美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

北条早雲 興国寺城

北条早雲の原点・興国寺城の見どころとは?旗揚げの歴史と「土の芸術」を徹底解説

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後北条氏五代、100年の栄華はここから始まった――と言ってもいいです。

 

 

戦国時代に伊豆・相模(現・神奈川県西部など)を中心に伊豆から関東一帯を支配した戦国大名です。

静岡県沼津市にある興国寺城は、戦国時代の幕開けを告げた名将・北条早雲(伊勢新九郎盛時)ゆかりの城です。

 

 

現在は「続日本100名城」にも選ばれ、歴史ファンから熱い視線を浴びています。

「地中の遺構は見られない」と言われることもありますが、現地に足を運ぶと、圧倒的なスケールを誇る大土塁や大空堀など、戦国最盛期の「土の芸術」が今も生々しく残っています。

 

 

本記事では、北条早雲と興国寺城の深い結びつきや歴史ドラマ、そして実際に訪れた際に絶対にハズせない見どころを分かりやすく解説します!

 

 

 

興国寺城の歴史と概要:北条早雲「始まりの城」

興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。

 

 

この城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城で、北条早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、室町幕府将軍の申次集を務めたが、駿河の守護・今川氏とは、姉の北川殿が今川義忠の正室というつながりがあった。

 

 

文明8年(1476年)今川義忠が急死すると、その後の家督争い※1で甥の今川氏親を助けた功により、長享2年(1488年)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる。

※1.家督争いとは、今川義忠の急死後(1476年)の家督争いは、義忠の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)と、義忠の従兄弟である小鹿範満の間で勃発しました。

龍王丸とは、正室である北川殿の間に生まれた嫡男でしたが、幼少(わずか6歳)であったため、すぐに当主となることができませんでした。

小鹿範満は、今川義忠の従兄弟にあたり、有力家臣たちの支持を受けて家督の継承を主張しました。

このお家騒動は、のちに伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)の調停により、龍王丸が元服するまでの間、小鹿範満が今川館(駿河国)を管理し、成長後に龍王丸が家督を継ぐという形で一旦和解・終結しました。

 

 

この後、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、明応2年(1493年)に伊豆韮山の堀越公方・足利茶々丸を襲って※2伊豆国を攻めた。

 

※2.伊豆韮山の堀越公方・足利茶々丸を襲ったとは、北条早雲(伊勢新九郎盛時)が伊豆韮山の堀越公方・足利茶々丸を攻めた理由は、室町幕府第11代将軍・足利義澄からの正式な討伐命令(母と弟の仇討ち)を受けたためです。

幕府の権力闘争と将軍の交代です。 明応2年(1493年)の明王の乱、幕府の実力者・細川政元がクーデターを起こし、足利義材(のちの義稙)を追放して足利義澄を第11代将軍に擁立しました。

これにより、将軍の廃立が守護大名の意志で行われるという下克上の世が本格化しました。

伊豆を治めていた堀越公方・足利政知が死去した後、庶子(側室の子)であった茶々丸は、強引に家督を継ぐために継母(足利義澄の生母)と異母弟(足利義澄の同母弟)を殺害しました。

将軍となった足利義澄にとって茶々丸は実母と弟を殺した不倶戴天の敵であり、早雲に討伐を命じました。

将軍の命を受けた伊勢新九郎盛時(早雲)は、今川氏の支援などを得て明応2年(1493年)に堀越御所を夜襲し、伊豆国を平定しました。

当時、この幕府の政変や討伐令と連動して関東の勢力図も大きく変動しており、早雲は伊豆国を足がかりに戦国大名への道を歩み始めました。

 

 

興国寺城の主な歴史北条早雲の旗揚げは、伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が今川氏から与えられた城で、ここを拠点に関東進出を果たしました。

 

 

後に、興国寺城は戦国大名による領地争い境界の城として争いの渦中におかれ、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の勢力下となった。

 

 

興国寺城の激しい争奪戦は、駿河・相模・甲斐の国境付近に位置するため、今川氏、北条氏、武田氏などの有力大名による争奪戦の舞台となりました。

 

 

江戸時代と廃城、慶長6年(1601年)に徳川家康の家臣である天野三郎兵衛康景が1万石で入城、しかし慶長12年(1607年)、家臣の処遇を巡って天野が幕府と対立し、自ら逐電(出奔)したため廃城となりました。

 

 

 

現在、城跡は「本丸」や「天守台」などの遺構が残る公園として整備されており、歴史ファンに人気の高いスポットとなっています。

 

 

興国寺城は、北から北曲輪、本丸、二ノ丸、三ノ丸と呼ばれる平場が直線に造られ、東側には清水曲輪と呼ばれる曲輪(城の中に造られる平場)が配されている。

 

 

静岡県東部を代表する山城で、約113,000平方メートルの面積をもつ。

 

 

本丸の背後には、天守台と伝えられる高台があり、発掘調査によって2棟の礎石建物跡が見つかっている。

 

 

瓦の出土がないことから、一般的な城のイメージにある「天守閣」ではなかったと考えられるが、ここから城の南を通る根方街道やさらに南の東海道を監視していたと思われる。

 

 

興国寺城の見どころは、大土塁(防御用の土の壁)と天守台背後に造られた幅20メートル以上もある大空堀である。
また天守台からは原の市街と駿河湾の景色を楽しむことができる。

      ▲案内

平成7年3月に国の史跡に指定され、現在も整備に伴う発掘調査を継続して実施しており、120年間にわたる興国寺城の歴史が明らかになりつつある。

    ▲代空堀 北条早雲が旗揚げの城

 

沼津市では将来的にこの成果を報告書としてまとめた後に、史跡公園としての活用を検討している。

 

なお、この城跡は「ぬまづの宝100選」に選ばれており、平成29年4月に日本城郭協会が選ぶ「続日本百名城」に選定されている。

 

 

今川家の内紛を解決し、一国一城の主へ

興国寺城の歴史を語る上で欠かせないのが、のちに関東の覇者となる北条早雲(伊勢新九郎盛時)の存在です。

 

 

室町時代後期、駿河守護である今川家で激しい家督争いが勃発した際、早雲は調停役として見事にこの内紛を収めました。

 

 

この多大なる功績が認められ、今川氏親(今川義元の父)から東駿河の要衝である興国寺城を与えられます。

 

 

それまでは足利将軍家に仕える一官僚にすぎなかった早雲が、ついに「一国一城の主」として自立し、戦国大名への第一歩を踏み出した瞬間でした。

 

 

 

武田・徳川も奪い合った「境目の城」

興国寺城は、駿河(今川氏・武田氏)と伊豆・相模(北条氏)の勢力がちょうどぶつかり合う国境、すなわち「境目の城」としての運命を背負っていました。

 

 

北条早雲がこの城を足がかりに伊豆へと進出したのちも、その地政学的な重要性は変わりません。

 

 

戦国時代中期から後期にかけては、駿河侵攻を狙う武田信玄や、それを阻もうとする北条氏、さらには東海地方へ勢力を伸ばす徳川家康らによって、非常に激しい争奪戦が繰り広げられました。

 

 

時代ごとに主を変えながら改修が重ねられたこの城は、まさに一線級の城郭として戦国乱世を駆け抜けたのです。

 

 

 

北条早雲の人物像と興国寺城での役割

北条早雲は、もともと室町幕府の官僚(役人)として活躍していた人物であり、卓越した交渉力や政治力を巧みに使いこなす知性派のリーダーでした。

 

 

当時の「実力で新しい領地を切り開く」という生き方を体現した下剋上の先駆者であり、まさに戦国大名の第一人者と言える存在です。

 

 

そんな早雲の政治の特徴は、領民を深く思いやる優しさにありました。

 

 

それまで主流だった重い税を改め、収穫の4割を税、6割を領民の取り分とする「四公六民」の制度を導入して税負担を軽くしたほか、病に苦しむ領民には薬を配るなど、常に民に寄り添う先進的な統治を行いました。

 

 

現在の静岡県沼津市に位置する興国寺城は、今川家の内紛を解決した功績によって早雲が与えられた、生涯最初の重要な拠点です。

 

 

この城は駿河と伊豆のちょうど境目に位置しており、自領を守るための国境の要衝として極めて重要なお守りの役割を果たしていました。

 

 

早雲はここを拠点にして着実に軍備を整え、のちに歴史を揺るがす「伊豆討ち入り」を敢行します。

 

 

当時、隣国の伊豆では足利茶々丸による暴政や内紛が続いており、領民は苦しんでいました。

 

 

早雲は興国寺城から軍を動かして電撃的に伊豆半島へと攻め込み、瞬く間にこの地を攻略して民を救ったのです。

 

 

この興国寺城をスタート地点とした歴史的な旗揚げこそが、のちに小田原城を本拠地として関東一円を支配する「覇者・北条氏」のすべての始まりとなりました。

 

 

 

伊勢新九郎盛時から「北条早雲」の大器晩成

北条早雲は、かつて「素性の分からない素浪人から一国の主へと成り上がった下剋上の典型」と語られていましたが、近年の研究により、室町幕府の将軍に直接仕える名門・伊勢氏の出身の伊勢新九郎盛時であったことが定説となっています。

 

 

伊勢新九郎盛時が興国寺城を与えられたのは50代、あるいは40代後半のことであり、当時としてはかなりの大器晩成型でした。

 

 

しかし、中央の高度な政治知識と教養を備えていたからこそ、地方の動乱を冷静に見極め、独自の領国支配を行うことができたと言えます。

 

 

民を思いやる先進的な分国法を定めたカリスマ性は、この興国寺城の時代にすでに磨かれつつありました。

 

 

 

「伊豆討ち入り」の謎と逸話

興国寺城を拠点とした早雲が、歴史にその名を轟かせる決定打となったのが、隣国・伊豆への「伊豆討ち入り」です。

 

 

当時、伊豆を統治していた足利茶々丸の暴政や内紛を突く形で、早雲は興国寺城から軍を動かし、電撃的に伊豆を占領しました。

 

 

この事件は「下剋上の幕開け」とも評されますが、実際には室町幕府の新将軍からの命令を背景にした、極めて正当性の高い政治的・軍事的な作戦であったという側面が強いです。

 

 

興国寺城は、単なる地方の小城ではなく、早雲が関東進出という壮大な野望へと漕ぎ出すための、まさに「不沈空母」のような戦略的役割を果たしていたのです。

 

 

 

興国寺城の見どころと現在の様子

興国寺城の最大の見どころであり、訪れた者を圧倒するのが本丸の背後にそびえ立つ「本丸大土塁」です。

 

 

地中の遺構こそ見られないものの、地上に残るこの土の壁は数メートルもの高さを誇り、当時の驚異的な防衛力を今に伝えています。

 

 

敵の侵入を絶対に防ぐという当時の武士たちの執念が形になったかのような巨大さで、その迫力はまさに一見の価値があります。

 

 

さらに、この大土塁の上に登ると視界が大きく開け、かつての城下町や遠く駿河湾までを一望できる絶景が広がっているのも大きな魅力です。

 

 

 

武士たちの執念を感じる深く巨大な「大空堀」

本丸と北曲輪を隔てるように掘られた「大空堀」も、現地で強烈な存在感を放つ必見のスポットです。

 

 

驚くべきはそのスケール感であり、幅・深さともに圧倒的な規模を誇っています。

 

 

重機のない戦国時代に、これほど深く巨大な溝をすべて人の手で掘り崩したという事実は、当時の緊迫した戦況と凄まじい労力を生々しく物語っています。

 

 

堀の底から見上げるその深さは、攻め寄せる敵兵に絶望感を与えるのに十分な威圧感を持っており、土の城としての最高峰の技術を体感させてくれます。

 

 

 

土の城に残された貴重な石造り「伝天守台」

興国寺城は大規模な土塁や空堀に囲まれた「土の城」としての印象が強いですが、本丸の北西隅には貴重な石造りの遺構である「伝天守台」が存在します。

 

 

この天守台とされる高台の周辺には、自然石をそのまま積み上げる技法である「野面積み(のづらづみ)」の石垣が一部現存しています。

 

 

大部分が巨大な土の構造物で造られているからこそ、このわずかに残る石垣の存在感が際立ちます。

 

 

土塁の力強さと石垣の無骨な美しさが織りなすコントラストは、この城の歴史的重みをさらに引き立てています。

 

 

 

興国寺城を訪れる際のポイントと観光情報

南の泥沼、北の大空堀!天然の要害「根古屋」の地形が実物です。

 

 

興国寺城を訪れる際は、城が築かれた「地形」に着目すると、その防御力の高さがより立体的に見えてきます。

 

 

城の南側には沼川が流れ、かつてはその周囲に「浮島沼(うきしまぬま)」と呼ばれる広大な湿地帯が広がっていました。

 

 

つまり、南側からは泥沼が敵の行く手を阻む「天然の泥沼ディフェンス」が敷かれており、その一方で北側には人の手で掘り抜いた巨大な大空堀と大土塁がそびえ立っていたのです。

 

 

この自然の利と人工の要塞を巧みに融合させた「根古屋(ねごや)」の地形こそが、数々の戦国大名が喉から手が出るほど欲しがった鉄壁の要害たる所以です。

 

 

 

続日本100名城スタンプの設置場所とアクセス方法

名城巡りの楽しみである「続日本100名城」のスタンプは、城跡内にある穂見神社(ほみじんじゃ)の境内に設置されているほか、近くにある沼津市文化財収蔵庫などでも押印することができます。

 

 

事前に設置場所を確認しておくと、現地での散策がよりスムーズになります。

 

 

城跡へのアクセスは、公共交通機関を利用する場合はJR東海道本線の「原駅」が最寄りとなり、そこからバスや徒歩でのアプローチが可能です。

 

 

車で訪れる際も周辺に駐車場が整備されているため、気軽に歴史ドライブの目的地として組み込むことができます。

 

 

 

まとめ

北条早雲の息吹が残る興国寺城へ行こう!

静岡県沼津市に佇む興国寺城は、「地中の遺構は見られない」という言葉からは想像もつかないほど、圧倒的な見ごたえを誇る名城です。

 

 

一歩足を踏み入れれば、戦国時代の幕開けを告げた北条早雲の壮大な歴史ロマンと、のちの戦国大名たちがしのぎを削った臨場感を、巨大な大土塁や大空堀を通じて肌で感じることができます。

 

 

「続日本100名城」の一つにふさわしい、土の城としての最高峰の魅力を体感しに、ぜひカメラやスニーカーを用意して興国寺城へ足を運んでみてください。

 

 

-北条早雲 興国寺城

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。