細川家伝来の名刀・「古今伝授の太刀」とは?
鎌倉時代に活躍した豊後国の刀工、行平の作。
この刀は、細身で反りが高く、小峰の刀身は平安時代から鎌倉時代初期の太刀の特徴である。
腰の部分には、表に梵字と倶利伽羅(剣に絡みつく竜)、裏には仏像が掘られている刀。
▲イメージ
この刀を携えて、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下人に仕えた細川幽斎が、細川家の家名と文化の継承にかけた強い思いが伝わる。
文が武を止めた証の刀
豊後の刀工で後鳥羽院御番鍛冶を務めた行平の作刀。
この行平の作刀は、徳川家の武将・細川幽斎(藤孝)のもともと細川家の蔵刀であった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦として、西方の武将・小野公郷は兵一万五千を率いて田辺城が囲んで幽斎を攻めた。
▲田辺城
幽斎は五百足らずの兵で籠城戦を続け死を覚悟していた。
幽斎は、武将であると同時に二条流の歌道に精通した、当代随一の歌人であり「古今伝授」の唯一の伝承者でもあった。
▲「古今和歌集仮名序」(巻子本)仮名序の冒頭。「古今倭歌集序」と最初に書くが、通常の「『古今和歌集』の伝本には、この題はない。12世紀頃の書写で国宝に指定されています。大倉集古館蔵。
もし、この戦いで幽斎が討死すれば文化的な損失は計り知れなかった。
幽斎の門下にあった、八条宮智仁親王は何度も和議を試みた。
幽斎の決意は固く城と共に死ぬ覚悟であったが、ついには御陽成天皇の勅旨が下りにいたり幽斎は二ヶ月に渡る籠城を解いた。
雅の道である古今伝授が、血生臭い戦いを止めた。
そして後に幽斎が勅使に送った行平にも、古今伝授の名が冠されるようになった。
細川幽斎とはどういう人物か
細川藤孝・長岡藤孝・長岡幽斎と名を変えて戦国時代から江戸初期に活躍した武将で、和歌の達人。
▲細川幽斎
明智光秀の娘・珠(細川ガラシャ)を嫡男・細川忠興の嫁にした義父。
平安以来受け継がれた「古今和歌集」解釈の秘伝を武士の身でありながら継承していた、いわゆる『古今伝授』である。
天文3年(1534年)4月12日三淵晴員の次男として、京都東山にて誕生。
幼名は万吉、或いは熊千代と名乗っていた。
天文9年(1540年)7歳で和泉半国守護・細川元常(三淵晴員の兄とされる)の養子となった。
近年、細川晴広の養子となったという説もある。
元服して藤孝を名乗った。
天文15年(1546年)、13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える、その時分に明智光秀と面識ができただろうと推測します。
永禄8年(1565年)に、将軍・足利義輝が三好三人衆に討たれ(永禄の変)、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、兄・三淵藤栄を始め、一色藤長・和田推政・仁木義政・米田求政らと協力してこれを救出し、近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の擁立に奔走した。
当時は貧窮してて灯籠の油さえ事欠くほどで仕方なく社殿から油を頂戴することもあったようです。
その後、明智光秀を通じて尾張国・織田信長に助力を求めることとなり、永禄11年(1568年)9月、信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。
義昭が征夷大将軍に任じられ後(つまり10月18日より後)細川藤孝は9月29日に岩成友道から奪還した山城国勝竜寺城を与えられた。
織田信長の協力を得て15代将軍・足利義昭の擁立に尽力した。
後に足利義昭が信長に敵対し京都を追われると、信長に従って名字を長岡に改め、勝竜寺城主を経て丹後国宮津11万石の大名となった。
後に長岡に改名、雅号は幽斎、幽斎は元気4年(1573年)に室町幕府が7月18に滅亡し、7月28日元号が元亀から天正に替わった年に、長岡に改姓、天正10年(1582年6月2日は本能寺の変起きる)本能寺の変後、信長の死に殉じて剃髪して家督を息子・忠興に譲ったが、その後も豊臣秀吉・徳川家康に仕えて重用され、近代大名肥後細川家の礎となった。
長岡幽斎を名乗っていたが、細川姓に復したのは幽斎の死後、細川忠興の代である。
二条流の歌道伝承者・三条西実枝から伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。