「信長を怒らせて引きこもり(蟄居)を命じられたはずの秀吉が、松永久秀を攻め、なぜ、すぐに大抜擢されて播磨へ行ったのか?」 結論から言うと、「必死のパフォーマンスで許してもらい、ちょうどそのタイミングで大物裏切り者の討伐と、毛利への対抗という大仕事が重なったから」です。
このドラマチックな経緯を、秀長とのコンビネーションも含めて分かりやすく解説しますね!
敵前逃亡で織田信長の逆鱗に触れ、長浜城で蟄居(謹慎)を命じられた羽柴秀吉。
誰もが「秀吉の出世は終わった」と思ったその直後、なぜか秀吉は織田家最大規模のプロジェクトである「播磨(中国)攻め」の総大将に大抜擢されます。
信長の怒りはどうやって解けたのか? なぜ西国への道を任されたのか?
その裏には、秀吉の命がけのパフォーマンスと、絶妙なタイミングで起きた大事件がありました。
さらに、この大抜擢に応えるべく、弟・羽柴秀長は難攻不落と言われた「竹田城」へと出陣します。
クビ寸前の大ピンチを最大のチャンスに変え、天下への足がかりを築いた羽柴兄弟の大逆転劇の全貌に迫ります!
なぜ播磨攻めなのに竹田城を攻めたのか?
なぜ播磨攻めで竹田城を狙って攻めたのか?
竹田城があるのは播磨国(現・兵庫県南部)ではなく、その北隣の但馬国(現・兵庫県北部)です。
「播磨攻めなのに、なんで隣の国まで攻めてるの?」と思いますよね。
地図をイメージすると分かりやすいのですが、竹田城は播磨と但馬の国境のすぐ近くにあります。

▲イメージです。
当時、秀吉が播磨で毛利軍と戦おうとした際、「もし背後の但馬(毛利派の勢力)から不意打ちされたら挟み撃ちになって全滅する」という戦局がみえた。
そこで秀吉は、播磨の本隊とは別に、弟の秀長に別働隊を預けます。
「小一郎(秀長)、お前は但馬へ行って、背後の憂いを完全に断ってこい!」
こうして天正5年(1577年)11月、秀長率いる数千の軍勢が竹田城へ向けて進撃したのです。
竹田城はどれくらい「難攻不落」だったのか?
当時の竹田城(城主:太田垣輝延)は、現代のような立派な石垣の城(それはのちに大改修された姿)ではなく、山肌を削り、土塁や木造の柵を張り巡らせた典型的な中世の山城でした。
しかし、その険しさは一級品で、標高約353メートルの古城山の山頂に位置しています。
周囲は切り立った崖に囲まれて一本道しかなく、下から攻め上る兵は上から狙い撃ちにされる

▲画像「天空の武田城」はイメージです
普通に正面から力攻めをしたら、数ヶ月単位の長期戦になり、攻め手が何百人も血の海に沈むような、まさに「難攻不落」の天然の要塞でした。
秀長はどうやって落としたのか?電撃作戦の裏側
この難攻不落のはずの城を、秀長はわずか数日(一説には2日足らず)で陥落させてしまいます。
なぜそんなことが可能だったのでしょうか?
① 周辺の支城を先に潰す
秀長は、いきなり主の竹田城を襲いません、まずは竹田城の周りにある小さな砦や支城を、圧倒的なスピードで次々と調略(降伏勧告)したり、また力攻めで潰したりしていきました。
これにより、竹田城は完全に孤立し、「誰も助けに来てくれない」という精神的絶望に追い込まれます。
② 夜襲と精神的揺さぶりを実行
秀長は、険しい山道を物ともせず、夜陰に紛れて竹田城の周囲を完全に包囲。
夜中に一斉に鬨(とき)の声をあげさせたり、火を放ったりして、「織田の大軍に完全に囲まれた!もう逃げられない!」と城兵をパニックに陥れました。
③ 調略が決め手だった?
当時の城主・太田垣氏は、毛利家と織田家の板挟みになって激しく揺れていました。
秀長は得意の「交渉力」を使い、城内に内通者を作ったか、あるいは「これ以上抵抗しても無駄死にするだけ、 降伏すれば命は救う」と巧みに揺さぶりをかけたとされています。
結果、激しい戦闘で血が流れる前に、城主の太田垣輝延は城を捨てて敗走。
竹田城はあっけなく羽柴軍の手に落ちました。
占領後のドラマ:竹田城初代城主・羽柴秀長
城を落としたあと、秀吉はこの超重要拠点である竹田城の守備を、そのまま弟の秀長に任せます。
秀長はここを拠点に、但馬の国人(地元の武士たち)を次々と味方に引き入れ、見事に但馬国を平定。
秀吉が播磨で安心して戦える環境を完璧に作り上げました。
実は、秀長が竹田城主だったこの時期に、地元の生野銀山の管理も任され、銀山から出る莫大な富が、その後の秀吉の中国攻めの資金源(兵糧を大量に買い占めるなど)になりました。
秀長が竹田城をスピード攻略したからこそ、秀吉のマネー戦術も成立したわけです。
この但馬・竹田城の電撃攻略と、背後の安全&銀山の確保をすべて1人でやってのけた秀長というエピソードがあります。
なぜ秀吉は職場放棄したのか?北陸事件の真相
軍神・上杉謙信の脅威と、柴田勝家との意見対立
信長に無断で戦線離脱して、長浜城での蟄居(謹慎)を申しつけられます。
なぜ秀吉は職場放棄したのか?
軍神・上杉謙信の脅威と、柴田勝家との意見対立
天正5年(1577年)、織田家は未曾有の危機に直面していて、軍神の異名を持つ最強の武将・上杉謙信が、織田領へと狙いを定めて進軍してきたのです。
※.上記の上杉謙信をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方は呼んでください。
この脅威に対抗するため、織田信長は北陸方面軍の総大将として柴田勝家を派遣します。
さらに、その援軍として羽柴秀吉を副将にして出陣を命じました。
しかし、秀吉を待っていたのは、総大将・勝家との激しい意見対立、上杉軍の圧倒的な強さを警戒し、慎重に戦うべきだと主張する秀吉に対し、勝家は「一気に叩くべし」と猛攻を崩しません。
作戦会議の場は険悪な空気となり、お互いに一歩も引かない泥沼の口論へと発展してしきます。
信長無断で戦線離脱!長浜城での蟄居(謹慎)処分
勝家のやり方にどうしても納得がいかなかった秀吉は、前代未聞の暴挙に出て、なんと、信長に無断で自分の軍勢を引き連れ、戦線を離脱して居城の長浜城へと帰ってしまったのです。
こともあろうに頑固な勝家と揉めて「じゃあ俺、帰ります!」と職場放棄してしまった。
これを知った信長は激怒、下手をすれば即座に死罪(切腹)を命じられてもおかしくない状況の中、信長から下されたのは「長浜城での蟄居(謹慎)」という厳罰でした。
秀吉が行った狂気の生き残り
秀吉のどんちゃん騒ぎ?「謀反の気なし」を伝える作戦、信長も苦笑い?ひたすら続けたお詫びの手紙と贈り物攻勢でした。
切腹覚悟で秀吉が行った、狂気の生き残りのどんちゃん騒ぎ?
長浜城に閉じ込められた秀吉は、冷や汗を流しながら天才的な「生き残り戦略」を仕掛けます。
普通なら部屋の隅で静かに反省のポーズをとるものですが、秀吉の行動はその真逆で、連日連夜、城内に芸者や太鼓持ちを大量に呼び寄せ、大音量でどんちゃん騒ぎの宴会を開いたのです。
この奇行の目的は、信長への命がけのアピールでした。
「私は信長様に歯向かう気などサラサラありません!ただの愚かで、お酒が大好きなバカな部下です!」という姿をあえて周囲に見せることで、謀反の疑いを完全に打ち消すことに躍起の行動です。
ひたすら続けたお詫びの手紙と贈り物攻勢
秀吉は、京都や安土にいる信長のもとへ、毎日のようにお詫びの書状を送り続けました。
さらに、信長が喜びそうな一級の茶器や高価な贈り物をこれでもかと調達し、ひたすら平謝りの姿勢を示し続けたのです。
この徹底したお詫び攻撃に、さしもの信長も毒気を抜かれていき「あいつは本当にしょうがない奴だな……」と、信長の怒りは徐々に呆れ混じりのものへと変わっていきました。
しかし、復帰のためには決定的な「実務での成果」が必要でした。
復活となった松永久秀の謀反と秀吉の志願
織田家を揺るがした信貴山城の戦い
汚名返上の大チャンス!松永討伐
復活となったのは松永久秀の謀反、織田家を揺るがした信貴山城の戦いです。
秀吉が長浜城で必死で耐えていた時、織田家に衝撃的な知らせが飛び込みます。
それは大和国(現・奈良県)を治めていた大物武将・松永久秀親子が、信長を裏切って信貴山城に立てこもったのです。
ただでさえ北陸の上杉謙信や、石山本願寺との戦いで手一杯だった織田軍にとって、身内のベテランによる謀反は致命傷になりかねない大事件でした。
前線は一気に人手不足に陥り、信長は激しい焦りに包まれます。
汚名返上の大チャンス到来!
「これこそが、天が与えてくれた唯一のチャンスだ!」
長浜城でこの一報を聞いた秀吉は、即座に信長へメッセージを送りました。
「信長様!どうか私に汚名返上の機会をください!この命をかけて、裏切り者の松永を討ち取って見せます!」
喉から手が出るほど戦力が欲しかった信長は、秀吉の謹慎を解除し、前線への復帰を許可します。
待ってましたとばかりに飛び出した秀吉は、すさまじい執念で松永久秀を猛追し見事に信貴山城を陥落させ、謀反を鎮圧してみせたのです。
この一戦の圧倒的な功績によって、秀吉は北陸での大ヘマを完全に帳消しにし、完全復活を遂げました。
信長が秀吉を大抜擢した3つの理由
松永久秀を倒して織田家に復帰した秀吉に、信長はさらに中国地方の覇者・毛利輝元を打倒するための大遠征「中国攻め」であり、その最前線となる「播磨国(現・兵庫県南西部)」への出陣でした。
勝家と揉めて職場放棄したはずの秀吉が、なぜこれほどの重要ポストに抜擢されたのか。そこには信長の冷徹で合理的な人事の理由がありました。
理由①:力攻めより「人たらし」が必要だった毛利前線
播磨国は、無数の小さな豪族(国人衆)が割拠する複雑な地域なので、織田につくか、毛利につくかで日々揺れ動いていました。
ここを力任せに軍事力で踏みつぶそうとすれば、敵を団結させ、毛利の思うツボになってしまいます。
つまり、ここで求められたのは武力ではなく、敵を巧みに味方へと引き入れる「交渉力(調略)」でした。
これこそが、織田家の中で秀吉が右に出る者のいない、最大の武器である「人たらし」のスキルだったのです。
理由②:天才軍師・黒田官兵衛との事前の繋がり
もう一つの大きな要因は、現地の有力者との間にすでに強固なパイプがあった、播磨の小寺家に仕える天才軍師・黒田官兵衛は、早くから織田家の将来性を見抜き、秀吉を通じて信長への臣従を誓っていました。
前線にすでに信頼できる案内役がいるということは、遠征軍にとってこれ以上ない強みだった。
秀吉を派遣すれば、官兵衛との連携によってスムーズに播磨に入国できるという計算が、信長の頭の中にありました。
③:現地調停と兵站の天才・弟・羽柴秀長の存在
信長が秀吉にこの大役を安心して任せられた最大の決定打が、秀吉の弟・羽柴秀長の存在でした。
秀吉が「人たらし」で派手に国人衆を懐柔しても、彼らの細かな不満をなだめ、戦後の領地配分を冷徹に処理し、さらに数万人規模の軍勢の食糧や武器(兵站)を途切れなく送り届ける実務がいなければ、遠征はすぐに破綻します。
この裏方仕事を神レベルでこなせる秀長がセットでいたからこそ、織田家の巨大プロジェクトは成立していました。
勝家とは合わなかった秀吉ですが、「秀長という最高の右腕がいるなら、西国の独立した方面軍の総大将として暴れさせた方が一石二鳥だ」と信長は判断したのです。
まとめ
ピンチを天下への足がかりに変えた秀吉の逆転劇は、柴田勝家との大喧嘩、そして無断戦線離脱という「クビ寸前の大失態」から始まったことです。
秀吉は、プライドを捨てた狂気の行動で信長の怒りを和らげ、松永久秀の謀反というピンチをチャンスに変えて戦線復帰を果たしました。
そして、その後に用意されていた「播磨攻め」への大抜擢。
もし秀吉が北陸で勝家の下につき、地道に戦い続けていたら、一地方の副将のままで終わっていたかもしれません。
このやらかしと大逆転劇があったからこそ、秀吉は織田家の中で「一国を任される方面軍の最高司令官」へと一気としてのぼり詰めることができたのです。
窮地を最大のチャンスに変えた秀吉のバイタリティと、それを影で支え続けた弟・秀長のチームプレイ。
これこそが、のちの豊臣天下人の原点となったのです。