「天空の城」として知られる兵庫県の竹田城。
その山頂に今も広がる壮大な石垣を築き上げた最後の城主、赤松広秀(斎村政広)をご存じでしょうか。
関ヶ原の戦い直後に悲劇の切腹を遂げたことで知られる広秀ですが、その本質は荒々しい戦国武将ではなく、日本儒学の祖・藤原惺窩をも唸らせた「文人武将」でした。
なぜ彼はそこまで学問を愛し、領民に慕われながらも非運の死を遂げなければならなかったのか――。
今回は、竹田城跡の石垣に秘められた、赤松広秀の気品あふれる生涯と魅力に迫ります。
「天空の城」竹田城を完成させた赤松広秀とは?
雲海に浮かぶ幻想的な姿から「日本のマチュピチュ」「天空の城」として親しまれている兵庫県朝来(あさご)市の竹田城。
歴史ファンのみならず、多くの人々を魅了してやまないこの城ですが、現在のような壮大な姿に仕上げた城主こそが、赤松広秀(あかまつ ひろひで / 別名・斎村政広)です。
戦国の激流に揉まれながらも着実に力を蓄え、竹田城に命を吹き込んだ彼の歩みとは、どのようなものだったのでしょうか。
主家・赤松氏の没落から但馬の城主へ
赤松広秀の出自は、播磨(現・兵庫県南西部)の名門・赤松氏の一族にさかのぼります。
名門の血を引きながらも、彼が生きた時代はまさに下剋上の真っただ中。
織田信長の勢力が播磨へ伸びてくると、主家である赤松氏は時代の波に飲み込まれて没落していきました。
広秀は生き残りをかけ、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の配下に降る道を選びます。
秀吉の臣下として「中国攻め」や「九州平定」などで順調に武功を重ねた広秀は、その手腕を買われ、天正13年(1585年)に但馬・竹田城の城主(2万2千石)に抜擢されました。
主家の没落という逆境から、己の実力と機転で一個の城主へと這い上がったのです。
赤松広秀という武将
永禄5年(1562年)播磨龍野城主・赤松政秀の子として誕生、母は赤松晴政の娘。
元亀元年(1576年)、父・政秀、その後、兄・広貞が死去すると、若くして家督を継承。
改名として、赤松広英→広秀→広道→政広をまのる。
政広※1の龍野赤松氏は支流ではあったが、守護赤松氏に入った赤松義祐の七条流よりも、むしろ血統的に嫡流に近い家柄で、このため内紛を続けていた。
※1.齋藤政広(赤松政広)とは、龍野赤松家は、血統が本家(嫡流)に近かったため、守護家を継いだ七条流との間で正統性をめぐる激しい内紛が起きていました。
背景と血統の違い龍野赤松氏:立場としては支流でしたが、血の繋がりとしては赤松氏の本家(嫡流)により近い家柄でした。
七条流(赤松義祐ら):守護職を継いだ系統ですが、血統的な本家からの近さでは龍野赤松氏の方が上と見なされていました。
内紛の原因:どちらが赤松氏の正統なリーダーであるかをめぐり、争いが絶えませんでした。
政広のその後の経緯若くして父・政秀や兄の跡を継いで龍野城主となりました。
勢力が弱まったため、織田方(荒木村重)に従って生き残りを図りました。
のちに上洛して織田信長に謁見し、時代に翻弄されながらも行動しました。
天正8年(1580年)、秀吉が播磨を平定すると再び旧領回復を願い出たが、秀吉は家臣の蜂須賀正勝に龍野城5万3,000石を与えて、広英には太子寺付近の所領のみを与え、蜂須賀正勝の与力とした。
天正10年(1582年)2月、正勝に属して備中高松城の戦いに参加した。
6月、本能寺の変の後もそのまま秀吉に属した。
この頃、広秀(ひろひで)と同音異字に名乗りを変えている。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いでは蜂須賀隊の先鋒を指揮し、蜂須賀正勝不在中は代わって全体を統括した。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正13年(1585年)の四国の役でも引き続き、蜂須賀正勝(あるいは家政)与力として活動。
四国の役の論功行賞で、蜂須賀正勝の子・家政は阿波一国(17万3千石)に移封されたが、龍野城は福島正則に与えられて帰還ならず、広秀は但馬竹田城主に封じられた、以後は秀吉の直臣。
天正15年(1587年)、九州の役に従軍。
同年、秀吉の計らいで宇喜多秀家の妹と結婚した。
『武家事紀』によれば秀吉の赤母衣衆の1人に選ばれている。
天正18年(1590年)、小田原の役では後備として駿河に駐屯、沼津城に600騎。
天正19年(1591年)、秀吉の三河吉良狩猟に随従した。
文禄元年(1592年)、文禄の役に従軍し、兵800を率いて朝鮮に渡海。
釜山城の在番衆となった。
帰朝後、文禄3年(1594年)には伏見城の普請を分担。
翌年、伏見城下に邸宅を許されたが、この頃に広通(ひろみち)と名乗りを改めた。
また当時、竹田城で2万2,000石を知行していた。
慶長3年(1598年)、秀吉の死に際して遺物金5枚。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して西軍に与し、細川幽斎の居城である丹後田辺城を包囲した。
しかし関ヶ原本戦で西軍が敗れると、包囲を解いて帰還。
但馬に侵攻した。
亀井茲矩とは旧交があり、その説得で東軍に降伏して、その要請を受ける形で、西軍の宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めたが、このとき城下を焼き討ちして民家に放火したのを咎められ、戦後、徳川家康から切腹を命じられた。
同年10月28日、鳥取の真教寺で自刃した。
享年39歳。
竹田城は家康の命により山名豊国が接収し、その後、廃城とされた。
今に残る壮大な総石垣を整備した功績
但馬に入った広秀が手掛けた最大の大事業が、竹田城の大改修でした。
それまでの竹田城は、土を盛って作られた典型的な中世の「山城」に過ぎませんでした。
しかし広秀は、織田信長の安土城に象徴されるような最新鋭の城郭技術を導入。
山頂の尾根に沿って大規模な石垣を組み上げる「総石垣造り」の大改修を断行します。
この時、用いられたのが、近江(滋賀県)の石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」の技術とされる自然石を積み上げる「野面積み(のづらづみ)」です。

▲広秀が改修を主導すた竹田城の石垣っです。
石の形状をそのまま活かした無骨ながらも堅固な石垣は、400年以上が経過した現在もなお山頂にそびえ立ち、威容を誇っています。
広秀が完成させた総石垣の陣形こそが、今日の私たちが目にする「天空の城」の骨格そのものであり、彼の土木・軍事における卓越した構想力が遺した最高傑作と言えます。

▲赤松広秀と雲海に浮かぶ竹田城のイメージイラストです
戦国随一の教養人!藤原惺窩が認めた「文人武将」の素顔
戦国時代といえば「腕っぷしや武功で成り上がる」武将が好まれた時代ですが、赤松広秀の真骨頂はむしろその高い知性と教養にありました。
広秀は単に城を護る武人にとどまらず、当代一の学者たちと対等以上に渡り合い、文化や学問の発展に生涯を捧げた「文人武将」だったのです。
日本儒学の祖・藤原惺窩との深い師弟・親交関係
広秀の教養の高さを物語る最大の象徴が、近世日本儒学の祖と称される大学者・藤原惺窩※(ふじわら せいか)との交流です。
※.藤原惺窩(ふじわらせいか)とは、戦国時代から江戸時代前期にかけての儒学者。近世儒学の祖とされる。家名の冷泉を名乗らず、中国式に本姓の藤原を名乗り、その藤原を修姓して藤を称した。
また後世の儒学者は藤という姓が中国にないために藤(とう)と呼んだ。
二人の出会いは、広秀が学問を深める中で惺窩の評判を聞きつけ、師事したことに始まります。
単なる知識の教授にとどまらず、互いの高潔な人柄に惹かれ合った二人は、やがて立場を超えた深い絆で結ばれるようになりました。
藤原惺窩は後に徳川家康からも招聘されるほどの大家でしたが、武功にしか興味のない粗野な戦国大名たちを嫌う偏屈な一面もありました。
しかし広秀に対しては深く敬愛し、彼が切腹に追い込まれた際には「誠の実直な士であった」とその死を激しく悼んだと伝えられています。
学問への情熱――自費で書籍を刊行し知識を広めた文化事業
広秀の学問への情熱は、個人の勉強だけに留まりませんでした。
彼は「優れた教養や書物は、広く世に広められてこそ意味がある」と考え、自費を投じた出版事業(木活字本の発行)に着手します。
特に有名なのが、中国の歴史書や儒学の典籍である『大学』や『武術集要』などの刊行です。
資金や紙などの資材を惜しみなく提供し、藤原惺窩らの校訂のもとで当時としては極めて貴重だった書物を次々と世に送り出しました。
戦国乱世の渦中にありながら、私利私欲のためではなく「学問の発展と文化の継承」のために財を投じた広秀の取り組みは、日本出版史・文化史においても特筆すべき功績とされています。
但馬の産業と町を興し、家臣・領民に愛された「名君」のエピソード
広秀の豊かな教養と理知的な思想は、竹田城下の領国経営にも見事に反映されました。
但馬の地に入った広秀は、城下の整備を進めると同時に、地域の産業育成に尽力します。
特に、現在も但馬地方の伝統産業として知られる「漆(うるし)」や「竹工芸」の技術を導入・奨励し、領民の暮らしを豊かにするための土台を築きました。
また、むやみに重税を課すことを避け、領民や家臣の声をよく聴く慈愛に満ちた施政を行ったため、人々からは「命を預けるに足る名君」として深く愛されたと言います。
広秀が切腹を命じられた際、城内の財産をすべて家臣や領民へ分け与えるよう遺言したというエピソードは、最後まで領国と人々を愛し続けた彼の誠実な人柄を雄弁に物語っています。
関ヶ原の暗転――鳥取城攻めと焦土作戦の罠
但馬の地で領民に愛され、穏やかな文化事業と治世を続けていた赤松広秀。
しかし、慶長5年(1600年)に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」が、彼の平和な日常と運命を大きく狂わせることになります。
東軍への寝返りと鳥取城攻略の命令
関ヶ原の戦いが勃発した際、地理的な制約や周囲の情勢から、広秀は当初「西軍」への参加を余儀なくされました。
彼は西軍の勢力として、丹後田辺城(細川幽斎の居城)を囲む陣営に加わります。
しかし、関ヶ原の本戦において徳川家康率いる東軍が大勝利を収めると、戦況を一変させた東軍側から工作が入ります。
東軍の武将・亀井茲矩(かめい これのり)らの説得を受けた広秀は、即座に西軍を離脱して「東軍」へと寝返る決断を下しました。
東軍への恭順と忠誠の証として、広秀に下された命令!
それこそが、西軍の宮部長房が籠城する「鳥取城の攻略」でした。
城下町焼失の責任をなすりつけられた「無念の裏切り」
赤松広秀と亀井茲矩の連合軍は、猛烈な勢いで鳥取城を包囲し、激しい攻撃を加えます。
見事な攻城戦の末に城を降伏させることに成功した二人でしたが、この戦いの最中に未大惨事が発生します。
城下町で大規模な火災が発生し、町の大半が焼き払われてしまったのです。
戦後、鳥取城攻めの報告を受けた徳川家康は、「城下を焼くほどの過剰で無慈悲な破壊を行った」として激怒。城下町焼失の責任を厳しく追及しました。
しかし、実際の焦土作戦(放火・焼き払い)を主導していたのは、攻城戦で焦りを見せていた亀井茲矩側だったという説が有力視されています。
自らの保身を図った松江によって、すべての責任をなすりつけられる形となった広秀。
功績を立てて生き残ろうとした「東軍への転身」は、信頼していた味方による「無念の裏切り」という最悪の罠へと変わってしまったのです。
散り際に見せた気品――財産を家臣に分けた見事な最期
鳥取城攻めにおける城下町焼失の全責任を背負わされた赤松広秀に、徳川家康から下された裁定は「切腹」でした。
あまりにも理不尽で一方的な処分でしたが、広秀は見苦しい弁明や命乞いを一切することなく、その運命を静かに受け入れました。
一切の未練を捨てて切腹に臨んだ広秀の矜持
慶長5年(1600年)10月28日、鳥取の真教寺において広秀の切腹が執り行われました。
死を前にした広秀が見せたのは、死への恐怖ではなく、最後まで「文人武将」としての矜持を貫く姿でした。
彼は手元にあった城の財産や個人的な遺品を、これまで尽くしてくれた家臣たちに漏れなく分配するよう指示。さらに、残される領民たちの行く末を案じる言葉を遺したと伝えられています。
己の死を悟りながらも取り乱すことなく、私利私欲を完全に捨て去って見事に腹を切った広秀の散り際は、検分に立ち会った者たちをも深く感銘させました。
師である藤原惺窩が「誠の実直な士」と評した通りの、気品に満ちた最期でした。
残された竹田城と地元に語り継がれる広秀伝説
名君・赤松広秀の死によって、竹田城は城主を失い、そのまま廃城の時を迎えることとなりました。
しかし、彼が但馬の地に注いだ情熱と慈愛は、城が消え去った後も途絶えることはありませんでした。
広秀の手によって整備された総石垣は、400年以上の時を超えた今もなお「天空の城」の雄姿として山頂に残り続け、訪れる人々に当時の構想力の高さを物語っています。
また、広秀が奨励した産業や文化の芽は但馬の地に根づき、地元の人々は彼を「名君・斎村さま」と呼んで末永くその徳を称えました。
乱世の陰謀と理不尽な運命に呑み込まれ、三十代半ばという若さで命を散らした赤松広秀。
彼が遺した美しい石垣と高潔な生き様は、今も雲海の向こうで静かに輝き続けています。
まとめ
赤松広秀と天空の城・竹田城の悲劇|なぜ最後の城主は切腹させられたのか?
雲海に浮かぶ姿から「日本のマチュピチュ」「天空の城」として全国的に知られる兵庫県の竹田城。
その山頂に、今も残る見事な総石垣を築き上げた最後の城主をご存じでしょうか。
彼の名は、赤松広秀(あかまつ ひろひで / 別名・斎村政広)です。
広秀は優れた武将であると同時に、学問を深く愛し、領民から熱狂的に慕われた名君でした。
しかし関ヶ原の戦いの直後、彼は突如として「切腹」を命じられ、その波乱に満ちた生涯を閉じることになります。
なぜ天空の城を創り上げた稀代の名君は、命を落とさねばならなかったのか――。
戦国の激流に揉まれながらも着実に力を蓄え、竹田城に命を吹き込んだ彼の歩みとはどのようなものだったのでしょうか。
関ヶ原の暗転――鳥取城攻めと焦土作戦の罠にハマった。
但馬の地で領民に愛され、穏やかな文化事業と治世を続けていた赤松広秀。
しかし、慶長5年(1600年)に起きた天下分け目の「関ヶ原の戦い」が、彼の平和な日常と運命を大きく狂わせることになります。
東軍への寝返りと鳥取城攻略の命令に、関ヶ原の戦いが勃発した際、地理的な制約や周囲の情勢から、広秀は当初「西軍」への参加を余儀なくされました。
彼は西軍の勢力として、丹後田辺城(細川幽斎の居城)を囲む陣営に加わります。
しかし、関ヶ原の本戦において徳川家康率いる東軍が大勝利を収めると、戦況を一変させた東軍側から工作が入ります。
東軍の武将・亀井茲矩(かめい これのり)らの説得を受けた広秀は、即座に西軍を離脱して「東軍」へと寝返る決断を下しました。
東軍への恭順と忠誠の証として、広秀に下された命令。
それこそが、西軍の宮部長房が籠城する「鳥取城の攻略」でした。
城下町焼失の責任をなすりつけられた「無念の裏切り」とは?
赤松広秀と亀井茲矩の連合軍は、猛烈な勢いで鳥取城を包囲し、激しい攻撃を加え、見事な攻城戦の末に城を降伏させることに成功した二人でしたが、この戦いの最中に大惨事が発生します。
城下町で大規模な火災が発生し、町の大半が焼き払われてしまったのです。
戦後、鳥取城攻めの報告を受けた徳川家康は、「城下を焼くほどの過剰で無慈悲な破壊を行った」として激怒。
城下町焼失の責任を厳しく追及しました。
しかし、実際の焦土作戦(放火・焼き払い)を主導していたのは、攻城戦で焦りを見せていた亀井茲矩側だったという説が有力視されています。
自らの保身を図った亀井茲矩によって、すべての責任をなすりつけられる形となった広秀。功績を立てて生き残ろうとした「東軍への転身」は、信頼していた味方による「無念の裏切り」という最悪の罠へと変わってしまったのです。
散り際に見せた気品、財産を家臣に分けた見事な最期をみせた。
鳥取城攻めにおける城下町焼失の全責任を背負わされた赤松広秀に、徳川家康から下された裁定は「切腹」でした。
あまりにも理不尽で一方的な処分でしたが、広秀は見苦しい弁明や命乞いを一切することなく、その運命を静かに受け入れました。
死を前にした広秀が見せたのは、死への恐怖ではなく、最後まで「文人武将」としての矜持を貫く姿でした。
彼は手元にあった城の財産や個人的な遺品を、これまで尽くしてくれた家臣たちに漏れなく分配するよう指示。
乱世の陰謀と理不尽な運命に呑み込まれ、三十代半ばという若さで命を散らした赤松広秀。
彼が遺した美しい石垣と高潔な生き様は、今も雲海の向こうで静かに輝き続けています。