「偽造がバレたら、間違いなく即打ち首——」
豊臣秀吉による二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を言い渡された離れた小島の対馬藩・城主の宗義智。
出兵すれば日朝関係が決定的に破綻する。
その板挟みとなって絶体絶命の危機に瀕したのが、国境の島・対馬を治める城主・宗義智でした。
▲豊臣秀吉
対馬の領主・第19代当主、対馬府中藩の初代藩主であった宗義智は、朝鮮との間で行っていた貿易(朝鮮貿易)が生命線であったため、初めは秀吉の朝鮮出兵に強く反対しました。
▲対馬藩主・宗義智
しかし秀吉の圧力に屈せざるを得ず、やむを得ず小西行長らとともに先鋒(一番隊)として出兵させられました。
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戦場となった朝鮮との外交・貿易は完全に途絶え、対馬島内も兵糧の負担や経済の低迷、人口激減により深刻な打撃を受けました。
慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、徳川家康に接近して本领(対馬一国)の安堵を勝ち取りました。
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家康の意向を受け、宗義智は朝鮮との国交回復に尽力します。
しかし、不信感を募らせる朝鮮側と、対面を重んじる江戸幕府の主張は真っ向から対立し、妥協の余地などどこにもありませんでした。
追い詰められた宗氏が選んだのは、なんと双方の「国書を偽造・改ざんする」という前代未聞の暗躍でした。
なぜ彼らは、一族郎党の命や藩の存続をかけた大ギャンブルに打って出なければならなかったのか?
両国の深い対立を埋めるため、対馬藩は日本側の国書を偽造・改ざんするなどの「秘策外交」を行い、慶長14年(1609年)に己酉約条(きゆうやくじょう)を締結して日朝貿易を再開させました。
この国書偽造問題は、のちの寛永12年(1635年)に家臣との内部対立(柳川一件)で幕府に露見しましたが、将軍・徳川家光の裁定により対馬藩の存続と朝鮮外交の重要性が認められ、藩主の宗家はおとがめなしとなりました。
本記事では、対馬藩が国家を揺るがす「偽造工作」に手を染めてまで国交回復に執着した歴史的背景と、命がけの生存戦略の真相に迫ります。
対馬藩(宗氏)が国書偽造に踏み切った歴史的背景
対馬藩宗氏が前代未聞の「国書偽造」という大ギャンブルに打って出た裏には、自力では到底動かせない深刻な歴史的背景がありました。
すべての発端は、秀吉の時代に引き起こされた大戦乱に遡ります。
豊臣秀吉の朝鮮出兵による「日朝関係の破綻」
16世紀末、天下を統一した豊臣秀吉が断行した二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役)。
この泥沼の戦いにより、それまで築かれてきた日本と朝鮮の平和的な外交関係は完全に崩壊しました。
当然ながら日朝間の貿易も完全に途絶。
侵略を受けた朝鮮側には日本に対する強い不信感と憎悪が残り、両国の国交は絶望的なまでに冷え切っていたのです。
徳川家康からの厳しい条件(国交回復命)
秀吉の死後、関ヶ原の戦いを制して江戸幕府を開いた徳川家康は、政権の安定を図るため対馬藩主・宗義智(そう よしとし)に対し、朝鮮との「国交回復交渉」を命じました。
しかし、この交渉は最初から暗礁に乗り上げます。
戦争の傷癒えない朝鮮側は、国交に応じるための絶対条件として次の2点を突きつけてきたからです。
日本側(幕府)から先に国書(公式な謝罪や国交を求める文書)を送ること、秀吉の朝鮮出兵時に王陵を暴いた犯人(犯陵者)を捕らえて引き渡すこと、一見すると筋の通った要求に見えますが、ここには大きな壁がありました。
それは江戸幕府(家康)側の姿勢です。
新政権を樹立したばかりの家康にとって、自ら先に頭を下げて国書を送ることは「日本が朝鮮に従属した」かのような印象を与え、将軍としての威信(対面)を傷つけるものでした。
「日本と朝鮮は対等な関係であるべきであり、先に平伏するような国書など絶対に出せない」——これが幕府の揺るぎない立場だったのです。
「先に国書を出せ」と譲らない朝鮮と、「頭など絶対に下げない」と突っぱねる幕府。
双方の「メンツ」が激しく衝突するなか、交渉の全権を委ねられた対馬藩宗氏は、まさに逃げ場のない絶体絶命の板挟み状態へと追い詰められていくことになります。
なぜ国書を偽造してまで国交回復を目指したのか?(3つの理由)
双方の「メンツ」が激しくぶつかり合い、平行線をたどる外交交渉。
普通であれば諦めてしまうような絶望的な状況のなか、なぜ対馬藩宗氏は「国書偽造」という命がけの暴挙に及んでまで国交回復に固執したのでしょうか。
そこには、対馬藩が置かれた切実すぎる3つの理由がありました。
① 米が獲れない対馬の「経済的破滅」を防ぐため
最大の理由は、対馬という土地が抱える極端な地理的条件にあります。
対馬は島の約9割が山林に覆われており、田畑を作れる平地がほとんどありません。
そのため、米の収穫量を示す「石高(こくだか)」は実質的にほぼゼロに等しい状態でした。
そんな対馬藩が生き残るための唯一の生命線こそが、「朝鮮との交易」だったのです。
対馬は朝鮮から木綿や朝鮮人参、高級絹織物などを輸入し、それを日本国内に転売することで藩の経済を成り立たせていました。
もし国交が途絶えたままになれば、貿易は完全にストップし、対馬藩は即座に「経済的破滅」を迎えることになります。
宗氏にとって国交回復は、藩士や島民の飢えを回避するための絶対条件だったのです。
② 双方の「メンツ」の板挟みを回避するため
前項でも触れた通り、国交回復の交渉において両国の立場はどこまでも真っ向から対立していました。
◇朝鮮側の主張◇
侵略された被害国として「先に日本から頭を下げた国書」を受け取らなければ、国内の納得が得られない。
◇江戸幕府の主張◇
東アジアの新たな勝者として「自ら平伏するような国書」を出すことは、将軍の威信(対面)に関わるため絶対に受け入れられない。
どちらも一歩も引かず、両者を納得させるような「折衷案」はどこにも存在しませんでした。
このまま真面目に交渉を続けていても平行線をたどるだけで、永久に解決しません。
追い詰められた宗氏は、双方のメンツを力づくで立てるために
「幕府には朝鮮から頭を下げてきたように見せかけ、朝鮮には日本が謝罪してきたように見せかける」という、両騙しの国書改ざんへと手を染めていくことになります。
③ 幕府からの「改易(お家取りつぶし)」を避けるため
そしてもうひとつ、宗氏の背中に突きつけられていたのが「お家取りつぶし(改易)」の恐怖です。
江戸幕府から対馬藩に与えられた最大の使命は「朝鮮との外交を取り仕切ること」でした。
もし国交回復の交渉に失敗すれば、対馬藩は幕府から「外交担当としての存在価値なし」とみなされ、領地を没収されて藩が消滅(改易)する危険性が極めて高かったのです。
発覚すれば打ち首・改易という巨大なリスクがある「国書偽造」ですが、交渉に失敗してもどのみち「改易・破滅」が待っている——。
まさに後がない状況下で、宗氏は「偽造がバレずに国交が回復する可能性」に賭けるしか選択肢が残されていませんでした。
どのように偽造が行われたのか?(柳川一分の策動と柳川件)
双方のメンツと自藩の存続をかけた対馬藩宗氏は、ついに大掛かりな「偽造工作」を開始します。
そしてこの決死の工作は、実に30年以上もの間、両国にバレることなく機能し続けることになりました。
どのような手口で騙し通し、そしてどのようにして発覚したのでしょうか。
偽の国書作成と「奉書」「奉復」の書き換え
国書偽造の実務を中心となって取り仕切ったのが、対馬藩の大家老・柳川(やながわ)氏でした。
彼らが行った工作の手口は、まさに緻密かつ大胆そのものでした。
◇「偽の日本国書」を自作◇
幕府に無断で、あたかも日本側が折れて国交を求めているかのような内容の国書を作成。

▲偽装してるイメージイラストです。
◇偽の「朝鮮国王印」を捺印◇
朝鮮から幕府へ宛てた返書(国書)を用意する際、自分たちで勝手に作らせた偽の国王印「為政以徳(いせいいとく)」などを押して偽造。
◇文言の書き換え(「奉復」から「奉書」へ)◇
朝鮮からの実際の返書にあった「奉復(返事を出します)」という言葉を、自発的な差し出しを意味する「奉書」へと書き換え。
これにより「朝鮮側から先に頭を下げて国書を送ってきた」と幕府に誤認させました。
このように、幕府には「朝鮮が従属を求めてきた」、朝鮮には「日本が謝罪してきた」と思わせる「ダブルの偽装」を行うことで、奇跡的にも慶長12年(1607年)、第1回朝鮮通信使の来日(国交回復)を実現させたのです。
発覚と「柳川件(やながわけん)」の結末
事態が急変したのは、工作から約30年が経過した3代将軍・徳川家光の時代寛永14年(1635年)のことです。
偽造を主導した家老の息子・柳川調興(やながわ しげおき)と、対馬藩主・宗義智との間で激しい内部対立(お家騒動)が勃発。
追い詰められた柳川調興が、なんと「対馬藩は長年にわたり国書を偽造して幕府を騙してきた」と幕府へ直訴(内部告発)したのです。
この前代未聞の事態に、将軍・徳川家光自らが江戸城で当事者たちを直接取り調べる大裁判「柳川件(やながわけん)」が開かれました。

▲裁判をしとるイメージイラストです。
国書の偽造は紛れもない事実であり、誰もが「宗家は間違いなく改易(お家取りつぶし)、当主は打ち首」と予想しました。
しかし、幕府が下した判決は驚くべきものでした。
◇対馬藩主・宗氏◇
お咎めなし(お家存続)
◇告発者・柳川調興◇
敗訴となり、津軽へ流罪(死罪は免れるも追放)
主犯格であった宗家がなぜ不問に付されたのでしょうか。
その最大の理由は、「日朝外交と貿易を取り仕切れるのは、長年のノウハウと信頼関係を持つ対馬藩宗氏しかいなかったから」です。
もしここで宗氏を処罰して潰してしまえば、せっかくつながった朝鮮との外交パイプが再び断絶し、幕府自身が困り果てることになります。
幕府はリアリズム(実利)を優先し、「偽造は対馬藩が国のためを思って苦肉の策で行ったこと」として処理し、宗家を存続させる道を選んだのです。
まとめ
対馬宗氏の国書偽造は「命がけの生存戦略」だった。
今回は、対馬藩宗氏がなぜ「国書改ざん」という巨大なリスクを冒してまで、朝鮮との国交回復に走ったのか、その裏事情を解説しました。
記事のポイントを改めて整理します。
◇歴史的背景◇
秀吉の朝鮮出兵により日朝関係は破綻。
家康から国交回復を命じられるも、両国の譲れない条件が激突した。
◇偽造の理由◇
①米が獲れない対馬の「経済的破滅」を防ぐため。
②双方の「メンツ」の板挟みを回避するため。
③幕府からの「改易(お家取りつぶし)」を避けるため。
◇偽造の手口と結末◇
朝鮮国王印の偽造や国書の書き換えにより国交を回復。
後に内部告発(柳川件)で露見するも、外交の代替が効かない宗氏は「お咎めなし」となった。
国書の偽造や改ざんという手法は、決して正攻法でも褒められた手段でもありません。
しかし、もし対馬藩が両国の板挟みに恐れをなし、何も動かなかったとしたら、日朝の断絶や再度の武力衝突すら起きていた可能性があります。
一歩間違えれば打ち首・改易という絶体絶命の状況下で、彼らが選んだ「両騙しの偽造」は、まさに藩と島民の命を守るための命がけの生存戦略でした。
そしてこの決死の暗躍があったからこそ、その後に続く「朝鮮通信使」の来日をはじめとする江戸時代約200年以上にわたる「日朝の平和的外交」の基礎が築かれることになったのです。
対馬の歴史に触れる際は、国境の島で国家の狭間に立ち、知恵と度胸で生き抜いた宗氏の苦悩に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。