美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

三英傑

信長・秀吉・家康の歳の差と出身地と3英傑のホトトギスで性格を見てみよう

投稿日:2023年1月18日 更新日:

尾張国三英傑を出した地です。

誰でも知っている信長・秀吉・家康の三名です。

 

 

それぞれ生き方、人の使い方は一長一短ですが、あなたなら誰が好みでしょうか?

 

 

この中で先祖がまともなのは織田信長一人です。

後の2人はどこの馬ともわかりません。

 

 

秀吉は名古屋の中村区の西の方の出身?になっています。

日吉丸と言って百姓だというが本当にそうだろうか?

 

 

父親は木下弥右衛門という侍だ、侍と言ってもピンキリがあるから・・・。

     ▲中村区にあります。

 

 

生誕地を中村公園秀吉と検索するとこの画像が出てきます。

また、名古屋市御器所で検索すると母親の生家が出てきます。
これも一つの謎です。

 

 

 

歴史って証拠を元に推察するから不思議ですネ

 

 

こちらの家康の方も違和感があります。

家康の先祖は、関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足利氏の追補を避けるために父・有親と共に相模国の時宗総本山浄光寺に入って出家し徳阿弥と称したとされる。

 

 

「乞食僧」「一種の賎民」※2と表現される場合もある。

※2.賎民(せんみん)とは、通常の民衆よりも下位に置かれた身分​​、または、その者をさすとなっています、そんな賎民が源氏の生まれとは思えない。
​​

 

 

そんな時宗の僧※1と身を変じ徳阿弥となって諸国を流れ歩いた。

※1.時宗(じしゅう)とは。鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教。開祖は一遍(いっぺん)。鎌倉仏教のひとつ。

 

 

たまたま、諸国を訪ね歩いてて、西加茂郡の松平家に婿養子して、頭の良さと運があって、松平家の当主に気に入られ婿養子となったのが初代の氏親ですから、そんな人間が源氏の系統とはおかしいが、征夷大将軍まで上り詰めて徳川幕府を約300年にわたって続けた徳川氏は立派です。

 

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三英傑の先祖生い立ちをみていきましょう

織田信長

まず、信長の先祖のルーツは、ここで説明すると長くなるので、“かまくら家系図作成所”のURLを載せてきますので興味のある方はご覧になってください。
https://kamakura-kamome.com/15907250185511です。

 

 

信長が生まれた所から

尾張国出身、那古野城(現。名古屋市中区)という説と尾張国勝端城(現・愛西市勝幡町・名鉄電車津島線の勝幡「駅」特急あり)こっちの方が正しいと思います。

※ここに信長の幼少時代と美濃国岩村城の女城主とされるおつやの方が遊んだであろう勝端城の記事があります、興味ある方は読んでください。

 

 

生誕日

天文3年5月12日(ユリウス暦1534年6月23日、グレコリオ暦1534年7月3日)※3

※3.暦の違いユリウス暦とは、原則として、4年毎に閏年を儲ける現在の暦の元となった暦法をいいます。
グレゴリオ暦とは,100の倍数の年に閏年を置かないで400の倍数の年にまた閏年を置く難しい暦法です。(以下秀吉も家康も同じです)

 

 

本拠地

勝端城から那古城→清洲城→小牧山城→岐阜城→上洛(京で泊まる時は本能寺などの寺社に逗留した。)安土城

 

 

豊臣秀吉

幼名は日吉丸、百姓の出というが、尾張国中村の木下弥右衛門の子という事は下っ端の武士?じゃないかと推測します。

 

 

出自に関しては、通俗的に知られているが史学としては諸説から確定的な史実を示すものはないです。

 

 

【参考】生母である大政所(「なか」という名で呼ばれていた)は、名古屋市昭和区御器所の一角に生家を示す碑があります。ひょっとすると秀吉もそこで生まれた場所ではないか。

 

 

生誕日

天文5年2月6日(ユリウス暦1537年3月17日、グレゴリオ暦15373月27日)
信長との歳の差は2歳9ケ月若い。

 

 

改名

日吉丸→木下藤吉郎→木下秀吉→羽柴秀吉→平秀吉→藤原秀吉→豊臣秀吉。

 

 

本拠地

生涯の大半が家臣であったため、城は持ってないので城代を含む。
横山城(城代:現・滋賀県長浜市堀部町-石田町)長浜城(城主:現・滋賀県長浜市公園町)→姫路城(城主:現・姫路市)→大阪城(現・大阪市中央区。政権主宰者として初の「本拠地」。

 

ほぼ同時期に朝臣(公家)豊臣氏の本邸 として「聚楽第(現・京都市上京区)を造営)→伏見城(隠居城:現・京都市伏見区桃山町。終焉の地)。

 

 

徳川家康

生誕日

岡崎城主・松平広忠(父・松平清康)の嫡男として岡崎城で生まれる。
生母は緒川城主水野忠政の娘・於大。

 

 

幼名は竹千代、3歳の頃、於大の父・水野忠政没後に水野氏当主となった水野信元(於大の兄)が尾張国の織田氏と同盟し、織田氏と敵対する駿河国の今川氏に庇護されている竹千代の父・松平広忠は於大の方を離縁。

 

 

竹千代は3歳にして母と生き別れになる。

 

 

 

天文11年12月26日(ユリウス暦1543年1月31日、グレゴリオ暦1543年2月10日)。

 

 

信長との歳の差8歳5ヶ月位、秀吉との歳の差5歳8ヶ月位。

 

 

 

本拠地

岡崎城→今川氏へ人質・仕官、この間の岡崎城は今川氏の家臣が城代として入っていた。→自立して岡崎城へ入る。→浜松城→駿府城→江戸城→駿府城(隠居城)

 

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信長・秀吉・家康の性格

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康については、その性格を言い表した有名な狂句※4があります。

※4.狂句(きょう区)とは、近世後期に生まれた日本における定型詩のひとつです。

本来、川柳と同じもので、初代川柳没後、四世川柳の後に、川柳風の作品に「俳風狂句」と名付けたのが始まりだといいます。

 

 

三英傑がそれぞれ歌ったと思わないで欲しいです、この歌はこれらの歌は,肥前国(長崎県)の平戸藩主である松浦静山の随筆「甲子夜話」に書かれた本に載っています。

 

 

織田信長 「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」

信長は気性が激しく短気なので、鳴かないホトトギスを殺せと命じた。

 

 

 

豊臣秀吉

豊臣秀吉は知恵者なので、鳴かないホトトギスを鳴かせようと工夫した。

「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」

 

 

徳川家康

「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」

家康は若い頃からの苦労人で辛抱強かったので、鳴かないホトトギスを鳴くまで待ったのである。

 

 

それぞれの性格をあらわしていて興味深い。

この3つの狂句は、第9代平戸藩主・松浦静山の随筆『甲子夜話』に書かれたものである。

 

 

『甲子夜話』は文政4年(1821年)から書かれ、静山が亡くなる天保12年(1841年)に完成した。

 

 

正編100巻、続編100巻、第3編78巻に及ぶ浩瀚な著作である。

 

 

この3句は「詠み人知らず」となっており、いつ誰が詠んだのかは不明である。

 

 

3人の天下人の性格が実際にこの狂句のとおりなのか不明であるが、江戸時代末期にはすでに定着していた可能性がある。

 

 

-三英傑

執筆者:

東美濃の岩村城の歴史(いまから800年余に鎌倉時代に築城された山城、日本三大山城の一つ、他に岡山の備中『松山城」奈良県の「高取城」があります)について書いています。のちに世間に有名な人物は林述斎・佐藤一齋等を輩出した岩村藩は江戸時代になって松平乗紀(のりただ)が城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とた。気楽に読んで頂ければ嬉しいです。