幕末の志士・坂本龍馬の生涯には、数々の魅力的な女性たちの影がありました。
その中の一人で、北辰一刀流の使い手として「千葉の鬼小町」と称された美貌の女剣士・千葉さな子がいました。

▲上記の写真はイメージです、
江戸の桶町道場で龍馬と出会い、婚約を交わしたと伝えられる二人の関係は、どのようなものだったのでしょうか?
そして、龍馬の正妻・おりょうとの確執の真相や、龍馬の死後におりなした数奇な人生とは――。
千葉さな子は、北辰一刀流の使い手であり、坂本龍馬の婚約者としても知られる千葉さな子、文政10年(1827年)生まれの佐奈(さな)は、父・千葉定吉の桶町千葉道場で剣腕を磨き、北辰一刀流の小太刀免許皆伝や長刀師範の腕前を誇りました。
整った容姿から「千葉の鬼小町」「小千葉小町」と称され、その美しさと凛々しさは当時の記録にも残されています。
坂本龍馬とは江戸の桶町道場で出会い、お互いに心を通わせる中で婚約の誓いを交わしたとされています。
龍馬が姉の乙女に宛てた手紙の中で、佐奈の容姿について「顔は平井(加尾)よりも少しよい」と率直に書き送っているエピソードも有名です。
のちに龍馬が暗殺されたあとも、龍馬を深く想い続けた佐奈は、明治に入ってから一度は別の男性と結婚するものの離縁し、生涯独身を貫いて亡くなりました。
遺品となった、龍馬の形見の刀を大切に抱きながら生きたという話や、亡き妹の子を引き取って「龍太」と名付けたというエピソードからは、佐奈の胸中に秘められた、龍馬への変わらぬ想いが伝わってきて胸を打たれます。
この記事では、坂本龍馬と千葉さな子の知られざる関係から、結婚、お互いの胸中にあった想いまで分かりやすく紐解いていきます。
坂本龍馬と千葉さな子の出会いと「婚約」の真相
幕末の風雲児・坂本龍馬と、剣術道場の娘・千葉さな子。
▲ネットより引用した坂本龍馬(ソース:BUDO JAPAN)
二人の間には、単なる流派の師弟関係を超えた、切なくも深い絆が存在していました。
▲ネットより引用した千葉さな子
後世に語り継がれる二人の運命的な出会いと、龍馬の本音が明かされた手紙、そして「婚約」の真相について紐解きます。
桶町千葉道場での運命的な出会い
安政7年(1853年)、剣術修行のために、土佐から江戸へと上った坂本龍馬は、北辰一刀流の達人・千葉定吉(千葉周作の弟)が営む「桶町千葉道場」の門を叩きました。
この道場で龍馬を迎えたのが、定吉の次女である千葉さな子でした。
さな子は、幼少期から剣術の手ほどきを受け、十代にして北辰一刀流の小太刀免許皆伝を授かるほどの、類まれな剣の才能に恵まれていました。
さらに長刀(なぎなた)の師範代としても名を馳せ、その卓越した武芸と凛とした美貌から「千葉の鬼小町」と称えられていたほどです。
剣術に励む武者修行者と、道場を守る若き女性剣士。
武芸を通じて汗を流し、互いの技と志を高め合う中で、二人の距離は自然と縮まっていきました。

▲上記の写真はイメージです。
龍馬が姉・乙女に宛てた手紙に記した評価
龍馬自身も、さな子の存在を深く意識していたことが史料から確認できます。
龍馬が故郷・土佐にいる最愛の姉・乙女に宛てて書いた手紙の中には、さな子について率直な印象を綴った有名な一節が残されています。
手紙の中で龍馬は、さな子の容姿や性格について「顔は平井(加尾、龍馬の初恋の人とされる女性)よりも少しよい」と評価し、さらに「乗馬も上手く、剣術も強く、長刀も使え、力も強い」と、その万能な武芸と健やかさを絶賛しました。
当時の龍馬にとって、さな子は単なる道場の娘ではなく、男勝りの実力と美しさを兼ね備えた、特別な尊敬と好意を抱く対象であったことが覗えます。
二人は本当に婚約していたのか?
龍馬とさな子の関係に、おいて最大の謎とされているのが、「二人は本当に婚約していたのか」という点です。
結論から言えば、公式な婚姻届のような制度がなかった当時において、二人は「事実上の婚約関係」にあったと考えられています。

▲上記の写真はイメージです。
さな子の実家である、千葉家側の伝承や記録によれば、龍馬が京へ上る際、定吉から結婚の許しを得て、龍馬からさな子へ「紋付の袖(着物の一部)」が結納の品代わりに贈られたと伝えられています。
しかし、激動の時代は二人を穏やかな夫婦としては過ごさせませんでした。
龍馬は討幕運動の渦中へと飛び込み、やがてお龍(楢崎龍)と出会って祝言を挙げることとなります。
龍馬が近江屋で暗殺された、慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都の醤油商「近江屋」で何者かに襲撃され、33歳で死亡しました(近江屋事件))。
後も、さな子は生涯「龍馬の妻」であることを誇りとし、再婚することなく独身を貫きました。
と言い伝えられてきましたが、明治時代に元鳥取藩主・山口菊次郎と一時結婚してたとする記録や新聞記事が発見されており、菊次郎の身持ちの悪さから、10年たたずに離縁、千住に移り住み亡くなっています。
彼女が明治時代に没した際、谷中の墓石には「坂本龍馬室(妻)」と刻まれました。
北辰一刀流の絆で結ばれた二人の想いは、時代の波に引き裂かれながらも、さな子の生涯かけた一途な愛によって証明されていると言えます。
2. なぜ結ばれなかった? 龍馬の真いつと時代の背景
北辰一刀流の道場で出会い、将来を誓い合ったとされる坂本龍馬と千葉さな子ですが、二人が夫婦として結ばれることはありませんでした。
なぜ、龍馬は約束を果たせなかったのか、そしてなぜ、さな子は龍馬が亡くなった後4年後、山口菊次郎と結婚して10年近く結婚生活をしたのか?
その背景には、幕末という過酷な時代に翻弄された二人の宿命と、互いを想い続けた強い絆がありました。
約束を果たさぬまま旅立った龍馬
桶町千葉道場を後にして、京都や全国を駆け巡るようになった龍馬は、倒幕や新日本の礎を築くため、一瞬の猶予もない奔走の日々を送っていました。
土佐藩からの脱藩という立場であり、いつ命を落としてもおかしくない極限の情勢下において、龍馬にとって結婚や家庭の維持は容易に選べるものではありませんでした。
「いつか江戸に戻り、約束を果たしたい」という想いはあったはずですが、天下の動乱を収めることが最優先される中、個人の私生活や結婚の約束を果たす余裕は失われていきました。
結果として、龍馬は京都でのお龍(楢崎龍)との出会いを経て祝言を挙げることになり、さな子との約束は果たされないまま時は流れていくことになります。
形見の刀と「許嫁」としての誇り
龍馬が京都で客死したという悲報が、江戸の千葉家に届いたとき、さな子が受けた衝撃と悲しみは計り知れないものであったと伝えられています。
龍馬が去った後、さな子は龍馬から贈られたとされる形見の品、一説には龍馬の愛刀や羽織などを、肌身離さず大切に持ち続けました。
周囲から結婚を勧められてもそれを一切拒み、「自分は坂本龍馬の妻である」という強い誇りと気高さを胸に抱き続けました。
明治維新という新しい世を迎えても、さな子の心の中から龍馬が色あせることはありませんでした。
晩年になっても、龍馬の面影を偲び、龍馬の墓所へと通ったといわれています。
時代の波に引き裂かれ、正式な夫婦としては結ばれなかったものの、さな子が命懸けで貫いた一途な愛は、二人の間に確かな絆があったことの動かぬ証となっています。
3. 妻・おりょうと千葉さな子の確執
坂本龍馬の人生において、欠かすことのできない二人の女性、正式な妻として共に時間を過ごした楢崎龍(おりょう)と、心で結ばれていたとされる千葉さな子。
生き方も育った環境も全く異なる、この二人の間には、龍馬の死後も語り継がれる複雑な因縁と確執の噂が存在しました。
龍馬を巡る二人の女性の、対比とお龍が残した言葉からその真相に迫ります。
龍馬を巡る二人の女性の対比
おりょうとさな子は、それぞれ全く異なる魅力と強さを持った女性でした。
妻・おりょう
自由奔放で行動力に満ちた妻・おりょう、京の伏見・寺田屋で働いていたところを龍馬と出会い、その男勝りの度胸と機転で龍馬の命を何度も救ったことで知られる女性です。
身分の束縛に囚われず、龍馬にとって「同志」であり、最も自由な心で寄り添える生涯の伴侶となりました。
婚約者・千葉さな子
武家のお嬢様であり凛とした剣士だったさな子、 江戸の剣術道場の娘として、礼儀や武士の誇りを重んじ、北辰一刀流の腕前を磨き上げた凛とした気品を持つ女性です。
龍馬と出会い、将来を誓い合った(とされる)誇り高きお嬢様でした。
一方は危険な脱藩浪士の妻として全国を共に駆け巡り、もう一方は遠く江戸の地で龍馬の帰りを待ち続けた。
あまりにも対照的な二人の存在は、のちに龍馬の伝説を語る上で欠かせないドラマを生むことになります。
おりょうが残したさな子への厳しい記述
龍馬の死後、二人の女性の間に生まれた「確執」を象徴するのが、晩年のおりょうが語ったとされるさな子への言葉です。
おりょうは、後年の聞き書きの中で、さな子について「龍馬には妻などいない」。
あの女(さな子)が「勝手に妻だと騒いでいるだけだ」といった主旨の、非常に厳しい言葉を残しています。
正式に祝言を挙げ、龍馬の最期を看取った自負があるおりょうにとって、江戸で「自分こそが龍馬の妻(許嫁)」と主張し続けたさな子の存在は、面白いはずがありませんでした。
しかし、この言葉の背景には、単なる嫉妬だけでなく、過酷な幕末を龍馬と共に生き抜いたおりょうなりの「自負」と、遠く離れた場所で、龍馬への想いを貫き通したさな子に対する複雑な葛藤があったと考えられています。
お互いに深く龍馬を愛し、それぞれの立場で、龍馬の面影を背負って生きざるを得なかったからこそ、二人の女性の間には交わらない感情の溝が生まれてしまったのかもしれません。
龍馬の死後、それぞれの「結婚」と人生
慶応3年(1867年)11月、坂本龍馬は京都の近江屋で暗殺され、その波乱に満ちた生涯を閉じました。
龍馬の早すぎる死は、残された人々、特に彼を深く慕っていた、千葉さな子の人生を大きく狂わせることになります。
激動の明治時代を迎え、彼女がどのような思いで「龍馬亡き後の人生」を歩んだのか、その知られざる足跡を辿ります。
龍馬の暗殺と、さな子のその後の人生
龍馬の暗殺という痛ましい報せが江戸の千葉家に届いた際、さな子は深い悲しみに包まれました。
二人が未来を誓い合った、道場で流した汗と時間は、一瞬にして帰らぬ思い出となってしまったのです。龍馬が、この世を去った後も、さな子の心から彼の存在が消えることはありませんでした。
周囲の勧めに対しても「自分には誓いを立てた龍馬という夫がいる」とし、龍馬への貞節を守るかのように生涯を独身で貫いたという伝承は、長年にわたり人々の胸を打ってきました。
明治に入ってからの結婚と離縁
しかし、近年の史料研究や一族の記憶によれば、さな子は明治以降、一度だけ結婚(婚姻関係)を経験していたという事実が明らかになっています。
明治に入り、さな子は鳥取藩士であった山口菊次郎という人物と結婚しました。
しかし、この結婚生活は長くは続きませんでした。
一説には、さな子の心の奥底に、常に龍馬という大きな存在が残り続けており、夫との間に埋められない心の距離があったからだとも言われています。
結局、二人の婚姻関係は数年で破綻し、離縁(離婚)という結末を迎えました。
一度は別の道を歩もうとしたさな子でしたが、誰と添い遂げようとも龍馬への想いを断ち切ることはできなかったのです。
亡き妹の子「龍太」に込めた想い
離縁後、再び独り身となったさな子は、灸治院(針灸師)を開業して自立した生活を送りながら、静かに晩年を過ごしました。
子供を授からなかったさな子は、早世した妹の息子を養子として引き取り、我が子のように慈しみ育てました。
そして、その愛しい養子に「龍太(りょうた)」という名前を授けたのです。
「龍」の一文字を名前に込めたこの選択にこそ、さな子が生涯をかけて貫いた龍馬への変わらぬ深い愛と絆が象徴されています。
明治29年(1896年)、さな子は58歳でこの世を去りました。
山梨県甲府市の清運寺にある彼女の墓碑には、生前の意向を受け、「坂本龍馬室(妻)」の文字が刻まれました。
時代の波に引き裂かれながらも、最期まで龍馬の妻であることを誇りとした、一途で気高い生涯でした。
5. まとめ
時代に翻弄されながらも一途に愛を貫いた女剣士の生き様
幕末という巨大な変革期において、武芸に秀でた凛とした魅力を放ちながら、一人の男を生涯愛し抜いた千葉さな子。
彼女の誇り高く一途な生き様は、時を超えて今なお多くの人々の心を惹きつけて止みません
。
龍馬の心に深く刻まれた「北辰一刀流の誇り」と「真実の愛」
「千葉の鬼小町」と称されるほどの剣術の腕前を持ち、北辰一刀流の師範として名を馳せたさな子は、龍馬にとって単なる道場の娘ではなく、武人として深く尊敬し合える特別な存在でした。
龍馬が姉・乙女に宛てた手紙の中で見せた絶賛の言葉は、彼の心の中にさな子がどれほど鮮烈で、魅力的な女性として刻まれていたかを物語っています。
幕末の激動の中で約束は果たされず、運命は二人を別々の道へと引き裂きました。
しかし、龍馬から贈られた品を大切に抱き、明治の世を生き抜き、養子に「龍」の名を託したさな子の生き様は、形としての結婚を超えた「真実の愛」の姿そのものでした。
時代を美しく駆け抜けた一人の女性としての輝き
武家社会の価値観が崩壊し、新しい明治という時代へと移り変わる中でも、さな子は己の誇りを失うことなく、針灸師として自立した強い意思を持って生きていきました。
最期を迎えた際、墓碑に刻まれた「坂本龍馬室」の文字。
それは、権力や時代の都合に左右されることなく、自らの意志で坂本龍馬という男を愛し抜いた、一人の女性の気高く美しい美学の証です。
坂本龍馬という大きな光の影で、自らの信念と誇りを胸に、一途な愛を貫き通した千葉さな子。
さな子の気高くも儚い人生は、幕末という爛漫の時代に咲いた、一輪の忘れがたき名花と言えます。