美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

小田原攻め

【豊臣兄弟!】なぜ北条氏政は秀吉に敗れたのか?小田原征伐の誤算と「関東の覇者」の評価

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「汁かけ飯」の逸話で知られ、後世の軍記物では「北条家を滅ぼした愚将」と評されることも多い北条氏政

しかし、後北条氏の歴史において勢力を最大版図にまで拡大させたのは、名将として名高い父・氏康ではなく氏政その人でした。

 

名だたる強豪と渡り合い、関東の大部分を治めた男が、なぜ「暗君」扱いされることになってしまったのか?

大河ドラマ『豊臣兄弟!』でも注目を集める北条氏政の「知られざる実力」と、名君でありながら豊臣秀吉に敗れざるを得なかった真実に迫ります。

 

 

 

北条氏政本当「暗君」だったのか?見直される実像

世間一般における北条氏政のイメージは、決して良いものとは言えません。

「名将である父・氏康の威光に頼り、最終的に豊臣秀吉に敗れて北条家を滅ぼした愚将」、そう捉えている方も多いのではないでしょうか。

しかし、近年の歴史研究では、そうした従来の暗君像を覆す「北条氏政の実像」が明らかにされつつあります。

 

 

 

定着してしまった「愚将」イメージと「汁かけ飯」の逸話

氏政が「暗君」と呼ばれる最大の要因となっているのが、あまりにも有名な「汁かけ飯(汁飯)」の逸話です。

ある日、氏政がご飯に汁を一度かけたものの、汁が足りずに二度目のお代わりをかけました。

 

 

それを見ていた父・氏康が、「毎日食べている飯にかける汁の量すら見極められないようでは、北条家の未来も思いやられる」と嘆いたというストーリーです。

 

いかにも氏政の不手際や先見性のなさを物語るエピソードですが、現在では後世の軍記物による脚色・創作である可能性が極めて高いと考えられています。

 

 

歴史の常として、合戦に敗れて滅亡した家やその当主は、勝者(この場合は豊臣側や後の江戸幕府)を正当化するために「滅びるべくして滅びた愚者」として描かれがちです。

氏政に貼り付けられた「暗君」のレッスンも、敗者の定命とも言える宣伝(プロパガンダ)の影響を強く受けているのです。

 

 

 

父・氏康えた?後北条氏の「最大版図」を築いた実力

では、実際の氏政の政治的・軍事的な実力はどうだったのでしょうか。

 

その問いに対する最大の答えが、「後北条氏の歴史において、領土を最大版図にまで拡大させたのは氏政である」という動かせない事実です。

 

 

「相模の獅子」と称えられた偉大な父・氏康から家督を譲り受けた後、氏政は関東の厳しい勢力図の中で巧みな軍事と外交を展開しました。

 

◇武田信玄・上杉謙信といった「戦国の怪物」たちとの駆け引きをして自分を有利に働きかけた。

◇常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏といった関東の強豪勢力の圧迫

 

 

これらを潜り抜け、相模・武蔵を基盤としながら、上野(群馬県)、下野(栃木県)、下総・上総(千葉県)、さらには常陸(茨城県)の一部にまで勢力を拡大。

 

 

関東の大半を支配下に収める「240万石」とも称される巨大な地域国家を創り上げました。

偉大な父・氏康の代でも成し得なかった「関東の大部分の統一」を果たしたのは、他ならぬ氏政です。

 

 

もし彼が真の「愚将」であったなら、武田や上杉、織田といった強国がひしめく戦国時代において、これほどの勢力拡大を成し遂げることは到底不可能です。

氏政は暗君どころか、北条家の歴史の中で最も広い領土を統治した「偉大なる覇者」であったと言えます。

 

 

 

なぜ氏政は強いのか?超一流だった内政と組織力

北条氏政が関東の大部分を支配し、巨大な領国を維持できた最大の理由は、単なる軍事力だけでなく「内政」と「組織運営」の圧倒的な巧みさにありました。

戦国時代の激浪を生き抜いた北条氏の強さの裏には、氏政の優れた領国統治と、強固な一門の結束がありました。

 

 

領民地元武士・国衆から絶大信頼ていた統治手法

北条氏の統治スタイルといえば、初代・早雲の時代から続く「領民ファースト」の政策です。

氏政もその伝統をしっかりと継承・発展させ、領内を安定させました。

 

 

特に有名なのが「四公六民」という低い税率の徹底です。

当時、多くの戦国大名が戦費調達のために過酷な年貢(五公五民やそれ以上)を課す中、北条氏は民の負担を極力抑えました。

 

 

さらに、正確な「検地」を実施して不当な徴税を防ぐなど、公正で透明性の高い民政を行っています。

 

 

この行き届いた統治は、農民だけでなく地元の武士階層(国衆)の心も強く引きつけました。

その成果が最も顕著に表れたのが、豊臣秀吉による「小田原征伐」です。

 

 

圧倒的な戦力差を前に、多くの大名家では寝返りや裏切りが相次ぐのが常でした。

 

しかし、北条方の国衆や支城の城主たちの多くは最後まで北条家への忠誠を尽くし、安易に寝返る者が出ませんでした。

 

この事実こそ、氏政がいかに領民や家臣から深く信頼され、愛されていた当主であったかを示す何よりの証拠です。

 

 

 

北条一門の強固な結束と関東防衛ネットワーク

もう一つ、氏政の指導者としての優秀さを示すのが「一門(親族)の圧倒的な団結力」です。

戦国時代といえば、兄弟や親子での骨肉の争い(お家騒動)が日常茶飯事でした。

 

しかし、北条家においてはそうした内紛がほとんど見られません。

 

氏政の周りには、非常に優秀な弟たちが脇を固めていました。

◇将武に長けた軍事の要:北条氏照(八王子城主)
◇北関東の抑えを担当した実力者:北条氏邦(鉢形城主)
◇外交能力に長け家康とも好親交を築いた:北条氏規(韮山城主)

 

 

氏政は彼ら弟たちを関東各地の要衝に配置し、それぞれの権限を尊重しつつも、長男・当主として見事に統率しました。

各支城と本城・小田原城は狼煙(のろし)や早馬を用いた密な情報ネットワークで結ばれ、有事の際には即座に連動して敵を挟み撃ちにする完璧な防衛体制を構築していました。

 

個性の強い優秀な弟たちを長年にわたって束ね上げ、巨大な組織を一枚岩として機能させ続けた氏政の統率力・人間力は、まさに超一流だったと言えます。

 

 

 

豊臣秀吉との決戦—「暗君」とされた最大の誤算

関東の覇者として君臨し、領国経営でも非の打ちどころがなかった北条氏政。

 

それほどまでに優秀だった彼が、なぜ後世に「滅亡を招いた愚将」と刻まれることになってしまったのでしょうか。

 ▲※.上記の「滅亡を招いた愚将」をクリックすつと詳しい記事があります。興味あり方はよpんでください。       

 

 

その原因は、氏政個人の能力不足ではなく、「豊臣秀吉という存在がもたらした時代の構造変化」にありました。

 

 

小田原城の圧倒的防衛力への自負と「時代の変化」

氏政が秀吉との全面対決において籠城戦を選んだ背景には、北条家が築き上げてきた絶対的な成功体験と自負がありました。

 

 

北条家の本拠地・小田原城は、かつて「軍神」と恐れられた上杉謙信や、戦国最強と名高い武田信玄という巨大な脅威の侵攻を、ことごとく退けてきた難攻不落の要塞です。

 

 

さらに氏政は、秀吉との対決に備えて小田原城の周囲に全長9キロメートルにおよぶ膨大な土塁と空堀「総構(そうがまえ)」を建設し、城下町ごと城内に包み込む前代未聞の大要塞へと拡張していました。

 

「どれほどの大軍が攻めてこようと、小田原城に籠もり、関東の支城ネットワークと連携して長期戦に持ち込めば、敵は遠征の疲弊と兵糧不足で自滅する」

 

 

氏政にとってこの防衛戦術は、これまで幾度も関東を救ってきた最も確実で実績のある必勝パターンだったのです。

 

しかし、この「過去の成功体験への確信」こそが、急速に変貌する時代の変化を見えにくくしてしまいました。

 

 

秀吉の「規格外の動員力」と全国規模の外交戦略</h3> 氏政の最大の誤算は、豊臣秀吉の持ち合わせたスケールが「これまでの戦国大名とは根本的に異なっていた」点にありました。

 

関東を中心とした地域国家の争い(ローカルな戦い)において、氏政の戦略眼や外交手腕は紛れもなく超一流でした。

 

しかし、西日本をほぼ手中に収め、関白として全国の武士を動員できる立場となった秀吉の国力は、北条家の想定をはるかに超える「規格外」のものだったのです。

◇20万を超える圧倒的な兵力の動員
◇水軍を駆使した太平洋からの海上封鎖と兵糧攻め
◇全国の蔵入地(直轄地)から無限に供給される兵糧と物資

 

 

秀吉は、かつて謙信や信玄が陥った「長期遠征による兵糧不足」という弱点を、全国規模の物流と圧巻の財力によって完全に克服していました。

 

さらに、北条家が頼みにしていた伊達政宗ら東北の大名に対しても事前に圧力をかけ、北条孤立化の外交包囲網を完璧に完成させていたのです。

氏政は決して「愚か」だったわけではありません。

関東という枠組みの中では極めて合理的に行動していましたが、日本全国の資源を一元化して押し寄せる秀吉の「近代的な戦争システム」の前に、従来の戦国大名の戦術が通用しなくなっていたと言えます。

 

「時代の変化を見誤り、新時代の怪物に敗れた」——この幕引きこそが、氏政が後世に暗君の烙印を押されることになった最大の要因でした。

 

 

 

まとめ

北条氏政は時代の波に呑まれた「関東の覇者」

長年にわたり「汁かけ飯の愚将」「北条家を滅ぼした暗君」として語り継がれてきた北条氏政。

 

しかし、その実像を紐解いていくと、世間のイメージとは大きく異なる姿が浮かび上がってきます。

 

 

偉大な父・氏康の時代を超えて後北条氏の「最大版図」を完成させ、四公六民に代表される手厚い内政によって領民や家臣から絶大な信頼を獲得した氏政。

 

 

彼はけっして愚将などではなく、戦国という乱世において極めて優秀な「地域国家のリーダー」でした。

 

彼の悲劇は、自らが能力不足だったことではなく、「豊臣秀吉」という時代の構造そのものを変えてしまった規格外の怪物と相対してしまったことにあります。

 

 

かつての強豪たちを退けてきた「難攻不落の小田原城」「強固な関東支配体制」——氏政が積み上げてきた絶対の自信と実績は、日本全土の兵力と財力を一元化した秀吉の新時代システムの前には、通用しなくなっていたのです。

 

 

時代の大きな転換期において、敗者となったがゆえに「暗君」の烙印を押されてしまった北条氏政。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』などで彼が登場する際は、単なる「滅びゆく愚かな敵役」としてではなく、関東の平定と発展に人生を捧げた「真の覇者」としての生き様にも、ぜひ注目してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

-小田原攻め

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。