武田信玄の「隠し湯」
なぜ信玄は温泉をこよなく愛したか?
信玄は晩年、胃がんや結核、あるいは寄生虫病(日本住血吸虫症)だったという説がありますが、信玄はは自分の体を守るために、特に「内臓疾患」や「不治の病」に効くとされた名湯を頼りにしたんだと私・隆太郎は思います。
信玄が健康体だったら歴史は変わっていたかも。
戦国最強の騎馬軍団を率い、織田信長や徳川家康を震え上がらせた甲斐の虎・武田信玄。
そんな彼が、領内の温泉を「隠し湯」として厳重に管理していたことは有名です。
なぜ、信玄は、これほどまでに温泉を愛したのでしょうか?
一般的には「将兵の負傷を癒やすため(軍事利用)」と語られがちですが、私・隆太郎はもう一つの大きな理由があったと考えます。
それは「信玄自身の晩年の病との闘い」です。
信玄の父・武田信虎の正室・大井夫人(または大井の方)の十三回忌法要をした際、東美濃の岩村城遠山氏の菩提寺の大圓寺の住職・希菴和尚が招ねいた。
その時、信玄の病気の事を知られ、再度、甲斐の武田家に来て当家の住職になるように要請したものの希菴和尚は巖と断ったとされています。
そのため、西上作戦の折、別働隊の秋山虎繁を大将にする岩村城包囲作戦で、当時女城主だった信長の年下の叔母・おつやの方を攻めて開城させ希菴和尚を飯羽城の近くで殺害して口封じをしてしまいます。
隆太郎は、そのように推測します。
※上記の希菴和尚をクリックして頂くと、行ってない証拠の新聞があります。興味ある方はご覧になってください。
※上記のおつやの方をクリックして頂くと、行ってない証拠の新聞があります。興味ある方はご覧になってください。
信玄の病名は、確信はないけど胃がん、結核、あるいは甲斐地方を苦しめた寄生虫病(日本住血吸虫症)……かも。
迫りくる命の期限を前に、信玄は自分の体を守るため、特に「内臓疾患」や「不治の病」に効くとされた名湯を頼りにしたのではないでしょうか。
天下の夢を諦めなかった信玄の執念と、命を託した「隠し湯」の謎に迫ります。
信玄が温泉を愛した理由:軍事と「病魔」
武田信玄が領内の温泉を「隠し湯」として厳重に管理していたことは、歴史ファンの間ではよく知られた事実です。
一般的に温泉といえば、現代の私たちにとってはリラクゼーションや観光の場所だと思います。
しかし、戦国乱世を生きぬく信玄にとっての温泉は、それ以上の重い意味を持っていたと考えられます。
そこまで温泉に執着した背景には、最強と言われた武田軍を維持するための「軍事戦略」の一環。
そして晩年の彼を苦しめ続けた「病魔との凄絶な闘い」という、表と裏の2つの大きな理由があったはずです。
戦国最強を支えた「回復施設」
まず表の理由として挙げられるのが、軍事的な利活用です。
信玄率いる武田の騎馬軍団は戦国最強と恐れられていましたが、激しい戦闘の裏には常に多くの負傷兵がいました。
刀で斬られ、槍で突かれ、あるいは鉄砲で撃たれた傷は、当時の未熟な医療技術では命取りになります。
そこで信玄が目をつけたのが、領内に湧き出る豊かな温泉でした。
信玄は温泉を、傷ついた将兵の体力を速やかに回復させ、再び戦線へと復帰させるための「軍事的なリハビリ施設」として位置づけたのです。
他国にその場所や効能を知られて悪用されないよう、厳重に場所を秘匿したことから「隠し湯」と呼ばれるようになりました。
いわば、武田軍の強さを裏から支えた秘密兵器だったと言えます。
【隆太郎の視点】は、信玄を襲った「不治の病」
信玄が温泉を求めた理由は、本当に将兵のためだけだったのでしょうか。
私・隆太郎は、そこにもう一つの、より切実な動機が隠されていたと考えています。
それこそが「信玄自身の晩年の病との闘い」です。
信玄の勝因や軍略は華々しく語られますが、その一方で彼の晩年は、常に這い寄る病魔との闘いでもありました。
歴史研究の世界では、信玄の死因について胃がんや結核、あるいは甲斐の国(現・山梨県)を長年苦しめた奇病である寄生虫病(日本住血吸虫症)など、さまざまな説が唱えられています。
いずれにせよ、当時の医学では治すことのできない「不治の病」が、彼の身体を確実に蝕んでいました。
天下への野望を抱きながらも、刻一刻と迫る命の期限。
そんな極限状態の中で、信玄は自身の身体を守り、少しでも長く生きながらえるために、内臓疾患や不治の病に高い効能があるとされた名湯を必死に頼ったのではないでしょうか。
温泉に浸かる信玄の背中に漂っていたのは、大将としての余裕ではなく、病魔に抗い、なんとしても天下へ辿り着こうとする一人の人間の「執念」だったに違いないと思います。
命の期限…信玄が頼った3つの隠し湯
迫りくる病魔の影に怯えることなく、むしろそれに抗うようにして信玄が頼った温泉が、領内にはいくつか残されています。
それらは単に怪我を治すためだけでなく、内臓の不調や身体の衰えといった「内なる病」を癒やすための特別な薬湯でした。
信玄が自らの命を託し、時にその存在を隠蔽してまで守り抜こうとした、3つの代表的な隠し湯を見ていきましょう。
① 毒沢鉱泉(長野):胃腸の湯
ここの温泉名は信玄が名前の偽装したと伝えられています。
戦国時代、武田信玄が金鉱採掘の際に傷病兵の治療に利用し、その凄まじい効果を外敵に知られないよう、人を寄せ付けないためにあえて「毒沢」と名付けたとされています。
▲毒沢鉱泉の付近
また、もう一つの説は温泉成分が強すぎて「沢の魚がすべて死んでしまった」ことから名付けられたという説もあります。
胃腸の湯としての実力と泉質
強力な酸性泉です。
泉質は酸性-アルミニウム・硫酸塩冷鉱泉(pH2.5)で、レモンを搾ったような強い酸味と鉄の味がします。
飲泉の許可は昭和12年には自然湧出鉱泉として売薬許可を受けるほど効能が認められており、特に胃腸病(慢性消化器病)や貧血に高い効果があります。
湧き出る源泉(約10℃)は無色透明ですが、加温すると鉄分が酸化して鮮やかな黄土色・橙色に変化します。
毒沢鉱泉を楽しめる名宿
現在、毒沢鉱泉の源泉を引いているのは主に以下の宿です。
どちらも極冷の源泉(水風呂)と加温浴槽を交互に行き来する「交互浴」が人気を集めています。
毒沢鉱泉 神乃湯:日本秘湯を守る会会員。浴室内に高濃度の飲泉場が設けられています。
毒沢鉱泉の宮乃湯:大正12年創業の歴史ある湯治宿で、バリアフリーにも対応しています。
ご紹介したいのが、現在の長野県下諏訪町にひっそりと佇む「毒沢鉱泉」です。
信玄が信濃へ進出し、金山の採掘を行っている最中に発見したと伝わる温泉ですが、何より強烈なのはその名前です。
「毒」という文字が含まれており、一見するとおぞましい場所のように思えますが、これこそが信玄の張り巡らせた高度な情報戦の痕跡でした。
実はこの温泉、胃腸病に劇的な効能を持つきわめて優秀な薬湯です。
晩年、胃の不調(胃がん説など)に苦しんでいたとされる信玄にとって、この湯は喉から手が出るほど欲しい「神の湯」でしょう。
だからこそ、その凄まじい薬効を他国に知られて奪われないよう、あえて「毒の沢」という恐ろしい名前をつけて一般人を遠ざけ、隠蔽したと言われています。
名前とは裏腹に、信玄の弱った内臓を優しく労った、究極の隠し湯なのです。
② 増富温泉(山梨):信玄が確信したラジウムの力
山梨県北杜市にある「増富温泉」です。
山梨県の増富温泉は、武田信玄が金山開発の際に発見したとされる「信玄の隠し湯」です。

▲画像はイメージです
日本有数のラジウム含有量を誇り、その治癒力の高さから古くから傷病兵や湯治客に愛されてきました。
信玄が確信したラジウムの力と歴史
この温泉の発見の由来は、戦国時代、武田信玄が金山(黒森金山など)の採掘中に発見したとされています。
信玄は、過酷な環境下で働く鉱山労働者や戦で負傷した兵士をこの湯で療養させ、その高い効能を軍略にも活用したと伝えられています。
世界屈指のラジウム泉です。
1リットル中に12,300マッヘという驚異的なラジウム含有量が記録されたこともあり、日本を代表する放射能泉(ラジウム泉)の一つとして知られています。
増富温泉の魅力と入浴法
驚異の「ぬる湯」です。
源泉温度は30℃前後と非常にぬるいのが特徴でラジウム泉は体が芯から温まりやすいため、15分から30分ほど長めに時間をかけてゆっくり浸かるのが伝統的な入浴法とされています。
免疫力を高める効果は、微量の放射線(ラドンガス)を吸入したり肌から吸収したりすることで、全身の細胞が活性化され自然治癒力が高まると言われています(ホルミシス効果)。
神経痛や関節痛、冷え性などに優れた効果が期待されています。
アクセス・周辺情報
所在地 ; 山梨県北杜市須玉町比志(金峰山や瑞牆山の麓に位置する静かな渓谷沿いにあります)。
アクセス; JR中央本線「韮崎駅」または「増穂駅」から車・バスでのアクセスが一般的です。
金山採掘の歴史と結びついた、武田信玄ゆかりの神秘的なラジウム温泉。
詳細な宿泊プランや日帰り入浴の情報は、北杜市観光協会 公式サイト などの公式観光情報で確認できます。
ここもまた、信玄が手がけた金山開発の歴史と深く結びついています。
過酷な環境で働く金山衆(鉱夫たち)の健康管理のために重用された温泉ですが、信玄自身もまた、この湯の持つ不思議な力に気付いていました。
現代の科学分析により、増富温泉は世界屈指の「ラジウム含有量」を誇る温泉であることが分かっています。
微量の放射線が身体の細胞を刺激し、免疫力を高めて内臓疾患や慢性病を和らげる効果(ホルミシス効果)があるのです。
もちろん、戦国時代に「ラジウム」という言葉も科学的根拠もありませんから、信玄は自身の身体で浸かり、あるいは兵たちの回復具合を見る中で、経験的に「この湯には命を繋ぎ留める特別な生命力がある」と確信していたはずです。
病に侵され、衰えていく身体に活力を取り戻すため、信玄はこの山の秘湯を深く愛しましたと考えらます。
③ 下部温泉(山梨):死の間際まで求めた慈愛の湯
最後に山梨県の下部温泉は、武田信玄が川中島の戦いで負った刀傷を癒やした「隠し湯」として名高い名湯です。
▲下部温泉の風景
神経痛や外傷に特効があるとされ、古くから多くの人々の心身を救ってきたことから「慈愛の湯」として愛され続けています。
下部温泉の基本情報
下部川沿いに広がる静かな温泉地で、都心からのアクセスも良く、日帰り入浴から湯治まで幅広いスタイルで楽しめます。
主な効能は、神経痛、外傷、疲労回復、冷え性
泉質は、単純温泉(アルカリ性単純温泉など)
▲イメージ
湯巡りにおすすめのスポット
エリア内には、昔ながらの風情を残す湯治宿や、充実した施設を備えた日帰り温泉があります。
古湯坊 源泉館は、ぬるめの源泉足元湧出湯が有名で、歴史ある湯治の雰囲気を深く体感できる温泉旅館です。
しもべの湯 (ヘルシースパサンロード)は、多彩な浴槽やサウナを備え、気軽に立ち寄れる大きな日帰り温泉施設です。
下部ホテルは、広々とした露天風呂や足湯があり、ファミリー層や観光客に人気の高い温泉ホテルです。
最新の宿泊プランやアクセス情報などの詳細については
▲下部温泉公式ホームページ https://shimobeonsen.jp/▲をご覧になってください。
ここの下部温泉はといえば、川中島の戦いで上杉謙信に斬られた信玄の肩の傷が「わずか10日足らずで完治した」という凄まじい伝承が有名です。
その効果に感動した信玄は、現地の宿に税金を免除する特権を与えて手厚く保護しました。
しかし、この温泉の真価は刀傷の治療だけにとどまりません。
下部の湯は、じっくりと体力を回復させる「ぬる湯」が最大の特徴です。
信玄の晩年、病状が悪化して激しい痛みを伴うようになると、高熱の湯に浸かることはかえって身体の負担になります。
体温に近いぬるめの湯に、何時間も、何日もじっくりと浸かることで、病に痛む身体を芯から癒やし、極限の緊張状態にある心を解きほぐしていったのでしょう。
信玄が命を引き取るその間際まで、すがるように求めた優しく慈愛に満ちた名湯、それが下部温泉だったのです。
温泉を「隠す」必要があった理由
信玄がこれほどまでに温泉の存在を秘匿し、「隠し湯」としたのはなぜでしょうか。
単に「良い温泉を独り占めしたかった」ということは、一歩間違えれば武田家が滅亡しかねないほどの、凄絶な情報戦が繰り広げられていたのです。
「総大将の病」という国家機密
戦国時代において、軍主(総大将)の健康状態は、現代の私たちが想像する以上に重い意味を持っていました。
いわば、一国の運命を左右する最大の「国家機密」だったのです。
もしも「武田信玄が重病で長くない」という噂が近隣の織田信長や徳川家康、あるいは宿敵・上杉謙信に漏れてしまえば、敵国は一斉に武田領内へと攻め込んできたでしょう。
さらに、武田家を支える家臣団や国人たちの間にも動揺が走り、謀反や裏切りを引き起こす引き金になりかねません。
信玄が「内臓疾患を癒やすために温泉に通っている」という事実そのものが、敵にとっては絶好の攻撃材料になってしまう。
だからこそ、信玄は自分がどの温泉で、何の病を治療しているのかを、絶対に他国に知られるわけにはいかなかったのです。
敵の目を欺いた武田の戦略
そこで信玄が実践したのが、温泉地そのものを徹底的に隠して、敵の目を欺く情報戦略でした。
信玄は、自身が赴く温泉の周囲に厳しい警戒網を敷き、一般人の立ち入りを完全に禁止しました。
先述した「毒沢鉱泉」のように、あえて恐ろしい偽名をつけて噂を流すのもその一環です。
さらに、温泉に向かう道路を複数用意したり、隠密(忍者)を使って周囲に「信玄公は健在で、別の場所で軍議を開いている」という虚偽の情報を流させたりしたとも言われています。
温泉で病魔と闘い、命を繋ぎ止めるその瞬間でさえも、信玄の頭脳は敵をいかに騙すかという軍略をめぐらせていた。
隠し湯の静かな湯船の周りでは、武田家の存亡をかけた、もう一つの見えない戦争が戦われていたのです。
まとめ:湯船の中で信玄が見た夢
武田信玄が並々ならぬ執念で守り、そして自らの命を託した「隠し湯」の数々。
それは単なる将兵の治療場ではなく、迫りくる病魔の影を隠し、迫りくる命の期限と戦い続けた、信玄という一人の人間の凄絶な戦いでもありました。
胃がんや結核、あるいは寄生虫病といった不治の病に身体を蝕まれ、激痛に耐えながら、信玄は隠し湯の湯船の中で一体何を考えていたのでしょうか。
きっと信玄は、病に屈することなど微塵も考えていなかったはずです。
湯気の向こうに見据えていたのは、宿敵・上杉謙信との決着であり、織田信長を打倒し、京都へ上洛して「天下」を統一するという、武将としての究極の夢だったに違いありません。
温泉の力を借りて少しでも命を繋ぎ、あと一日、あと一月、身体が動いてくれれば……と願いながら戦場に出向いていた武田信玄。
そんな血の滲むような執念があったからこそ、信玄は最晩年、病を隠したまま、徳川家康を圧倒した「西上作戦」へと出陣することができたのです。
現代の私たちが信玄の隠し湯を訪れ、その豊かなお湯に浸かるとき、ただの癒やし以上の、歴史の重みと人間の執念の凄みを感じずにはいられません。
皆さんもぜひ、かつて甲斐の虎が命を燃やした名湯に足を運び、戦国乱世の夢に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
(著者:隆太郎)
信玄の「病魔との闘い」という運命、男・信玄これからという時、元亀4年4月12日(1573年5月13)、徳川家康との三方ヶ原の戦いに勝利したのち、上洛の途中で病に倒れ、信濃国(現在の長野県)の駒場にて没したとされています。
数え年53歳(満51歳)。