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三法師(織田秀信)のその後と家族とは?秀吉に翻弄された天才幼君の波乱の生涯

投稿日:2026年8月16日 更新日:

清洲会議で豊臣秀吉に抱きかかえられ、織田家の跡取りとなった幼き三法師。

しかし、秀吉が天下を取ったあと、彼は一体どんな人生を送ったのでしょうか?

 

 

『大きくなってからの話を聞かないけれど、家族や子供はいたの?』と疑問に思う方も多いはずです。

 

 

実は成長した三法師(織田秀信)は、岐阜城主として立派な武将へと成長し、波乱に満ちた生涯を送っていました。

この記事では、三法師のその後の歩みや、妻・子供といった『家族』の真相、そして関ヶ原の戦いへ至るドラマをわかりやすく解説します。」

 

 

 

1. 清洲会議の主役・三法師(織田秀信)のその後

本能寺の変の後、織田家の後継者を決める「清洲会議」において、わずか3歳で織田家の家督を継ぐこととなった三法師

豊臣秀吉の腕に抱きかかえられた愛らしい幼君の姿は有名ですが、彼が大人になってからどのような人生を歩んだのかは、あまり知られていません。

 

 

天下の旗印として利用された幼少期を経て、三法師は秀吉のもとで順調に成長していきました。

▲清洲会議で信忠の子・三法師を擁する羽柴秀吉(『絵本太閤記』の挿絵)

 

 

秀吉の庇護のもとで成長し「岐阜城主」へ

清洲会議ののち、三法師はまず叔父・信忠の弟達の織田信雄や織田信孝らの政争に巻き込まれつつも、実権を握った秀吉の強い庇護(ひご)下に置かれました。

安土城や清洲城などを転々とした後、幼少期を京都などで過ごします。

 

 

そして天正18年(1590年)の小田原征伐を経て、文禄元年(1592年)には、かつて祖父・織田信長や父・織田信忠が居城としたゆかりの地・美濃国(現在の岐阜県)へ戻ることになります。

.祖父・織田信長、父・織田信忠とは、三法師(のちの織田秀信)にとって、祖父・織田信長は天下人であり自身の運命を決定づけた絶対的な存在。

また、父・織田信忠は将来その後継者となるはずだった直系の父親ですが、本能寺の変で弟・織田勝長(御坊丸・美濃岩村城当主)と共々討死してしまった。

本来信長の直系とは、信長の祖父・織田弾正忠信定、父・織田弾正忠信秀、織田弾正忠信長、家督を継いだ織田信忠→三法師(織田秀信)と続くわけでしたが秀吉に天下を取られてしまった。

※.上記の織田弾正忠家をクリックして頂くと詳しい記事があります。興味ある方はご覧になって下さい。

しかし、三法師がわずか3歳のときに起きた本能寺の変で祖父・父親・伯父の3人を同時に失い、織田家の象徴として翻弄されることになりました。

※.上記の織田信忠・弟・織田勝長をクリックして頂くと、本能寺の変での信長の大誤算の記事があります。興味ある方はご覧になって下さい。

 

秀吉から岐阜13万石を与えられ、弱冠12歳(数え年13歳)にして堂々たる「岐阜城主」となったのです。

 

 

幼名「三法師」から元服して「織田秀信」へ改名

岐阜城主となった文禄元年(1592年)、三法師は元服を迎え、正式に武士としての名を授かります。

それが「織田秀信(おだ ひでのぶ)」です。

         ▲織田秀信

 

この「秀信」という名には、大きな意味が込められていました。

「秀」の字は時の権力者となった豊臣秀吉から一字を賜った(偏諱)ものであり、「信」の字は織田家の代々の通り字(信長・信忠)を継承したものです。

 

 

幼名の「三法師」を捨て「織田秀信」となった彼は、単なる飾りものの幼君ではなく、一人の立派な戦国大名として歴史の表舞台に立つことになりました。

 

 

秀吉政権下での扱いは?(織田家の血筋としての立場)

秀吉政権において、織田秀信(三法師)は極めて「特殊で高い地位」を与えられていました。

 

 

秀吉は自身が天下人となった後も、かつての主君である織田信長への敬意を表すポーズを崩しませんでした。

 

 

そのため、信長の嫡孫(正妻・正室の血を引く孫)である秀信を非常に優遇したのです。

 

 

 

官位の優遇

若くして「三位中将(岐阜中納言)」という高い官位を与えられました。

 

これは他の主要な豊臣子飼いの大名たち(加藤清正や福島正則など)よりも格上の扱いです。

 

 

名目上の尊重

秀吉にとっては「かつての主家の子孫」であり、政権の正当性を保つための重要な存在でした。

 

 

そのため、表向きは非常におろそかにできない貴公子として重用されました。

しかし、その一方で「絶対に政権の実権は握らせない」という厳重な警戒も払われていました。

 

 

秀信(三法師)は豊臣政権下で「最高クラスのステータスを持つ大名」として遇されながらも、実質的には豊臣家の家臣(一諸侯)としての枠組みの中に組み込まれていたのです。

 

 

 

2. 三法師の「家族」|妻・子供・子孫はいたのか?

織田家の嫡流として生まれ、豊臣秀吉のもとで育った織田秀信(三法師)。

気になるのが、秀信のプライベートな「家族関係」です。

秀吉や徳川家康といった時代の権力者たちに翻弄されるなか、彼にはどんな妻がおり、子供や子孫は残されたのでしょうか。

 

 

正室・妻は誰?

秀信(三法師)の正室となったのは、六角氏の旧臣・和田孫太夫の娘です。

 

 

なお、のちに生地真澄の娘である町野が側室(または継室)として伝えられています。

 

 

公式な歴史記録(幕府の編纂した『寛政重修諸家譜』など)において、織田秀信(三法師)には「公式な後継者(男児)」はいなかったとされています。

 

 

正室との間には子供に恵まれず、また関ヶ原の戦いが起きた際には秀信はまだ21歳の若さでした。

 

 

また、織田信忠の次男であり、秀信(三法師)の異母弟にあたる織田秀則(おだ ひでのり)がいました。

 

 

関ヶ原の前哨戦岐阜城での籠城では兄・秀信とともに西軍(石田三成方)に参戦。岐阜城に立てこもり、福島正則や池田輝政ら東軍の大軍相手に奮戦しましたが、落城に伴い降伏・改易となりました。

 

 

落城後、兄弟揃って高野山へ送られて出家(秀則の法名は「津田秀則」や「宗幾」とも)。

 

 

その後、高野山を下りて豊臣秀頼を頼り、大坂へ移り住んで豊臣家から扶持(知行)を受けて生活しました。

 

 

しかし、慶長20年(1615年)の大坂の陣の際、豊臣家崩壊とともに京都へ逃れ、東軍(幕府方)に積極的に敵対することなく難を逃れ、京都で茶人・文化人として静かに過ごしたと伝えられています。

 

 

 

兄弟の対照的な最期

兄・秀信、弟・秀則が岐阜城での激戦ののち(高野山または高野山下山後の20代半ばで)病死・早世した26歳の若さで。とされるのに対し、

 

 

織田信長の「直系の孫」という重い血統を背負いながらも、関ヶ原・大坂の陣という二大決戦を生き延び、最終的に京都の風流人として生涯を閉じた稀有な人物の一人が三法師の弟・秀則です。

 

 

正史の上では「織田家嫡流(信長―信忠―秀信)は断絶した」と扱われています。

 

 

しかし、伝承や地方の古文書レベルでは「側室との間に男子がいた」という説が複数残されています。

◇知多半島の伝承 : 秀信(三法師)の幼子(秀知など)が知多半島へ逃れ、そのまま土着して代々庄屋となったとされる説や。

◇加賀藩・前田家に仕えた説 : 秀信の遺児とされる人物が越前や加賀に渡り、子孫を残したという説や。

 

 

このように、戦乱の難を逃れるために「あえて織田の姓を捨て、民間に紛れて血筋を繋いだ」という落人伝説が各地に語り継がれています。

 

 

織田信長の孫の三法師(織田秀信)に西軍につき、織田信長の孫である三法師(織田秀信)が関ヶ原の戦いの前哨戦の岐阜城の戦いで、秀信(三法師)・秀則は石田三成側の西軍につき奮戦したが敗北したため、降伏後に命を助けられ、出家して真言宗の総本山である高野山へ送られた。

 

高野山に入ったが 、高野山を追放(下山)された。

弟の秀則は京都で与楽庵と号し、芸道や文化に親しみながら寛永年間に没したとされています。

 

 

理由は
◇祖父・信長の遺恨(とばっちり)説:かつて織田信長が高野山を攻めた歴史があったため、高野山側から強い反発や迫害を受け、居場所がなくなったとされる。

◇自身の乱行説:僧侶を斬るなどの不祥事や乱れがあったため、山を追われたという伝承もある(ただし秀信自身は生前寺社を保護しており、後世の作話や誇張とする見方強い)。

◇病気療養・体調悪化説:高野山での冷遇や過酷な環境で健康を害し、山麓へ下らざるを得なかったとも言われている。
などの理由で26際で亡くなったと言われています。

 

 

織田家嫡流のその後と現在への繋がり

三法師(秀信)の代で「信長―信忠」と続いた織田家の嫡流(本家)は途絶えてしまいましたが、「織田信長の血筋」そのものが絶えたわけではありません。

 

 

信長の次男である織田信雄(のぶかつ)の系統や、信長の弟たち(織田有楽斎など)の系統は、江戸時代も大名(柏原藩や天童藩など)や旗本として存続しました。

 

 

さらに、信長の娘たちを通じて、その血は皇室や多くの公家・大名家(徳川家や細川家など)へと脈々と受け継がれていきました。

 

 

三法師の直系は歴史の表舞台から姿を消したものの、織田信長という稀代の英雄の遺伝子は、形を変えて現代まで確かに受け継がれています。

 

 

3. 秀吉死後の運命|関ヶ原の戦いと織田秀信の最期

豊臣秀吉の死後、世の中は再び大きく動き始め、徳川家康と石田三成の対立が決定的となり、天下分け目の「関ヶ原の戦い(1600年)」が勃発。

 

21歳という血気盛んな武将へと成長していた織田秀信(三法師)もまた、この歴史的決戦の渦中へと飲み込まれていきました。

 

 

 

なぜ西軍(石田三成側)についたのか?

関ヶ原の戦いにあたり、秀信は石田三成率いる西軍への参戦を決断します。

 

 

徳川家康率いる東軍が圧倒的優勢と見られるなか、なぜ彼は西軍を選んだのでしょうか。

そこにはいくつかの理由がありました。

 

 

 

石田三成からの猛烈な勧誘

三成は秀信に対し、「西軍が勝利したあかつきには美濃・尾張の2ヶ国を与える」「美濃の岐阜城だけでなく、祖父・信長ゆかりの尾張(名古屋・清洲)も含めて領地を大幅に加増する」という破格の条件を提示しました。

 

 

岐阜城という地理的要衝

岐阜城は東軍が江戸から上洛する際、必ず通過しなければならない戦略上の最重要拠点でした。

 

三成にとって、秀信(三法師)を味方に引き入れることは絶対条件だったのです。

 

 

織田家としての意地

秀吉の手によって家臣筋に甘んじることになったものの、秀信(三法師)の根底には「織田家の栄光を取り戻したい」という強いプライドがあったと考えられます。

 

 

激戦・岐阜城の戦いと壮絶な開城

西軍についた秀信に対し、徳川家康は東軍の先鋒として福島正則や池田輝政らの大軍を岐阜城へと差し向けます。

 

かつて祖父・信長が天下布武の拠点とした岐阜城は難攻不落の名城でしたが、兵力差は歴然(東軍約3万に対し、秀信勢はわずか数千)でした。

 

 

しかし秀信は降伏勧告を拒否し、自ら槍を取って前線に立ち、激しい防衛戦を繰り広げます。

 

 

米野の戦いなどで凄まじい抵抗を見せたものの、圧倒的な兵力差の前に城下は突破され、岐阜城本丸まで追い詰められます。

 

 

秀信は最後まで城と運命を共にしようと討ち死にを覚悟しましたが、かつて父・信忠の家臣でもあった福島正則らの切実な説得を受け入れ、ついに開城・降伏を選びました。

 

 

 

高野山への追放と26歳での早世

降伏した秀信に対し、東軍の諸将からは「元は主家(織田家)の嫡流である」として助命を願う声が多く上がりました。

 

 

徳川家康もこれを受け入れ、切腹は免れたものの、領地はすべて没収(改易)となり、高野山へ追放される処分が下されます。

 

 

かつて13万石を領した大名は一転して着の身着のまま高野山へと赴きますが、高野山では「かつて信長が行った高野山攻め(高野攻め)」の怨念が残っていたため、織田家の人間である秀信は寺方から冷遇され、入山を拒まれるなどの厳しい仕打ちを受けたとも伝えられています。

 

 

失意と過酷な環境のなかで秀信の心身は蝕まれ、関ヶ原の戦いからわずか5年後の慶長10年(1605年)、26歳という若さでこの世を去りました。

 

 

清洲会議で天下の注目を集めた「三法師」の生涯は、時代の波に呑まれ、あまりにも儚く幕を閉じたのです。

 

 

 

4. なぜ三法師は天下人になれず、秀吉の時代になったのか

清洲会議で織田家の後継者として選ばれたのは、確かに三法師でした。

しかし、歴史の歯車が回るにつれて「織田家の政権」ではなく「豊臣秀吉の天下」へと移り変わっていきます。

 

 

なぜ正統な跡継ぎであった三法師は天下人になれず、秀吉が時代を支配することになったのでしょうか。

 

 

成長を待つ間に秀吉が「関白」となり実権を掌握

最大の理由は、「三法師が成長するまでの時間差」を秀吉が巧みに利用したことにあります。

 

 

清洲会議の時点において、三法師はわずか3歳の幼子でした。

自分で政治の決断を下すことも、戦場で指揮を執ることも不可能なため、織田家の重臣たちが合議制でサポートする体制(後見人制度)をとらざるを得ませんでした。

 

 

秀吉はこの「政権の空洞化」を見逃しませんでした。

三法師のバックアップ(後見人)という立場を盾にしながら、ライバルであった柴田勝家や織田信孝(信長の三男)を「賤ヶ岳の戦い」で相次いで打倒。

 

 

さらに織田信雄(信長の次男)も「小牧・長久手の戦い」を経て従属させました。

 

 

織田家内部で対抗できる勢力を一掃した秀吉は、ここで決定的な政治的舵を切ります。

 

 

自らが主君の枠組みに縛られる「織田家の家臣」であり続けることをやめ、天皇家から「関白」の位を授かることで、織田家の権威を超える独自の政権(豊臣政権)を打ち立てたのです。

 

 

三法師が成人して元服(織田秀信と改名)を迎えた頃には、すでに秀吉は「天下人」としての確固たる地位を築いていました。

 

 

秀吉は三法師を疎かにすることはせず、一諸侯としては最高クラスの破格の待遇を与えましたが、政治や軍事の実権は絶対に与えないよう徹底して管理しました。

 

 

こうして三法師は、「織田家の当主」から「豊臣政権下の一大名」へと立場を変えさせられたのです。

 

 

 

三法師自身は秀吉をどう思っていたのか?

幼少期から秀吉の庇護のもとで育った三法師(織田秀信)は、秀吉に対して複雑な感情を抱いていたと考えられます。

 

 

恩人・師としての感情

秀吉は三法師に対して決して冷遇していたわけではありませんでした。

 

 

祖父・信長ゆかりの美濃岐阜13万石を与え、官位も異例のスピードで昇進させました。

 

 

三法師にとって秀吉は、幼い頃から自分を育て、大きな地位を与えてくれた「頼りになる庇護者」そのものでした。

 

 

自身の名前に「秀」の字(秀吉からの偏諱)を受け入れていることからも、一定の敬意を持っていたことが分かります。

 

 

 

織田家嫡流としての葛藤

一方で、物心がつくにつれて「自分こそが織田信長の正統な後継者である」という自覚とプライドは当然芽生えていたはずです。

 

 

秀吉が自分を立てつつも、実質的に織田家を呑み込んで天下を取った政治的現実に対し、やるせなさや葛藤を覚えていたとしても不思議ではありません。

 

 

秀吉の生前は素直に従順な大名として振る舞っていた秀信ですが、秀吉が死ぬと関ヶ原の戦いで意地を見せるように西軍へ参戦し、決死の覚悟で岐阜城に籠城しました。

 

 

この行動には、豊臣家への義理と同時に、「かつての織田家の栄光を取り戻したい」という彼なりの情熱と意地が込められていたのかもしれません。

 

 

 

まとめ

三法師(織田秀信)は、幼少期に清洲会議で政治的に利用されただけの存在ではありませんでした。

 

 

成長後は美濃岐阜城主として織田家の誇りを胸に抱き、関ヶ原の戦いでは東軍の大軍を相手に自ら槍を取って戦うなど、最後まで織田家の意地を見せた見事な武将でした。

 

 

「三法師のその後」や「家族関係」を紐解いていくと、単なる権力闘争の陰に隠れがちな一人の人間の葛藤や、脈々と受け継がれた血筋のロマンが見えてきます。

 

 

清洲会議という歴史の転換点の裏側にあったもう一つのドラマを知ることで、戦国時代の深みをより一層感じることができるでしょう。

 

 

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