美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

三光神社 抜け穴 三光神社 

「大坂の陣・真田幸村の出城『真田丸』の謎!三光神社に残る【真田の抜け穴】の正体とは?

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大坂冬の陣の戦いで真田幸村が真田丸と抜け穴を利用してたとは知らなかった〜

 

大坂の陣において、徳川家康の大軍を相手に互角以上の戦いを見せた天才軍師・真田幸村=信繁。

 

 

幸村が築いた最強の出城「真田丸」の跡地とされる大阪市天王寺区の三光神社には、今も不思議な横穴が残されています。

それこそが、現代まで語り継がれる「真田の抜け穴」。

 

 

「この穴は遥か(1.5Km)大坂城まで繋がっており、まさか〜知らなかった〜」。

 

 

幸村が極秘裏に行き来していたという伝説を聞いて、胸を躍らせたことがある方も多いのではないでしょうか。

▲ここに地図を入れる▲

 

 

しかし、現代の歴史学や考古学の視点からこの穴を紐解くと、驚くべき「もう一つの真実」が見えてきます。

 

 

果たして、この抜け穴は本当に幸村が掘ったものなのか? それとも……?

 

 

今回は、三光神社に眠る歴史ロマンの正体と、真田丸を巡る謎に迫ります。

 

この記事を読めば、次に三光神社を訪れたときの景色がガラリと変わるはずです。

 

 

 

大阪城の象徴!最強の出城「真田丸」と三光神社

大阪冬の陣で真田幸村が築いた「真田丸」は、大坂城の唯一の弱点である南側を守るために設けられた最強の出城です。

 

 

三光神社(現・大阪市天王寺区)はこの真田丸の推定地のすぐ側に位置し、幸村の銅像や大坂城へと続く「真田の抜け穴」伝説が残るロマンあふれるスポットでなんです。

◇真田丸の歴史と見どころ
最強の砦を造ったのは、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、真田幸村=信繁が築きました。

大坂城の南側(平野部)に張り出す形で造られ、堀と土塁を駆使して徳川の大軍を翻弄し、大打撃を与えたことで知られています。

現在は市街地となっており、当時の遺構は地上には残っていません。

 

 

しかし、三光神社がある周辺の地形は上町台地の西側の縁にあたり、当時の地形の名残を感じることができます。

 

 

◇三光神社の見どころ
真田幸村公の銅像が立っている境内には、天下の名将として知られる真田幸村の凛々しい像が祀られています。

 

真田の抜け穴とされている三光神社から大坂城まで続いていたとされる伝説の抜け穴跡が残っています。

 

 

現在は柵が施されていますが、歴史ファン必見のスポットです。

御朱印・お守り入用の方は、真田家の家紋である「六文銭」がデザインされたお守りや御朱印が人気を集めています。

 

 

◇アクセス・基本情報
所在地:大阪府大阪市天王寺区玉造本町14-90
アクセス:JR大阪環状線「玉造駅」またはOsaka Metro長堀鶴見緑地線「玉造駅」から徒歩約5〜10分と非常に便利な立地です。

 

大坂城と合わせて歩くことで、当時の戦国ロマンを深く体感できるエリアです。

 

 

徳川の大軍を迎え撃った「真田丸」とは?

大坂冬の陣において、真田幸村が築き上げた伝説的な出城、それが「真田丸」です。

 

 

大坂城は北・東・西を川や堀に囲まれた極めて堅固な巨城でしたが、南側だけはなだらかな台地が続き、唯一の弱点とされていました。

 

 

そこを補うために幸村が独立した出丸を構えたのが、まさにこの地です。

 

 

真田丸がそこまで強かった理由は、徹底的な防御の工夫と幸村の知略にあります。

 

 

半円形の城郭には深い空堀や二重の柵が巡らされ、背後の大坂城本丸とも連絡通路で繋がっていました。

 

 

さらに幸村は、挑発によって徳川方の焦りを誘い、狭いキルゾーン(火網)へと敵兵を誘い込みます。

 

 

城壁に並んだ鉄砲隊が一斉射撃を浴びせるこの戦術により、押し寄せた前田軍や松平軍らの大軍は一歩も進めず、甚大な被害を出して敗退することとなりました。

 

 

弱点を最大の激戦地に変え、徳川方を恐怖に陥れた幸村の手腕は、今も戦術の極みとして語り継がれています。

 

 

 

真田丸の跡地に建つ「三光神社」の見どころ

その激戦の舞台となった真田丸の跡地にひっそりと佇むのが、大阪市天王寺区にある三光神社です。

歴史の息吹を今に伝える境内には、ファンならずとも足を止めたくなる見どころが点在しています。

まず目を引くのが、どっしりと構える「真田幸村公之像」です。

 

 

片手を大きく広げ、戦況を見据えるかのような凛々しいブロンズ像は、大坂の陣で命を燃やした幸村の勇姿そのもの。

 

 

そして、その銅像のすぐ傍らに、今回の主役である「真田の抜け穴」の入り口が口を開けています。

 

 

 

石組みで囲まれたその横穴は、周囲の静けさも手伝ってどこか神秘的なオーラを放っており、かつてこの地で繰り広げられた生死を賭けた攻防戦へと思いを馳せる絶好のロケーションとなっています。

 

 

 

大阪城まで掘られてた「真田の抜け穴」に伝わるロマン

東軍の徳川家康を倒さんとする真田幸村が豊臣秀吉の子・秀頼の元に馳せ参じたが、当初、武将としては無名に近い存在であった。

 

 

淀殿には疎んじられ、軍議でも彼の策は嘲笑とともに退けられたほどでした。

 

 

そんな幸村の評価が転じたのは、「大坂冬の陣」でもっとも脆弱だった城の南側の守備を命じられ、見事に大役を果たしたからである。

 

 

徳川方は15万とも20万ともいわれる大軍で押し寄せたが、幸村は「真田丸」別名「偃月城(えんげつじょう)」という半円形の砦を築いて対抗した。

 

 

前田利常、井伊直孝、松平忠直ら徳川方の諸将を散々に苦しめ、多大な損害を与え、ついには家康が攻撃中止を命じるほどであった。

 

 

この砦が置かれたのが、宰相山の三光神社にあります。

創建は4世紀末という由緒を持ち、全国唯一の中風(ちゅうぶ)除けの神様を祀っていることでも知られる。

 

 

そして三光神社といえばやはり「真田丸」だろう。

生駒金剛連山を望む上町台地にあり、幸村も策を練りながら徳川勢を見下ろしていたに違いない。

 

 

この三光神社には、もうひとつ逸話がある。秀頼を密かに脱出させるために、大坂城まで地下通路が掘られたという伝説である。

 

 

実際、境内には「真田の抜け穴跡」という史蹟が残っている。
入口は真田の旗印である六文銭があしらわれた鉄扉で閉ざされ、隣では守護するように銅像の幸村が陣頭指揮を執っている。

 

 

一説では幸村は秀頼とともに薩摩に落ち延びたとされており、大坂城陥落後には「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退きたり加護島(鹿児島)へ」というわらべ歌も流布した。

この抜け穴はそのときに利用されたものなのかもしれない。

 

 

 

「地下を通って大坂城へ」という驚きの噂

「真田の抜け穴」を巡る伝承の中で、最も人々をワクワクさせてきたのが、「この穴が大坂城の本丸まで繋がっていた」という壮大な地下道伝説です。

 

 

現在の三光神社から大坂城(本丸)までは、直線距離にして約1.5km。現代の常識からすれば途方もない距離ですが、伝承では、幸村が敵に気づかれることなく大坂城と真田丸を密かに行き来し、作戦会議や戦況の報告を行っていたと語られています。

 

 

徳川の大軍に包囲されながらも、神出鬼没に現れては敵を翻弄した幸村の活躍を支えた隠しルート――そんな風に想像すると、暗い横穴の奥に眠る歴史のロマンに胸が熱くなります。

 

 

 

 

秀頼を連れて鹿児島へ!生存説との繋がり

この抜け穴の伝説は、大坂の陣の結末にまつわる、もう一つの有名なロマンへと繋がっていきます。

 

それが、豊臣秀頼公と真田幸村の「薩摩(鹿児島)生存説」です。

 

 

大坂城の落城時、秀頼と幸村は燃え盛る城内で自害したとされていますが、当時の庶民の間では「あの二人が簡単に死ぬはずがない」と密かに囁かれていました。

 

 

伝承によると、二人は大坂城からこの「真田の抜け穴」を通って密かに脱出し、徳川の追手を逃れて遠く薩摩の地へと落ち延びたといいます。
実際に鹿児島県には、二人のものとされるお墓や伝承が今も大
切に残されています。

 

 

科学的な事実がどうあれ、この抜け穴にまつわる数々の伝説は、敗者でありながらも人々に愛された豊臣家と真田幸村に「生きていてほしい」と願った、当時の大坂の庶民の温かい祈りと憧れが生み出した最高のリバイバルストーリーなのです。

 

 

 

歴史学が明かす「抜け穴の正体」3つの説

①:敵の「もぐら戦術」による坑道跡
現代の歴史学において最も有力視されているのが、実は真田軍ではなく、敵である徳川方の前田利常軍が掘り進めた「攻城用の坑道(こうどう)」だったという説です。

 

大坂冬の陣の際、三光神社がある一帯には前田軍が陣を構えていました。

当時、強固な城壁や土塁を切り崩すため、鉱山技術者(金掘り衆)を動員して地下からトンネルを掘り、城の足元を爆破したり陥没させたりする「もぐら戦術」が盛んに行われていました。

 

 

もしこれが正しければ、幸村の抜け穴ではなく「宿敵が真田丸を崩そうと必死に掘り進めた執念の跡」ということになります。

ロマンとは裏腹に、泥臭く激しい攻防戦のリアルを物語る遺構なのかもしれません。

 

 


②:真田軍の「武者隠し」
大坂城までは繋がっていなくとも、やはり幸村が作戦用に掘った防衛陣地だったのではないか、という説も根強く残っています。

 

 

それは、敵を誘い込んで奇襲をかけるための地下空間「武者隠し」や、一時的に兵を潜ませる塹壕(ざんごう)のような役割を持っていたという可能性です。

 

 

圧倒的な兵力差を覆すため、幸村は真田丸に無数の罠と仕掛けを施していました。

 

地上の敵からは死角となるこの横穴に精鋭の伏兵を潜ませ、タイミングを見計らって一気に飛び出させて敵を混乱に陥れた――そんな、天才軍師の緻密なゲリラ戦術の記憶が、短い横穴として今に残っているのだと考えれば、こちらも非常に胸が熱くなる説です。

 

 

③:明治・大正期の真田ブーム
最後は、少し現実的でありながらも、人々の「物語への愛」を感じさせる説です。

 

 

明治から大正時代にかけて、講談や『立川文庫』などで真田幸村や、猿飛佐助をはじめとする「真田十勇士」の物語が大ブームを巻き起こしました。

 

 

この空前の真田人気の中で、もともと現地にあった古い横穴や狐穴、あるいは後世の防空壕跡などをベースに、「これこそが伝説の抜け穴だ!」と観光用に整備されたのではないか、という見方です。

 

 

一見すると「のちの創作」のようにも思えますが、裏を返せば、それほどまでに時代を超えて多くの人々が幸村の伝説に熱狂し、彼が遺した奇跡の跡をこの目で見たいと強く願った証拠でもあります。

これこそ、人々の憧れが形作ったもう一つの歴史の姿と言えるでしょう。

 

 

 

三光神社の抜け穴を訪れるポイント

大阪市の三光神社にある「真田の抜け穴」は、大坂の陣で活躍した真田幸村=信繁が大阪城へと掘ったとされる伝説の地下道です。

 

 

歴史ロマンあふれるスポットで、幸村ファンにはたまらない魅力が詰まっています。

 

 

 

おすすめポイント

◇1日限定の内部公開
普段は鉄柵越しに見学するだけですが、毎年11月の第1日曜日に行われる「真田祭」の時のみ、この抜け穴の内部が特別に開放されます。

 

 

◇真田幸村公の銅像と記念撮影
境内には鋭い眼光で大阪城の方角を見据える「真田幸村=真田信繁の像」があり、人気の撮影スポットとなっています。 

 

 

◇六文銭モチーフの授与品
真田家の家紋である「六文銭」がデザインされた御守りや絵馬、御朱印が用意されています。
歴史好きには記念になるお土産です。 

 

 

◇大阪城周辺の史跡めぐり
神社が高台(上町台地)にあることから、かつて幸村が築いた出城「真田丸」の跡地や、周辺のゆかりの地(安居神社など)と合わせて歩いて巡るルートが定番です。 

 

 

 

普段は固く閉ざされた「鉄の扉」と六文銭

歴史のミステリーを秘めた三光神社の抜け穴ですが、普段その中を覗き見ることはできません。

 

 

穴の入り口は、強固な鉄の扉によってしっかりと閉ざされているからです。

 

 

しかし、その扉こそが訪れる人の目を釘付けにします。

扉の表面には、真田家の不惜身命の覚悟を表す象徴「六文銭」の家紋が誇らしげに施されているのです。

 

 

緑に包まれた石組みの中で、固く閉ざされた家紋入りの扉はどこか厳かな雰囲気を漂わせており、「この奥には本当に何かが眠っているかもしれない」という神秘性と、今なお守られ続ける真田の誇りを感じさせてくれます。

 

 

 

六文銭は本物かレプリカか

真田家の象徴である「六文銭」は、三途の川の渡し賃になぞらえ「いつ死んでもよいという不惜身命の覚悟」を表すと言い伝えられています。

 

 

この六文銭が当時の本物かどうかは、現在拝見されている建造物や展示物の種類によって異なります 

 

 

ご覧になっている場所によって、以下のいずれかに該当する可能性が高いです。

 

 

◇当時のもの(またはそれに準ずる年代)
上田城や松代城(海津城)など真田家ゆかりの地に残る当時の門扉や、歴史資料館に展示されている実際の甲冑・武具などに施されている場合、あるいは建築物の改修などで当時のものが現代まで補修されながら引き継がれているケースです。

 

 

◇復元・レプリカである場合
日本の城や寺社にある門などは、火災や戦災、経年劣化によって後世に再建されたものが少なくありません。

そのため、昭和や平成、令和の時代に復元・新調された装飾である可能性が高いです。

また、現代の観光施設や展示物であれば、公開用に再現された精巧なレプリカであることもよくありす。

 

 

 

三光神社「真田の抜け穴」の扉と銅像の背景

① 六文銭の「鉄の扉」が作られた時期と理由
あの厳かな雰囲気を醸し出している六文銭入りの鉄の扉ですが、実は戦国時代からあったものではなく、昭和の後期(宮司さんらのお話によると、かつて穴の中に人が入り込んだり、子供が遊んで危なかったりしたための防犯・安全対策)として後から設置されたものです。
◇作られた背景の面白さ
昔は扉がなく開放されていた時期もあったそうですが、現代になって安全のために扉(鍵)をつけることになりました。
その際、ただの無機質なシャッターや格子にするのではなく、「真田の聖地としての景観とロマンを壊さないように」と、真田家の家紋である「六文銭」をあしらった立派な鉄扉がデザインされたのです。
神社側や地域の人々の「歴史と景観を大切にしたい」という粋な計らいがあの美しい扉を生み出しました。

 

 

 

② お隣にある「真田幸村公之像」の正体
抜け穴のすぐ横で采配を振るっているカッコいい幸村の銅像は、昭和62年(1987年)5月5日に建立されたものです。

◇知ると熱いこだわりポイント
この銅像の「台座(土台)」に使われている石は、ただの石ではありません。

幸村の故郷である信州上田(長野県)にある真田家の菩提寺「長谷寺」からわざわざ取り寄せた「真田石」が使われています。

大阪の地で戦い散っていった幸村ですが、その足元はしっかりと故郷・真田の魂が支えているという、非常に胸が熱くなるバックストーリーが隠されています。

 

これらの「昭和の時代に、現代の人々の手によってロマンが補強され、今も大切に守られている」。

 

 

年に1度だけ!11月の「真田まつり」で開放

普段は見ることのできない扉の向こう側ですが、実は年にたった1度だけ、その封印が解かれる特別な日があります。

 

 

それが、毎年11月の第1日曜日に三光神社で開催される「真田まつり」です。この日に限り、普段は閉ざされている鉄の扉が一般に向けて特別に開放されます。

 

 

穴の奥がどうなっているのか、その目で直接確かめることができる数少ないチャンスの日です。

 

 

幸村の命燃やした大坂冬の陣に思いを馳せながら、年に1度の特別な歴史の瞬間に立ち会ってみてはいかがでしょうか。

 

 

 

まとめ

今も形を変えて生き続ける「真田幸村への愛」は、三光神社に残る「真田の抜け穴」は、現代の歴史学や科学の視点から見れば、大坂城へと続く秘密の地下道ではないのかもしれません。

 

 

しかし、だからといってこの穴の価値が色あせることは決してありません。

 

 

むしろ、本当の正体が何であれ、この小さな横穴が400年もの長い間「真田の抜け穴」として大切に語り継がれてきたという事実そのものに、もう一つの深い歴史の真実が隠されています。

 

 

それは、敗者でありながらも知略の限りを尽くして巨大な敵に立ち向かった真田幸村という武将に対する、人々の色褪せない「憧れ」と「愛」です。

 

 

大坂の庶民は、幸村の獅子奮迅の活躍に熱狂し、落城の後も「幸村ならこれくらいのことはやったはずだ」「どうか生きていてほしい」と願い、その祈りをこの穴に託しました。

 

 

現代の私たちがこの穴の前に立ったときに感じる得も言われぬロマンは、当時の人々が抱いた熱い思いが時代を超えて現代まで響いているからに他なりません。
科学的な事実を超えて、人々の愛着が守り育ててきた「真田の抜け穴」。

 

 

三光神社を訪れた際は、ぜひその鉄の扉の向こう側に広がる、時を超えた歴史ロマンのぬくもりを感じてみてください。

 

 

 

三光神社(真田の抜け穴)の参拝情報

◇電車でのアクセス方法
三光神社へのアクセスは、最寄り駅から徒歩ですぐなので観光にも非常に便利です。

◯JR大阪環状線:「玉造駅」から徒歩約5分

 

◯地下鉄:長堀鶴見緑地線:「玉造駅」2番出口から徒歩約2分
◇周辺のおすすめ歴史スポット
三光神社を訪れたなら、ぜひ一緒に巡りたい周辺の歴史スポットです。

 

◯玉造稲荷神社:豊臣秀頼公が奉納した鳥居(阪神淡路大震災で一部が倒壊し、現在は境内に安置されています)や、秀頼公の「へその緒」が祀られている、豊臣家ゆかりの深い神社です。

三光神社からは徒歩で10分ほどの距離にあります。

 

◯大阪城公園:幸村が目指し、そして守ろうとした大坂城の本丸までは、玉造駅から環状線で「大阪城公園駅」や「森ノ宮駅」へ移動すればすぐ。幸村が駆け抜けた距離感を肌で体感することができます。

 

 

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執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。