本能寺の変、直後に関東で北条氏と戦い(神流川の敗戦)、命からがら領国へ逃げ帰る途中で会議が終わってしまったためです。
※.織田四天王とは、織田信長を支えた4人の有力な重臣のことです。
一般的には柴田勝家・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀の4人を指しますが、明智光秀の代わりに羽柴秀吉を加える説もあります。
織田信長を支えた「織田四天王」の一人、滝川一益。
しかし、本能寺の変の直後に開催された「清州会議」に、一益の姿はありませんでした。
なぜ、重臣でありながら天下の明暗を分けた重要会議に「遅刻(不参加)」してしまったのか?
その陰に潜む北条軍との激戦、そして会議不参加が招いた哀れな末路までを分かりやすく解説します。
なぜ滝川一益は清州会議に「遅刻」したのか?
織田四天王とまで称された名将・滝川一益が、信長亡き後の織田家の命運を決める「清州会議」に出席できなかった最大の要因は、地理的な不利と北条氏との衝突にありました。
なぜ間に合わなかったのか、その経緯を3つの段階で紐解きます。
信長から与えられた任地「上野国(関東)」が遠すぎた
天正10年(1582年)3月、武田氏を滅ぼした織田信長は、その功績を称えて一益に上野国(現在の群馬県)と関東の取次役(関東管領格)を与えました。
一益は前橋にあたる厩橋城(まやばしじょう)に入り、関東の統治に乗り出します。
しかし、この任地こそが運命の分かれ道となり、本拠地である京都や尾張(愛知県)から遠く離れた関東の地は、情報が届くのにも移動するのにもあまりに時間がかかりすぎる環境だったのです。
6月2日に本能寺の変が勃発した際も、その報が一益の元に届いたのは実に一週間近く経った6月9日頃のことでした。
東国史上最大の野戦「神流川の戦い」での大敗
信長の訃報を知った隣国の後北条氏(北条氏政・氏直)は、関東における織田勢力を一掃する絶好の好機と判断。
すぐさま大軍を率いて一益の領地へ侵攻を開始しまし、一益は上野の国衆(地元の豪族)を率いて迎え撃ち、現在の群馬県と埼玉県境にあたる神流川(かんながわ)で激突します。
これが東国史上最大の野戦とされる「神流川の戦い」です。
初戦こそ鉄砲隊を駆使して北条軍の先鋒を退けた一益でしたが、翌日の本戦では約5万を誇る北条軍の圧倒的な兵力差に押され、大敗を喫してしまいました。
信長の死により動揺していた国衆たちの裏切りや戦線離脱も重なり、一益の陣形は完膚なきまでに崩壊したのです。
伊勢への決死の脱出劇と、間に合わなかった清州会議
敗北を喫した一益に残された道は、敵地に孤立した関東からの撤退でした。
一益は残された城兵や協力してくれた地元の武士たちに温かい言葉と謝礼を渡して解散させると、自らはわずかな供を連れて伊勢国(三重県)の本拠地を目指して脱出を図ります。
北条軍の激しい追撃をかわしながら、信濃国(長野県)を横断して伊勢へと逃げ帰る決死の撤退劇は、一益の見事な手腕を示すものでした。
しかし、命からがら伊勢へ辿り着いた時には、すでに7月に入っていました。
織田家の後継者と領地配分を決める「清州会議」は、天正10年(1582年)6月27日にすでに終了していたのです。
物理的な距離と敵の侵攻というダブルパンチにより、一益は天下の命運を分ける決定的瞬間に「遅刻」せざるを得ませんでした。
清州会議の不参加が一益の運命を狂わせた
清州会議に間に合わなかったという事実は、単に「会議を欠席した」というレベルにとどまらず、滝川一益の政治的生命を根底から揺るがす致命的な痛手となりました。
織田四天王の一角として家中を牽引してきた一益の運命は、この不参加を境に大きく暗転していきます。
秀吉が主導権を握り、織田家中の実権が推移
一益という強力な重臣が不在のまま開かれた清州会議において、主導権を完全に掌握したのが羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)でした。
秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち取った大功を背に、信長の遺児である幼い三法師(織田秀信)を擁立。
筆頭家老である柴田勝家の主張を押し切り、会議の場を圧倒しました。
もし一益が清州会議に出席できていれば、勝家と協力して秀吉の独走にブレーキをかけ、家中での勢力バランスを保てた可能性があります。
しかし一益の不在により勝家は孤立してしまいます。
秀吉主導で信長の後継者と領地再編が決定され、織田家中の実権は秀吉の手に移っていくことになりました。
会議不在によって失った膨大な領地と発言力
清州会議は、信長が残した広大な遺領の再分配を行う場でもありました。
当然ながら、その場にいない一益の権利や立場が優遇されることはありません。
神流川の戦いで失った上野国などの東国領地を取り戻す手立ては失われ、会議の結果として一益に認められたのは、伊勢国(三重県)の一部の領地にとどまりました。
かつて織田四天王として家中最高峰の石高と強大な軍事力を誇っていた一益でしたが、一気に「単なる一地方の領主」へと格下げされてしまったのです。
さらに、家中の重要決定を下すトップ会談に参加できなかったことで、織田家臣団における政治的発言力も完全に喪失。
清州会議の不在は、一益から領地・地位・影響力のすべてを奪い去る結果となりました。
まず、滝川一益という武将は
織田信長に長く仕えた重臣の一人です。
伊勢攻略や長島一向一揆の平定、さらに甲州征伐の功によって上野・信濃の一部を任されるなど、信長政権の拡大を支えた武将として知られます。

▲滝川左近将監一益肖像(栗原信充作)
一方で、本能寺の変の後には、神流川(かんながわ)の戦い※1で敗れ、さらに秀吉との対立や蟹江城攻めの失敗など、晩年は必ずしも順調ではありませんでした。
※1.神流川の戦いとは、天正10年(1582年)6月に武蔵・上野国境の神流川周辺で起きた、織田方の武将・滝川一益と後北条氏(北条氏直・氏邦ら)による関東最大級の野戦です。
本能寺の変で織田信長が討たれた直後、関東の支配権を巡って激突し、北条軍が勝利しました。
この記事では、滝川一益が生きた時代と、その生涯の主な出来事をたどります。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、甲斐武田家の滅亡後は、東国経営を任される人物として描かれます。
滝川一益が生きたのは、織田信長が尾張の一勢力から頭角を現し、畿内、伊勢、甲信、関東へと勢力を広げていった時代でした。
各地で一向一揆や戦国大名との戦いが続き、織田政権の拡大には、前線を担う有力武将たちの存在が欠かせませんでした。
一益は、その中でも比較的早い時期から信長に従った老臣です。
伊勢方面の攻略、長島一向一揆との対決、石山本願寺をめぐる海上戦、そして甲州征伐後の東国経営など、織田政権の重要局面にたびたび関わっています。
ところが、天正10年(1582年)の本能寺の変で状況は一変します。
主の信長の死によって、東国の前線にいた一益は孤立し、その後の織田家の後継争いにも巻き込まれていきました。
滝川一益の生涯は、信長政権の拡大と崩壊、その両方を体現したものと言えます。
滝川一益の生年は大永5年(1525年)〜天正14年(1586年)に没しました。
その生涯を、出来事と共に紐解いていきましょう。
河内出身、鉄砲にすぐれた信長の老臣
滝川一益は大永5年(1525年)、滝川一勝の子として、近江国(現・滋賀県)甲賀郡(河内国)(現・大阪府南東部)出身という説もあり)で生まれました。
左近将監を称しています。
滝川氏は紀氏の一族で河内高安荘司の流れをくむといわれています。
若いころから鉄砲を習っていました。
信長への仕官時期については、父・信秀が斎藤道三攻めのころとする伝承がありますが、少なくとも弘治2年(1556年)から同3年(1557年)頃には、すでに信長の家臣となっています。
かなり早い段階から織田家中で働いていた人物と見ていいでしょう。
織田軍が新しい軍事技術を積極的に取り入れていく中で、一益はその一翼を担った武将でした。
伊勢攻略で頭角を現す
滝川一益の名が大きく表れるのは、伊勢攻略です。
永禄10年(1567年)春には北伊勢攻略にあたり、永禄12年(1569年)伊勢国司・北畠氏との戦いに参加し、大河内城攻撃の功によって北伊勢五郡を与えられました。
さらに、この地域で指出検地を行っており、単なる戦場働きだけでなく、戦後の支配体制づくりにも関わっています。
長島一向一揆との戦い
天正元年(1573年)から天正2年(1574年)にかけての長島一向一揆との対決でも、一益は重要な役割を果たします。
天正元年(1573年)に伊勢国(現・三重県東部)矢田城に入り、翌年7月の一斉攻撃では伊勢長島の要塞を海上から包囲し、多数の門徒農民を殺害。
長島一向一揆は、織田政権にとって手強い相手でした。
一益は、その平定において水上戦を含む作戦の一端を担い、のちに長島城主となっています。
伊勢湾に面した要地を任されたことからも、信長の信任の厚さがうかがえます。
石山本願寺をめぐる海上戦と鉄甲船
滝川一益は、海上戦にも深く関わって、天正6年(1578年)の石山本願寺攻撃に参加し、九鬼嘉隆の6艘に加えて、一益も1艘の鉄甲船を仕立てて、毛利水軍による石山本願寺への兵糧搬入を阻止しました。
東国経営の担当者として関東へ
天正8年(1580年)から同9年(1581年)にかけて、一益は北条氏の使者の信長への取次ぎを務め、東国筋の担当を始めました。
そして、天正10年(1582年)、甲州征伐で大きな転機を迎えます。
一益は甲州遠征の先鋒となり、その功によって上野国(現・群馬県)と信濃国(現・長野県)佐久・小県の二郡を与えられ、厩橋城主となり、関八州(関東8か国のこと)を守る役目を命じられました。
これは、一益が単なる一方面軍の将ではなく、信長の東国経営の中心人物にまで出世していたことを意味します。
信長が東へ勢力を広げる上で、一益は欠かせない存在でした。
本能寺の変と神流川の戦い
ところが、同じ天正10年(1582年)6月、本能寺の変によってすべてが変わります。
信長が明智光秀に討たれると、東国で孤立した一益は、北条氏の攻撃を受けることになりました。
一益は北条氏政・氏直父子と神流川で戦って敗れ、本領の伊勢長島へ逃げ帰ります。
一旦は北条軍を退けたものの、最終的には大敗を喫しました。

▲神流川の戦いで敗戦、命かながら逃げる滝川一益のイメージイラストです
秀吉と対立し、のちに降伏する
本能寺の変後、一益は織田信孝や柴田勝家と結び、羽柴秀吉に対抗します。
秀吉が岐阜城の織田信孝を攻めたことに対し、一益は伊勢の亀山・峯の両城を攻めて、雪で動きのとれない柴田勝家を側面から助けようとしました。
しかし、秀吉は北伊勢を制圧し、さらに賤ヶ岳の戦いで勝家を破ります。
信孝もまた追い詰められ、結局一益は北伊勢五郡を差し出して秀吉に降伏しました。
小牧・長久手の戦いと蟹江城攻め
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、一益は秀吉方として再び戦場に立ちます。
ここで一益は、旧縁の地である蟹江城を、海上からの鉄砲奇襲と内応策で奪い取りました。
しかし、結果は成功とはいえませんでした。
徳川家康軍の猛攻を受け、十数日で城を放棄せざるをえず、一益は伊勢へ退きます。
一益にとっては、秀吉方に属してもなお、戦局を決定づける勝利を挙げられなかった苦い経験だった。
晩年は越前国大野で隠退、茶人としても知られて」います。
小牧・長久手の戦い後、一益は秀吉の怒りを受け、出家して妙心寺に入り、さらに越前国(現・福井県北部)大野に蟄居しました。
一益には3000石の隠居料が与えられ、長子は追放、次子に12000石が与えられました。
一益自身は茶人としても知られ、信長から茶壺を拝領したこともあり、出家後も秀吉を招いて茶会を催しています。
戦場を駆けた老臣が、晩年には茶の湯の人として静かに余生を送ったことは印象的です。
茶道に深い造詣を持っていたことは、一益の人となりに別の光を当ててくれます。
その後、天正14年(1586年)9月9日に62歳で亡くなっています。
不参加の果てに辿りついた「哀れなその後」
清州会議で失った地位と影響力を取り戻す術を失った滝川一益に、時代の波は容赦なく襲いかかります。
覇権を握る羽柴秀吉との対立、そして激動の末に迎えた静かな最期まで、名将の哀れな晩年の歩みをたどります。
秀吉に対抗するも孤立した「賤ヶ岳の戦い」
清州会議以降、着々と織田家中での実権を固める秀吉に対し、危機感を募らせた柴田勝家は挙兵を決意します。
天正11年(1583年)、秀吉と勝家による天下分かれ目の合戦「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」が勃発しました。
一益は勝家陣営に与し、本拠地である伊勢国の亀山城や長島城に籠城して秀吉軍の足止めを図ります。
一益は凄まじい粘りを見せ、秀吉本隊を引きつけることには成功しました。
しかし、越前(福井県)の本戦で勝家が秀吉に敗北すると、一益は完全に関東や北陸の味方から遮断され孤立無援となってしまいます。
援軍の望みも絶たれた一益は、城を明け渡して秀吉に降伏するほかありませんでした。
出家して「入道道栄」へ…失意の中での最期
降伏した一益はすべての領地を没収され、伊勢を追放されました。
髪を剃って出家し、「入道道栄(どうえい)」と名乗ると、丹波国(京都府・兵庫県)へ身を寄せて隠居生活を送ることになります。

▲滝川一益が入道道栄になったイメージイラストです
かつて「進むも退くも滝川」と敵味方から恐れられ、織田軍の快進撃を支えた天才的な軍略家の面影はそこにはありませんでした。
その後、小牧・長久手の戦い(1584年)で秀吉から一時的に呼び戻され、伊勢攻略の案内役を務めたものの目立った功績は残せず、わずかな扶持(手当)を与えられて越前で静かに暮らしました。
そして、天正14年(1586年)、清州会議からわずか4年後、失意のうちに62歳でその生涯を閉じました。
「地の利」に恵まれず清州会議の舞台に立てなかったひとつの不運が、戦国の表舞台からこの名将を永遠に追い去ってしまったのです。
まとめ
時代の波と「地の利」に放り出された悲運の名将。
織田家の筆頭格として一時代を築いた滝川一益の衰退劇は、個人の能力不足ではなく、あまりにも酷な「タイミング」と「地の利の悪さ」が招いた悲劇でした。
本能寺の変の報を受けた際、遠く離れた関東の地にいたこと。
そして、即座に押し寄せてきた北条大軍との「神流川の戦い」を戦い抜き、命からがら伊勢へ脱出せざるを得なかったこと。
これらの激動が重なった結果、一益は歴史の転換点であった「清州会議」に遅刻し、参加の権利すら失ってしまいました。
この会議不参加により、織田家中での発言力と莫大な領地を同時に失った一益は、その後の「賤ヶ岳の戦い」でも孤立を余儀なくされ、表舞台からの退場を余儀なくされます。
最後は出家し「入道道栄」として静かに最期を迎えました。
「もし一益が京都の近くに配置されていたら」「清州会議に間に合っていたら」——たらればを挙げればキリがありませんが、卓越した軍才を持ちながらも「地の利」という不可抗力に運命を狂わされた滝川一益は、まさに戦国史上最も悲運な名将の一人と言えるでしょう。