美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

本能寺の変がなぜ

帰蝶のいとこなのに、なぜ?織田信長が明智光秀を「冷遇」した残酷すぎる理由と四国の罠

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一般的に「本能寺の変」は、明智光秀が軍を率いて主君・織田信長を討ったとなっているが本当はどうだろう?
明智光秀が本能寺へ行っただろうか?新聞で発表があったけど光秀は現地には行ってないと掲載されています。
じゃあ誰が大将だったか?

 

歴史の教科書では「主君と家臣」として描かれる、織田信長と明智光秀の間柄。

しかし近年、二人の関係性を揺るがす驚きの事実がクローズアップされているのをご存知でしょうか。

 

 

実は光秀、信長の正室である帰蝶=濃姫の「いとこ」だったという説が有力視されているのです。

 

 

現代の感覚からすれば、光秀は信長にとって「義理のいとこ」であり、身内も同然の存在。

 

 

しかし、戦国最強のリアリストであった信長が光秀に与えたのは、身内としての温情ではなく、息もつかせぬ「冷遇」と、あまりにも過酷な精神的プレッシャーでした。

 

 

なぜ信長は、妻・帰蝶のいとこである光秀をそこまで追い詰めたのか?

そこには、信長が抱えていた「身内へのトラウマ」と、光秀の愛弟子が絡んだ「四国の戦国大名」をめぐる巨大な外交破綻のドラマがありました。

 

 

今回は、単なる「いじめ」や「怨恨」では片付けられない、信長が光秀を冷遇した本当の理由と、本能寺の変へと繋がる引き金となった「四国政策」の闇に迫ります。

 

 

 

実は「義理のいとこ」だった信長と光秀の絆

歴史の教科書では、あくまで信長は主君と有能な家臣・明智光秀として描かれる織田信長と明智光秀。

 

 

 

しかし近年の研究において、二人の関係性を根本から覆すドラマチックな説が注目を集めています。

 

 

それが、光秀は信長の正室である帰蝶=濃姫の「いとこ」だったということです。

    ▲織田信長と明智光秀は義理の従兄弟同士

 

 

もしこの説が事実であれば、光秀は信長にとって単なる部下ではなく、義理の従兄弟、つまり「身内」のポジションにいたことになります。

 

 

この意外すぎる血縁関係こそが、二人の運命を信じられない形で狂わせていくことになるのです。

 

 

 

帰蝶の血縁として織田家に入った光秀

明智光秀の前半生は謎に包まれていますが、一介の浪人だった彼がなぜ信長という稀代の天才に見出され、異例のスピード出世を遂げられたのか。その最大の謎を解く鍵が、まさに帰蝶の存在でした。

 

 

美濃(現・岐阜県)の斎藤道三と正室・小見の方の娘である帰蝶と、いとこの美濃の熱い血を引く光秀。

 

 

光秀が「妻のいとこ」という確かな身分とバックボーンを持っていたからこそ、信長も当初は彼を高く評価し、織田家の重要ポストへと迎え入れたと考えられます。

 

 

光秀の華麗なるキャリアは、この濃密な血縁の絆からスタートしていたのです。

 

 

 

身内だからこそ信長が抱いた狂気の猜疑心

しかし、戦国時代における「身内」という言葉は、決して温かい意味だけを持ちませんでした。

 

 

特に信長にとって、血縁や親戚ほど「最も信用できない裏切り者」だった、信長は若い頃、実の弟である織田信勝に二度も命を狙われ、最終的に自らの手で暗殺した壮絶な過去を持っています。

 

 

さらに、最愛の妹を嫁がせた義理の弟・浅井長政からも容赦ない裏切りに遭いました。

 

 

「身内であっても、隙を見せれば後ろから刺される」――この狂気的なまでのトラウマを抱えていた信長にとって、帰蝶のいとこであり、なおかつ美濃や四国に独自のネットワークを広げ始めた光秀の存在は、次第に「有能で身内だからこそ、最も不気味で恐ろしい存在」へと変わっていったのです。

 

 

この歪んだ猜疑心こそが、光秀を絶望の冷遇へと追い詰める引き金となりました。

 

 

 

信長が光秀を「冷遇」した3つの残酷な現実

妻のいとこであり、織田家の誰よりも目覚ましい成果を上げていた明智光秀ですが、客観的に見れば、もっと優遇されてしかるべき男でした。

 

 

しかし、織田信長という男の評価基準は、およそ常人の計り知れないところにあり、身内でもある光秀に対してあれほどまでに冷酷に当たることができたのか。

 

 

そこには、信長という天才が抱えていた、3つの残酷な現実がありました。

 

 

 

理由①:実の弟すら手にかけた「身内トラウマ」

信長にとって「親戚」や「身内」という言葉は、温かい家族の絆を意味するものではありませんでした。

 

 

むしろ、信長の人生において最も凄惨な裏切りを働いてきたのは、他ならぬ血の繋がった身内たちだったからで、清洲城の織田信友(主君の守護・斯波義統を殺害したため成敗)、岩倉城の織田一族の織田信安・信賢父子を排除、信長の従兄弟だった犬山城の織田信清領土を巡って美濃の斉藤氏と手を組んだため排除。

 

 

若き日の信長は、実の弟である織田信勝に家督を狙われ、二度も謀反を起こされた末に、自らの手で弟を暗殺するという地獄を経験しています。

 

 

さらに、最愛の妹であるお市の方を嫁がせ、固い絆を結んだはずの義弟・浅井長政からも背後から牙をむかれ、絶体絶命の窮地に追い込まれました。

 

 

「身内だからこそ、絶対に油断してはならない」――。
この血塗られたトラウマが、信長の心に深く刻まれていました。

 

 

光秀が帰蝶のいとこであるという事実は、信長にとって優遇する理由になるどころか、むしろ「最も警戒すべき身内」として網膜に焼き付く原因になってしまったのです。

 

 

 

理由②:家柄も血縁も関係ない「成果主義」

もう一つの現実は、信長が日本の歴史上でも群を抜く「徹底した能力主義・成果主義者」だったという点です。

 

 

信長の世界では、過去の功績や家柄、血縁の深さなどは1ミリの免罪符にもなりませんでした。

 

 

その象徴が、光秀の目の前で行われた織田家最高幹部たちの容赦なき「リストラ」です。

 

 

織田家を何十年も支え続けた筆頭家老の佐久間信盛は、本願寺攻めで十分な成果を上げられなかったことを理由に、突然19条にわたる説教状を突きつけられて高野山へ追放されました。

 

 

さらに、かつての重臣である林秀貞も、20年以上前の古い反逆罪を今さら蒸し返されて一瞬で追放されています。

どれだけ尽くしても、一瞬の失敗や停滞で全てを奪われる。

 

 

この狂気的な成果主義のなかで、四国の長宗我部との外交工作に行き詰まりつつあった光秀が、「次は俺の番だ……」と背筋に凍りつくような恐怖を覚えたのは当然の結末でした。

 

 

 

理由③:美濃と四国を繋ぐ「巨大ネットワーク」への恐怖

最後の理由は、光秀という男が「力を持ちすぎてしまった」ことにあります。

 

 

光秀は単に優秀な前線指揮官であるだけでなく、高度な教養と人脈を駆使する超一流の外交官でもありました。

 

 

光秀の背後には、故郷である美濃(現・岐阜県)の国人たちのネットワークがあり、さらに彼の右腕である斎藤利三を介して、四国をまたたく間に統一せんとする長宗我部元親とも深い血縁で結ばれていました。

 

 

つまり、光秀を中心として、美濃から四国へと繋がる信長のコントロールの利かない「巨大な裏ネットワーク」が形成されつつあったのです。

 

 

ワンマン経営者である信長にとって、部下が自分を飛び越えて巨大な派閥を形成することは、最も許しがたい脅威でした。

 

 

「これ以上、光秀に独自の勢力を持たせては危険だ」と感じた信長は。

 

 

 

光秀の手足をそぎ落とすかのように、彼の外交ルートを強引に遮断し、徹底的な冷遇へと舵を切ったのです。

 

 

光秀の面子を粉砕した、信長の「四国政策」

明智光秀を最終的な破滅、そして「本能寺の変」という狂気の決断へと向かわせた決定的な引き金となったのは、織田信長による突然の「四国政策の方針転換」だと思います。

 

 

それまで光秀が心血を注いできた一大外交プロジェクトを、信長は前触れもなく、文字通り根底から覆したのです。

 

 

この横暴とも言える方針転換の裏には、光秀の家臣団を巻き込んだ深い人間模様がありました。

 

 

 

右腕・斎藤利三と、四国の覇者・長宗我部元親の血縁

光秀が四国の覇者である長宗我部元親の「取次(窓口担当)」を任されていたのは、単に信長に命じられたからではありません。

 

 

実は、光秀のトップ重臣であり、右腕でもある斎藤利三を介した「濃い親戚関係」がベースにありました。

 

 

元親の正室は斎藤利三の妹(または異父姉)であり、二人は義理の兄弟にあたります。

 

 

さらに、斉藤利三の兄の娘が長宗我部元親の長男・長宗我部信親に嫁いでいるなど、明智家と長宗我部家は一蓮托生とも言える強い血縁で結ばれていたのです。

 

 

光秀と利三は、この絆を最大限に活かして織田家と長宗我部家の橋渡しをしました。

 

 

長宗我部元親の長男が信長から「信」の字を賜り「信親」と名乗ったのも、光秀たちが信長に一生懸命アプローチし、勝ち取った信頼の証でした。

 

 

光秀にとって四国外交の成功は、明智家の地位を不動にするための「命綱」だったのですが信長の一言によってひっくり返ってしまう。

 

 

 

斉藤利光という武将は

斎藤利三は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で明智光秀の家臣。

徳川時代に権勢を振るった春日局の父。

 

 

出自は、血統的には斎藤道三とは別の系譜で、本来の美濃・斎藤氏の一族(ただし家系には諸説あって判然としない。)

 

 

祖父は斎藤右兵衛尉某、父は斎藤伊豆守某(『寛永諸家系図伝』)、母は蜷川親順(室町幕府の重臣蜷川氏)の娘である。

 

 

親順の孫となる蜷川親長の妻は、利三の姉妹であり、系譜上の錯誤の可能性がある。

 

 

徳川実紀には、「斎藤利三は明智光秀の妹の子」と書かれているが、後世に編纂されたもので、根拠は不明。

 

 

斎藤利三と明智光秀の年齢差を考えると、妹ではなく姉だとする説もある。

 

 

史料として光秀の妹と記されているのは、光秀の正室(妻木氏)の姉妹である。

 

 

その母は、石谷光政に再嫁し、娘(長宗我部元親正室)をもうけた。

 

 

前室は斎藤道三の娘であったというが、史料的な裏付けはない、後室は稲葉家の娘で、斎藤利宗、斎藤三存、それに末娘の福=春日局らを産んだ。

 

 

福=春日局は稲葉重通(稲葉一鉄の子)の養女となり、江戸幕府の第3代将軍徳川家光の乳母となり権勢を誇った。

 

 

 

約束をゴミ箱へ――信長が放った絶望の通告

ところが天正10年(1582年)の初頭、信長は突然、この良好な関係を自ら破り捨てます。

 

 

それまで元親に対して「四国は切り取り次第(武力で切り開いた分だけ領土にして良い)」と認めていた朱印状の約束を完全に反故にし、「土佐(高知県)一国のみを残し、他の領地はすべて織田に返上せよ」という残酷な命令を突きつけたのです。

 

 

これさえなければ本能寺の変は起こらなかったかもしれません。

 

 

驚いた長宗我部元親が抵抗の意思を示すと、信長は一切の妥協を排し、三男の織田信孝を総大将とする「四国征伐軍」の編成を急ピッチで開始します。

 

 

これは、長宗我部家にとっての絶望であると同時に、仲介者である光秀の面子を完全に粉砕するものでした。

 

 

相手を信じ込ませ、織田家に尽くさせておきながら、都合が悪くなれば約束をゴミ箱にポイ捨てする――。

 

 

信長のあまりに理不尽な変心は、光秀を強烈な屈辱と当惑の渦に突き落としました。

 

 

 

窓口を外された光秀が予感した「明智家滅亡」の未来

この方針転換によって、光希は四国外交の窓口(取次)から完全に干されてしまいました。

 

 

長宗我部元親が必死の思いで明智光秀の重臣・斎藤利三に宛てた、領地返上をめぐる妥協案の書状(石谷家文書)が残されていますが、この時点で光秀には、もはやそれを信長に取り次ぐだけの力すら残されていませんでした。

 

 

信長は四国攻めの総大将に実の息子・織田信孝※1▲を据え、光秀を完全に蚊帳の外に置いたのです。

これは単なる「担当落ち」ではありませんでした。

▲※1.織田信孝とは、信長の三男は「四国攻め(長宗我部元親討伐)」の総司令官として、大坂に約1万4,000人の軍勢を集結させていました。

この軍勢は、信長の命代(名代)として四国へ渡海する直前のものでした。
主な部隊と武将の構成は、総大将:織田信孝(織田信長の三男)主な構成部隊は丹羽長秀・若狭衆(主力として信孝を補佐)津田信澄・近江衆(明智光秀の娘婿)三好康長・河内衆・阿波衆蜂屋頼隆・和泉衆北伊勢衆、甲賀衆、伊賀衆、紀伊衆、丹波衆など補足:本能寺の変後の動き6月2日の本能寺の変直後は、主君を失ったことで軍の3分の2以上が一時逃散(とうさん)するなど大きく瓦解しました。

その後、光秀の女婿であった津田信澄を信孝と長秀が殺害する事件がありました。

 

当時の織田家において、外交の失敗や役割の喪失は、そのまま「無能の烙印」を押され、一族もろとも追放・没落させられることを意味していました。

 

 

佐久間信盛や林秀貞といった重臣たちが、成果を出せなくなった途端に容赦なく使い捨てられた光景が、光秀の脳裏をよぎったはずです。

 

 

「長宗我部が攻め滅ぼされれば、その親戚である右腕の斉藤利三もタダでは済まない。

 

 

そして、四国をコントロールできなかった自分と明智一族も、次は主君・信長様に消される……」

 

 

居場所を失い、未来の破滅を明確に予感した光秀は絶望をみた、光秀に残された最後の選択肢は、四国征伐軍が四国へ向けて出陣する直前、すべての先手を打って、京都・本能寺に宿泊する主君を急襲することだけだったのです。

 

 

 

まとめ

親戚という「甘え」を許さなかった戦国の終わり、史実は明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」。

 

 

その真相は、突発的な怨恨でも、誰かが裏で操った陰謀でもなく、複雑に絡み合った人間関係と、組織のなかで生きる男の「孤独な絶望」にあったと思います。

 

 

光秀が信長の妻・帰蝶のいとこであったという事実は、現代の感覚からすれば「最強のコネ」であり、組織での安全を保障するはずのものでした。

 

 

しかし、実の弟や信頼してた織田一族や義弟に裏切られ続けた信長にとって、その血縁はむしろ「最も警戒すべき刃」でしかなかったのです。

 

 

そこに、光秀の右腕である斎藤利三、そして四国の長宗我部元親を巻き込んだ外交の破綻が重なり、光秀の立場は一瞬にして崩壊しました。

 

 

どれだけ誠実に働き、どれだけ大きな成果を上げて組織に貢献してきたとしても、トップの気まぐれや方針転換ひとつで、昨日までの努力がすべて「ゼロ」になる。

 

 

それどころか、用済みになれば容赦なく切り捨てられ、自分だけでなく家族や部下の未来までをも奪い去られる――。

 

 

この光秀が味わった深い絶望と孤独は、決して遠い戦国時代の絵空事ではありません。

 

 

現代を生きる私たち組織人、とりわけ上司と部下の板挟みにあう中間管理職が抱える悲哀や恐怖と、驚くほど重なり合うのです。

 

 

親戚という名の「甘え」を1ミリも許さず、ひたすら冷徹な成果主義を突き進んだ信長。

そして、迫りくる「クビ(滅亡)」の恐怖に怯え、ついに限界を迎えて刃を抜いた光秀。

 

 

本能寺の変とは、時代の転換期に生きた二人の天才が、あまりにも過酷な組織の論理によって引き起こした、必然の悲劇だったのかもしれません。

 

 

 

-本能寺の変がなぜ

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。