美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

武将・丹羽長秀

信長があだ名を付けた丹羽長秀!安土城の偉業と壮絶な自殺の謎

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丹羽長秀は織田家の宿老、主君・織田信長に従い、天下統一事業に貢献した武将。
朝廷より惟住の姓を賜ったので、惟住長秀ともいう。
丹羽氏は元々斯波氏の家臣で、天文4年(1535年)9月20日に丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現・名古屋市西区)誕生し、天文19年(1550年)より織田信長に仕える。

 

天正13年4月16日(1585年5月15日)に丹羽長秀は、この世を去っています。

 

 

丹羽長秀について語られる際、安土城の監督織を任され安土城を築城。

 

 

そして、もっとも凄絶な最期のエピソードは非常に印象的です。

壮絶な「腹中の虫」のエピソード 病(積聚)に苦しむ中、「病によって死ぬのは本意ではない」と自ら腹を切り、原因となっていた「虫」を取り出したという伝説は、彼の強靭な精神力を物語っています。

 

 

取り出された虫が、医師である竹田法印(竹田定慶)の家に「寸白(すんばく)の虫」として伝来していたという話は、江戸時代の医学書や奇談集などでも有名ですね。

 

 

 

丹羽長秀の戦歴

天文19年(1550年)より織田信長に仕える。

天文22年(1553年)梅津表の合戦にて19歳で初陣を飾った。

弘治2年(1556年)稲生の戦※1いでは信長に付いた。
         ↓ 信長の家臣なのに信長に付いたとは?
                               おかしいと思いませんか?

それは、※1.稲生の戦いとは、弘治2年(1556年)8月24日に尾張国春日井郡の稲生原(現・名古屋市西区)で起きた、織田信長と、その弟・織田信行(信勝)との家督をめぐる合戦です。 

1. 織田家が「どっちに付くか」真っ二つに割れていたから当時の尾張織田家は、信長が完全に支配していたわけではありませんでした。

この「稲生の戦い」は、信長と、その実の弟である織田信勝(信行)による、凄絶なトップ争い(お家騒動)です。

この時、織田家の重臣たちの多くは、素行が悪く「うつけ者」と呼ばれていた信長を見限り、品行方正で評判の良かった弟の信勝に味方しました。

 

あの猛将・柴田勝家や、宿老の林秀貞といった最高幹部クラスでさえ、この時は信長を裏切って弟の信勝側(敵方)に付いていたのです。

 

 

2. 「主流派(敵)」ではなく「弱小派の信長」を選んだ丹羽長秀の凄さは家臣団の大部分が敵に回る中で、まだ若手だったが、周囲に流されることなく一貫して信長を支持し続けました。

つまり、あの状況での「信長方に付いた」というのは、単に命令に従ったという意味ではなく、「織田家が真っ二つに割れ、多くの重臣が裏切る中で、命をかけて信長を信じ抜く選択をした」という、長秀の忠誠心と先見の明の高さを示す非常に重要なエピソードなのです。

 

 

永禄3年(1560年)桶狭間の戦いでは、今川義元の攻撃部隊いは入っていないものの従軍している。

『信長公記』などから、斎藤龍興の美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で箕作城を攻めるなど武功を挙げた(観音寺城の戦い)。

 

 

姉川の戦いの直後から、信長は8ヶ月に及ぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571年)2月24に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって丹羽長秀が佐和山城主となった。

 

 

 

信長が長秀を「米五郎左」と呼んだ意味と信頼度

織田信長といえば、家臣に対して鋭い洞察力に基づいた「あだ名」をつけることで知られています。

 

 

あの羽柴秀吉を「ハゲネズミ」と呼び、明智光秀を「キンカ頭」と揶揄したとされるエピソードが有名ですが、その中でも最大級の賛辞と信頼が込められていたのが、丹羽長秀に与えられた「米五郎左(こめごろうざ)」という異名です。

 

 

五郎左とは長秀の通称ですが、なぜ頭に「米」がついたのでしょうか。

 

 

それは米という存在が、当時の人々にとって「一日としてなくてはならない主食」だったからです。

 

 

派手なおかず(一時の華々しい武功)がなくても、米さえあれば人は生きていける。

 

 

それと同じように、織田家にとって丹羽長秀という男は「いなければ組織が成り立たない、絶対に欠かせない存在」であると、信長はその万能ぶりを高く評価していました。

 

 

実際、信長は自身の名字から一字を与え、長秀の妻に信長の異母妹(または養女)を迎えるなど、一門並みの破格の待遇でこの「米五郎左」への信頼を示し続けたのです。

 

 

 

派手さはないが「なくてはならない」万能の天才

戦国時代の武将といえば、敵の猛将を討ち取るような華々しい武功ばかりが注目されがちです。

 

 

その点、丹羽長秀の戦歴を見ると、柴田勝家のような「鬼柴田」と恐れられる猛烈な突破力や、秀吉のような鮮やかな奇策は少ないかもしれません。

 

 

しかし、長秀の本質は、あらゆる任務を完璧にこなす「オールラウンダー」としての天才的な能力にありました。

 

 

合戦においては前線での殿(しんがり:退却時の最後尾の防衛)や、城攻めにおける兵糧攻めの包囲網構築など、地味ながら失敗が許されない最重要局面をことごとく任されています。

 

 

さらに長秀の真骨頂は、政治や行政、ロジスティクス(物資補給・輸送)の分野にありました。

 

 

京都の治安維持を担う京都所司代としての行政手腕や、他の大名との高度な外交交渉、そして何より織田政権の権威の象徴である「安土城」の総普請奉行として、巨大な建築プロジェクトを予算・人員ともに完璧にコントロールして完遂させた実績がそれを物語っています。

 

 

戦もでき、政治もでき、経済もわかる。

この「派手さはないが、どこに配置しても120%の成果を出す」という実務能力の高さこそが、信長から見た長秀の「なくてはならない」価値でした。

 

 

 

柴田勝家や羽柴秀吉との出世レースに見る丹羽長秀の立ち位置

織田家臣団の出世レースといえば、筆頭宿老である柴田勝家と、驚異的なスピードで出世していく羽柴秀吉の二大巨頭による競い合いが有名です。

 

 

この激しい競争の中で、丹羽長秀は常に絶妙な立ち位置を維持していました。

 

 

長秀は、柴田勝家のように「古参の血筋と武力」だけで押すタイプでもなければ、秀吉のように「新参から成り上がる」ために手段を選ばないタイプでもありません。

 

 

いわば、組織のバランスを保つ「アンカー(重鎮)」のような存在でした。

勝家と秀吉が方面軍の司令官としてそれぞれ北陸や中国地方へ遠征していた際も、長秀は信長の本隊の近くに残り、近畿圏の統治や戦略の要を支え続けました。

 

 

この配置自体が、信長が長秀を「最も手元に置いておきたい実務家」として扱っていた証拠です。

 

 

信長没後の清洲会議や賤ヶ岳の戦いにおいて、長秀が最終的に秀吉を支持したことは歴史の大きな転換点となりました。

 

 

勝家という旧弊なトップよりも、長秀と同じく「実務と組織マネジメント」で台頭してきた秀吉の先見性を評価したのかもしれません。

 

 

突出して天下を狙う野心を見せず、常に織田家という組織の存続と発展を第一に考えた長秀の立ち位置は、出世レースの勝敗を超えた、戦国屈指の「最高幹部」としての風格を今に伝えています。

 

 

 

安土城に見る丹羽長秀の建築・政治手腕

戦国時代のハイライトとも言える「安土城の築城」。

琵琶湖のほとりにそびえ立つ、日本史上初の天守を持った巨大な名城の建設において、総責任者(総普請奉行)を務めたのが丹羽長秀でした。

       ▲安土城

 

信長が思い描いた前代未聞の城を形にするには、単に石垣を積むだけでなく、卓越した「政治力」と「プロデュース能力」が必要不可欠でした。

 

 

長秀は、当時最高の技術を持った石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」を率いるとともに、朝廷や公家、さらには京都の町衆など、多方面との高度な交渉や調整を一身に引き受けました。

 

 

巨万の富と最新の技術、そして膨大な人員が動く国家規模の大プロジェクトにおいて、すべての歯車を噛み合わせ、信長の期待を上回る城郭を出現させた実力こそ、長秀が「一流の政治家」であった何よりの証拠です。

 

 

信長が思い描いた前代未聞の城を形にするには、単に石垣を積むだけでなく、卓越した「政治力」と「プロデュース能力」が必要不可欠でした。

 

 

 

安土城を完成させた組織マネジメント力

安土城の築城は、当時の技術の粋を集めた一大事業であり、現代で言えば国家レベルの巨大インフラ開発プロジェクトに匹敵します。

 

 

この過酷な現場を破綻させることなく完遂に導いたのが、長秀の天才的な組織マネジメント力でした。

 

 

全国から集められた数万人規模の人夫や、こだわりが強く一筋縄ではいかない職人たちをまとめ上げ、適材適所に配置してモチベーションを維持させるのは並大抵のことではありません。

 

 

さらに、気性の激しい信長からの「一刻も早く完成させよ」という厳しいプレッシャーや、度重なる設計変更の要求にも、長秀は冷静かつ柔軟に対応し続けました。

 

 

予算、人員、納期、そしてクオリティ。そのすべてを完璧にコントロールし、誰一人として反発させることなくプロジェクトを成功させた長秀の手腕は、現代のビジネスパーソンから見ても最高峰のプロジェクトマネージャーの姿そのものです。

    ▲安土城全体イメージです

 

 

 

丹羽長秀の壮絶な最期!自ら腹を切って腹中の虫を出す

織田信長の死後、激動の清洲会議や賤ヶ岳の戦いを経て豊臣秀吉の天下統一への道筋を支え続けた丹羽長秀ですが、天正13年4月16日(1585年5月15日)、その生涯を閉じることになります。

 

 

数々の政務や軍務を完璧にこなしてきた名将の最期は、歴史ファンの間で今もなお強烈なインパクトを持って語り継がれる、極めて凄絶なものでした。

 

 

 

死因となった病「積虫(積聚)」とは何だったのか?

晩年の長秀は、お腹の中に硬いしこりができ、激しい痛みを伴う「積聚(しゃくじゅ)」という病に冒されていました。

 

 

医学が未発達だった当時は、お腹の中に住む「積虫(つむし)」という魔物のような虫が体内で悪さをし、病を引き起こしていると考えられていた時代です。

 

 

日々増していく激痛のなかで、長秀は「病によってなす術もなく衰弱し、そのまま死を待つのは武士の本意ではない」と、常人には到底真似できない驚くべき行動に出ます。

 

 

なんと、自ら小刀で腹をかっ捌き、その手で原因となっていた「腹中の虫」を掴み出して取り出したというのです。

 

 

現代の医学的観点から見れば、このしこりの正体は胃がんや悪性腫瘍、あるいは重度の寄生虫(寸白=サナダムシなど)であったと推測されます。

 

 

しかし、病の元を力ずくで絶とうとしたその執念と、実際に腹を切り裂いた驚異的な精神力は、まさに死線をくぐり抜けてきた戦国武士としての凄まじい矜持を物語っています。

 

 

 

江戸時代まで伝わった?名医・竹田法印に遺された「寸白の虫」の謎

長秀が自らの命と引き換えに引っ張り出したとされるその「虫」には、奇妙な後日談が残されています。

 

 

彼が取り出した虫は、長秀の主治医であり、当時を代表する名医でもあった竹田法印(竹田定慶)へと引き渡されました。

 

 

法印が薬を用いてその虫を殺したところ、その死骸は「寸白(すんばく)の虫」として竹田家に長く保管されることになります。

 

 

この取り出された虫の記録は、江戸時代の医学書や様々な奇談集にも詳細に書き残され、当時の人々を驚かせる高名な怪異譚として伝来していきました。

 

 

丹羽長秀という男は、生涯を通じて組織を支え続けた超一流のリアリストでありながら、その最期においては誰よりも戦国武将らしく、そして怪奇ミステリーのような謎めいた伝説を残して歴史の表舞台から去っていったのです。

 

 

 

割腹の真相は?秀吉へのストレスや暗殺説を徹底検証

丹羽長秀の「自ら腹を切って虫を取り出した」という凄絶な逸話は、単なる病気苦痛によるものだけではなく、当時の緊迫した政治背景が大きく関係しているのではないかと古くから囁かれてきました。

 

 

その背景にあるのが、急速に天下人へと駆け上がっていく羽柴秀吉との歪んだ関係性と、それに伴う凄まじい精神的ストレスです。

 

 

 

織田家を乗っ取る秀吉への怒りと葛藤

本能寺の変の後、長秀は山崎の戦いや清洲会議において秀吉を支持し、結果として秀吉政権の誕生を大きく後押しすることになりました。

 

 

しかし、秀吉が織田家の血筋をないがにしろ、まるで組織を乗っ取るかのように権力を掌握していく姿を見て、織田家の重鎮である長秀が激しい怒りと葛藤を抱いたのは想像に難くありません。

 

 

「自分が秀吉を支持したせいで、織田家が滅ぼされていく」という後悔と、日々肥大化していく秀吉の野心に対するストレスは、長秀の心身を確実に蝕んでいきました。

 

 

長秀の死因となったお腹のしこり(積聚)は、現代で言えば胃がんやストレス性の潰瘍とも考えられますが、文字通り「腹に据えかねる」秀吉への鬱屈した思いが、長秀を病へと追いやったという見方は当時から強く存在していたのです。

 

 

 

割腹は秀吉への「抗議」だったという説の信憑性

こうした背景から、長秀の割腹は単に病の虫を取り出すためではなく、秀吉に対する命がけの「抗議(諫死)」、あるいは秀吉による「暗殺や毒殺」を隠蔽するためのカモフラージュだったのではないかという説が囁かれるようになりました。

 

 

実際、長秀が取り出した虫を秀吉に送りつけ、「お前のせいでこの虫が湧いたのだ」と呪って死んだという、おどろおどろしい伝承まで残されているほどです。

 

 

この説の信憑性については、確固たる一次史料(当時の公的な記録)があるわけではなく、後世の創作や噂話の域を出ないというのが現代の歴史学的な見方です。

 

 

しかし、裏を返せば、そうした極端な陰謀論が生まれてしまうほど、当時の長秀と秀吉の関係は緊張感に満ちており、周囲の目にも長秀がストレスで潰されていくように映っていたことの証左と言えます。

 

 

大義名分を重んじた宿老が、変わりゆく時代の中で抱えた深い孤独と苦悩が、この凄まじい伝説の裏には隠されているのかもしれません。

 

 

 

-武将・丹羽長秀

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。