細川ガラシャが嫁いだ細川家は、加藤清正が中世城を取り込み改築した平山城で、清正改易後は細川氏が肥後熊本県の熊本城の城主で明治維新を迎えました。
また、今上天皇は父・明智光秀、娘・玉(珠)の血を引く、細川家・明智家・前田家の子孫でもあります。
細川家ってあの有名な細川藤孝という侍が活躍した人で、確か室町幕府の13代将軍・足利義輝が三好三兄弟に襲われて討死する時に活躍した人物ですよね。
もっと簡単に言えば明智光秀と共に第15代足利義昭を将軍にしたくて織田信長に上洛させた人物。
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その細川藤孝の先祖は、清和源氏の嫡流で室町幕府の管領家の足利義康から始まった家。
▲藤孝からの系図です。
※上記の系図で光秀の娘・玉(珠)から見て頂くと、光秀の「明智系図」によると、清和源氏の中でも摂津源氏の流れを汲む土岐氏の支流氏族だとされておます。
母のお牧の方は、若狭武田氏出身で甲斐源氏の血を受け継いでいます。
また、斎藤道三の正室・小見の方は光秀の父の妹で帰蝶(濃姫)の母親のため光秀とは従妹同士です。その夫・信長とも義理の従兄弟同士になります。
そこに光秀の娘・玉(珠)が嫁いだ、凄い美人でキリスト教にのめり込んでいて、関ヶ原の前哨戦で、家康の次男・結城秀康と共に上杉軍を関ヶ原に来させないように出陣してる隙に、石田三成に人質になれと言われて断った女性で、彼女はキリスト教のため自害することが出来ず家臣に頼んで命を絶った。
※上記の結城秀康をクリックして頂くと上杉軍との記事があります。興味ある方はご覧になってください。
では、細川家の系図をみてみよう
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細川家のルーツをみてみよう
細川氏は足利氏の一族で、足利義康の曾孫・足利義季が、三河守護・足利義氏にしたがって三河国額田郡細川郷(岡崎市)に移り、細川氏を称したことに始まります。
鎌倉時代は幕府の御家人となりました。
足利尊氏が挙兵すると従い、室町幕府が成立すると一族で八カ国の守護を努めました。
細川清氏は2代足利将軍・足利義詮によって、幕府の執事に抜擢されました。
後に追放され南朝に付きましが、従兄弟の細川頼之によって追討され、新たの細川頼之が細川氏の惣領になった。
その後、菅領※1となり3代足利将軍・足利義満を補佐していきます。
細川義之の跡を弟の細川頼元が継ぎ、右京太夫の唐名※2から京兆家と呼ばれました。
※1.管領(かんれい)とは、室町幕府において将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
幕臣の筆頭として、足利将軍家における重要な儀式(元服・就任・任官関係)に参列して行事を執り行った。
足利氏家宰である執事の後継である。管領職に就任することができる家格である三管領家についても本項で解説を行う。
※2.唐名(とうめい・とうみょう・からな)とは、日本の律令制下の官職名や部署名を、同様の職掌を持つ中国の管称にあてはめた雅称。
子孫は、摂津・丹後・隠岐・土佐の四か国の守護を世襲し管領を務め、斯波氏、畠山氏と共に三管領と称されます。
細川持之は6代足利将軍・足利義教の代に管領となりましたが、将軍・足利義教の専制※3を抑えられませんでした。
※3.専制とは、物事、特に政治を、独断で思うとおり処理すること。「ー君主」。
嘉吉の乱で、足利義教が赤松満祐に殺されると幼少の足利義勝を7代足利将軍として、細川持之は赤松満祐を討った。
細川持之の嫡男・細川勝元(細川京兆家11代当主)は三度管領に就任しました。
細川勝元は山名宗全との対立や畠山家の相続問題などから応仁の乱が起こると東軍の総大将を努めましたが、その最中に病死してしまった。
跡を継いだ細川政元は、10代足利将軍・足利義材(後の義稙)を将軍の座から追い落とし、従弟の義澄を11代足利将軍に就けて幕府の実験を握り、半将軍と呼ばれました。
細川政元は妻を娶らなかったので、公家の九条家から細川澄之を、阿波守護家からは細川澄元を、野州家からは細川高国を、それぞれ養子をもらいましたが、家督をめぐる内紛が起こり衰退していきます。
野州家から来た細川高国は、先の細川政元が追い落とした、10代足利将軍・足利義稙を再度将軍に就けて、自分は管領になった。
その後、将軍・足利義稙と対立すると、前将軍・足利義澄の子・義晴を12代足利将軍に就けるものの、細川澄元の子・晴元らに攻められ自刃しました。
細川晴元は家臣の三好長慶と対立して敗れ、三好長慶は細川氏綱を擁立して京兆家を継がせるも実権はありませんでした。
細川藤孝は養子
細川藤孝は、7歳で和泉半国守護・細川元常(父・三淵晴員の兄)の養子となったという。
三淵晴員とは、藤孝の父で京都東山で藤孝は次男として生まれる、父と共に12代足利将軍・足利義晴の近臣であった細川晴広を藤孝の養父という説が近年有力視されてます。
天文15年(1546年)、13代足利将軍・足利義輝の偏諱を受け与一郎藤孝を名乗った。
幕臣として足利義輝に仕え、天文21年(1552年)に従五位下兵部大輔に叙任される。
永禄8年(1565年)に将軍・足利義輝が三好三人衆に討たれた永禄の変後、その弟の一乗院覚慶(後に還俗して足利義昭)が興福寺に幽閉されると、救出し義昭を擁立に奔走し、その後、明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求めた。
永禄11年(1568年)9月に織田信長が義昭を奉じて入京し、藤孝もこれに従った。
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江戸幕府の外様大名
本家は肥後熊本藩主となり、和泉半国守護・細川元常の甥で養子の藤孝より起こる。
藤孝は足利・織田・豊臣氏に仕え丹後田辺城主、その子細川忠興は徳川家康に属し豊前小倉藩主となり、父子ともに故実、歌道などに長した。
忠興の子・細川忠利は、寛永9年(1632年)熊本54万石を領した。
▲熊本城
子孫相継いで外様雄藩の城主、また元総理細川護煕も
江戸中期の細川重賢は、藩政改革に務め名君として知られるし、忠興の弟・興元・忠利の甥・行孝、孫・利重はそれぞれ常陸矢田部藩、肥後宇土藩、新田藩(後の高瀬藩)の初代藩主となって、明治維新後は4家共に華族に列し、熊本の本家は侯爵、他の3家は子爵となりガラシャ・光秀の血を引いている。
第79代・内閣総理大臣になった細川護煕氏は肥後熊本細川家の第18代当主になります。
初代藩主は、ガラシャと忠興の三男・細川忠利です。
肥後細川家は直系男子が途絶え、養子を迎えたこともありましたが、元・総理の祖父が細川忠利の兄・忠隆の末裔であるため、明智光秀・ガラシャの血が流れていることになります。
また、細川隆元・細川隆一郎(政治評論家、政治記者)として活躍してた二人は、細川忠興とガラシャの子孫です。