶は主君・細川晴元に反旗を翻し、長慶が天文18年(1549年)に江口の戦いで三好政長を討つと、長慶を恐れた細川晴元と将軍・足利義輝らと共に近江国に逃亡します。
三好長慶の死後、三好政権を支えて畿内で活躍した三好長逸・三好宗渭・岩成友通の三人を三好三人衆と呼んだ。
永禄八年(1565年)には、将軍親政を復活させようとした室町幕府13代将軍・足利義輝を襲撃して暗殺した(永禄の変)。
後に、篠原長房・三好康長や筒井順慶と組んで三好義継や松永久秀と対立したため、三好政権が混乱する、足利義昭を擁立する尾張の織田信長を利する結果となり、永禄11年(1568年)信長の上洛に反発するも相次いで敗退し三人衆の勢力は衰える。
永禄の末には、三好宗渭が病没、天正年間には、岩成友通が戦死、ほどなく三好長逸も消息不明となり畿内における三好氏の勢力の衰退と三人衆の活動は完全に途絶えた。
紀伊半島の勢力
雑賀衆と呼ばれる武装集団が存在し、信長に対抗する勢力の一部、雑賀衆は本願寺勢力と連携し、石山合戦においても重要な役割を果たした。
元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢のうちに進み、信長は石山本願寺を攻めあぐねていた。
信長は戦局を打開すべく本願寺の主力となっていた雑賀衆の本拠である紀伊雑賀(現・和歌山市を中心とする紀ノ川河口城)に狙いをつけ、浄土真宗本願寺勢力と織田信長の戦いとなった。
戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す信長び軍事的・政治的決戦であり石山合戦の終結と同時に各地の一向一揆はその勢いを著しく失った。
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第二次包囲網は、元亀2年〜天正元年
信長により追放された将軍・足利義昭は、毛利家の庇護下で再び反信長包囲網を築いていった、その中心にいたのが強敵・上杉謙信だった。
武田信玄の次は、越後の龍と云われた強敵・謙信が信長の前にはだかったが間もなく急死してしまう事になる。
上杉謙信の死後、その他の勢力も信長に敗北していき包囲網は消滅するが、直後に本願寺の変が勃発した。
一向宗門徒に決起を呼びかけた顕如
織田信長にとって、最大の敵は石山本願寺だったともいえます。
元亀元年(1570年)に始まった石山本願寺との戦いは、何度か和睦を挟みながら、足掛け11年に渡って繰り広げられ、本願寺門跡の顕如は、全国の一向宗門徒に打倒信長を呼び掛け、さらに毛利家や雑賀衆とも手を組んで信長に敵対していった。
そして、この石山本願寺に目を付けたのが、京を追われた将軍・足利義昭だった。
将軍・足利義昭は諸国の大名に反信長を呼び掛け、上杉家や毛利家、石山本願寺などを中心とする第二次信長包囲網を形成していき、この信長包囲網には、松永久秀や波多野秀治など、かつて信長に従っていた大名も含まれていた。
彼らは信長に反旗を翻し、その足元を大いに脅かした。
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織田信長との同盟を破棄し兵を進める上杉謙信
信長ですら恐れた上杉謙信、長篠の戦いで武田軍を撃破し、信長は天下人への道をひた走る事となっていった。
しかし、信長は「越後の龍」と称された上杉謙信には恐れを抱き、長らく友好的な態度を取り続けていた。
上杉謙信は長年の懸案だった越中の一向一揆が解決すると、武田勝頼と同盟を結んだ。
武田との同盟を結ぶ事で、近隣諸国の脅威を取り払った上杉謙信は信長との同盟を破棄、西へと兵を進めていった。
秀吉らが北陸へ発つと越中平定後、上杉謙信は能登にも侵攻し、同国を治める畠山家の居城・七尾城を取り囲み、畠山家からの救援要請を受けた信長は、柴田勝家や羽柴秀吉、丹羽長秀といった名だたる将を北陸へ送った。
七尾城陥落と乱れる織田軍だった、だが天正5年(1577年)9月、織田の援軍が到着する前に七尾城は陥落する。
それを知らぬまま織田軍は加賀に入ったが、ここで羽柴秀吉が柴田勝家と対立し、勝手に陣を離れる事件が起きる。
こうした内紛もあり、織田軍には足並みの乱れが生じていたが、そんな状況を上杉謙信は見逃さなかった。
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これにより上杉謙信によって織田軍撤退する羽目になっていく、七尾城陥落の報せを聞いた織田軍は撤退を開始したが、そこへ上杉謙信率いる上杉軍が襲い掛かり、織田軍は大打撃を受け、さらに増水した手取川を渡ろうとして多数の溺死者を出し、大損害を出した。
この戦いで上杉謙信は北陸の支配権をほぼ手中にし、上洛への道を開いたのである、上杉謙信は手取川の戦いで織田軍を破った後、一旦、春日山城へ戻り、次の遠征の準備を進めた。
ところが、天正6年(1578年)3月15日、上杉謙信は突如倒れ、そのまま亡くなってしまう。
上洛への手応えを掴んだ上杉謙信の死は、またしても信長を救う形となった。
上杉謙信には実子がおらず、2人の養子(景勝・景虎)がいた。
ところが、謙信は誰を後継者にするか定めないまま亡くなった為、後継を巡る争いが始まった。
これを「御館の乱」といい、上杉謙信の甥にあたる景勝が勝利したが、血で血を争う内乱は上杉家の衰退を招いてしまう。
そしてこれを機に織田軍が反撃に転じ、上杉領だった加賀・能登・越中へと侵攻した。
この時、織田軍の司令官として指揮を執ったのが、織田軍団の重鎮・柴田勝家だった。
柴田勝家は信長から北陸攻めを任され、1世紀弱に渡り加賀を支配した一向一揆を鎮圧。
更に能登を平定後、越中にも進出した。
上杉家は窮地に立つも、本能寺の変が勃発、天正10年(1582年)6月、柴田勝家は魚津城を攻め落とし、越中をほぼ支配下に収めた。
これにより上杉家は窮地に立たされたが、本能寺の変で織田信長が横死した事で、景勝は九死に一生を得た。
柴田勝家が北陸で活躍する一方で、明智光秀は信長に抵抗する畿内諸勢力の鎮圧を任された。
天正3年(1575年)から丹羽・丹後の平定に取り掛かったが、その最中に丹羽の波多野秀治が反旗を翻し、光秀を手こずらせた。
だが光秀は天正7年(1579年)にこれを平定、その功績により丹羽一国(約29万石)を与えられた。
また天正5年(1577年)には、信長を再度裏切った松永久秀の居城・信貴山城を攻撃している。
この時、信長は「平蜘蛛茶釜を差し出せば助命する」と久秀に伝えた。
だが久秀はこれを拒み、最後は茶釜に爆薬を仕込んで自爆した。
将軍を暗殺し、「梟雄」と呼ばれた男の壮絶な最期だった。
この時期、信長包囲網はほぼ完全に消滅した。