将軍・吉宗といえば「暴れん坊将軍」というイメージがあると思います。
何故ならドラマが有名で江戸の町に出て活躍する筋書きですが、実際には、そんなに城から出入りできるわけもないし、吉宗は暴れん坊将軍ではないようです。
なぜ暴れん坊の異名がついたかは定かではありませんが、吉宗は、御三家の一つ紀州藩・第2代藩主・徳川光貞の四男として、貞享元年(1684年)10月に和歌山で誕生します。
本来なら四男坊であるから紀州藩を継げる訳もなかったが、突然兄達が死去してしまったので継いだのであった。
吉宗は、徳川家康の曾孫に当たるし、4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉とは「はとこ」※1にあたるし、生誕は貞享元年(1684年11月27日〜)・将軍在職は享保元年(1716年)〜延享2年(1745年)の間です。
※1.はとことは、又従兄弟と同じです。正式名称は、再従兄弟・再従姉妹です。親同士が「いとこ」である子と子の関係のことです。
宝永2年(1705年)に長兄である和歌山藩主第3代・徳川綱教が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐが、父・光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州家を相続して藩主に就任。
藩主に就任する際、将軍・徳川綱吉から偏諱を賜り、徳川吉宗と改名する。
藩主となった吉宗は、藩政改革をやった、2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課※2、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年の宝永地震・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮した吉宗です。
※2,賦課(ふか)とは、税金などを割り当てて負担させること。
また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り(後の目安箱設置、いま残っているのは恵那市岩村町の岩村歴史館に目安箱が残っていますが吉宗が設置したものかどうかはわかりません)洞川、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めていた。
▲岩村資料館にある目安箱
享保元年(1716年)に第7代徳川将軍・徳川家継が8歳で早世したため、第8代征夷大将軍・徳川吉宗になった。
徳川家康と徳川吉宗は薬好き将軍
徳川吉宗というと日本人に馴染みの深い将軍、先駆的な経済政策を行うなど、江戸時代の一つの節目であると共に、近代に繋がっていると思われます。
▲徳川幕府八代将軍・徳川吉宗
そして、その仕事は以外にも朝鮮と深い関わり合いがあった将軍でした。
そのキーワードは薬です。
吉宗の願いは「薬好きの将軍」というのが徳川家の伝統とされていました。
代表的なのが徳川家康で、自ら薬を調合して家臣に飲ませたという記録があり、吉宗や祖父・徳井頼宣も大変な薬好きでした。
薬園を作って中国や朝鮮の薬材となる植物を栽培するほか、吉宗は当時の薬学である「本草学」の専門家を民間から実力試験で登用し、優秀な者には御典医を任せています。
現代の総理大臣のように派閥メインで決めるのは止めてほしい、その道に精通した人に決めて欲しい。
倹約主義の吉宗は大胆にも栽培を思いつく
そんな将軍・吉宗がとても我慢できなかったことは、当時中心的な薬材だった朝鮮人参が非常に高値で売られていることでした。
そのころの日本は「人参ブーム」で、朝鮮から大量の人参が輸入され、対馬藩直営の江戸の「人参座」で商われていました。
その値段は1 斤(600g)※3で、農家の出稼ぎの1年の収入の 10倍以上に相当するほどの高値でした。
※3.一斤とは、市販の食パンは1斤、2斤という単位で行っています。この「斤」という単位は古くから使われている単位です。
背景には、庶民にまで人参の多用現象が浸透していたので、これを何とかせねばと思い、日本の医師が怠慢で研究不熱心で、どんな病気でも人参を勧めてしまうのでした。
そのため、娘の身売り話が出たり、人型に近い人参ほど悪気を吸い取ってくれるといって神棚に上げて大事にしながらスライスして煎じて飲むといったように、人参自体が神格化していった。
倭館が作成した報告絵図。
克明に描かれた図から、これが今では絶滅したカンムリツクシ ガモの雄であることが判明した。
医学先進国朝鮮近世に、民間人まで突然人参を多用するようになった背景には、朝鮮医学の影響がありました。
進歩してた朝鮮医学
朝鮮の医学は中国の医学と区別なく日本に入ってきて、「唐薬」といわれていましたが、源をたどると朝鮮から入ってきたものが多いことがわかります。
高麗末期ごろから朝鮮では医学が非常に盛んになっていきます。
単に中国の医学を写し取るのではなく、それを消化吸収した上で独自の学問を形成していったのが朝鮮医学です。
▲朝鮮人参と他の薬剤
15世紀初めの世宗大王の時代に朝鮮医学は全盛期を迎え、制度的にも充実していきます。
朝鮮時代を通じて、200種類以上の独自の医学書が刊行され、16世紀までには朝鮮医学の基本が完成していたといわれています。
文禄・慶長の役の略奪品の中で、印刷が非常に優れていた朝鮮の書籍は日本でとても尊重されました。
やがてその中に多くの医学書があることが判明し、日本の有力者のレベルで朝鮮の進んだ医学が知られるようになります。
江戸時代には朝鮮との貿易を行う対馬藩に対し、有力者からたびたび医学書の要求が出され、その注文書籍の中に、やがて『東医宝鑑』が現れ出します。
『東医宝鑑』は、現在も韓国医学で使用される医学書で、朝鮮医学の最高峰といわれるものです。
『東医宝鑑』は、その前の時代の『郷薬集成方』や『医林撮要』の流れを引き、その核心は朝鮮の「郷薬」の代名詞である人参の多用でした。
しかし、ない人には”きつすぎる“といわれ、それらの医学書が書かれた時代には必ずしも薬の主流ではありませんでした。
『東医宝鑑』を編纂した許浚※4は国王宣祖の時代の御典医ですが、宣祖が亡くなったとき、人参の多用で国王が亡くなったのと反対派から非難され流罪になります。
※4.許浚(きょしゅん)という人は、1539年〜1615年は、李氏朝鮮時代の医者で『東医宝鑑』の著作。
父の許碖(ホ・ロン)と母の霊光金氏の間のに庶子として生まれる。出生地は諸説あって定かではないですが、父と祖父の許琨(ホ・ゴン)は共に武官であった。
宣祖のとき、医科を受験して内医院に入り(雑科を受験せず推薦で内医院に入ったとする説もある)、王室の病気治療で功を立てた。
1592年、文禄・慶長の役” 壬辰倭乱(文禄の役)が勃発すると、御医(王の主治医)として義州にいたる逃避行に追従し、1604年、忠勤貞亮扈聖功臣3等の論功を受け、1606年には、陽平君(ヤンピョングン)に封じられた。
1608年、宣祖の死の責任を取り、流刑に処されたが、翌年には光海君によって呼び戻された。
1610年には、朝鮮第一の医書として名高い『東医宝鑑』を完成させている。
この流罪中に『東医宝鑑』の編纂を進め、17世紀の初めに完成しました。
『東医宝鑑』は 1718年に、半ば強制的に対馬から召し上げるかたちで将軍・吉宗に献上さ れます。
そこに1400種類もの薬材の調合と効能が網羅されているのに吉宗は大変驚き、それは漢文と朝鮮の固有語がハングルで書かれていたため、正体がよくわかりませんでした。
そこで当時の第一の知識人と思われていた大学頭の林鳳岡に解説を命じたのですが、朝鮮通信使に学識不足を指摘されたこともある鳳岡は全く答えられず、対馬に調査命令を出しても全て失敗に終わってしまいます。
吉宗の命令、そこで吉宗が白羽の矢を立てたのが、奥医師の林良喜という25歳の青年でした。
林良喜は吉宗の母親の縁続きで、彼女の江戸城入りのときに呼ばれて奥医師になる若き薬学の秀才です。
まず、朝鮮通信使が来日したときに 医事問答を林にやらせ、『東医宝鑑』の薬について尋ねます。
しかし、同定※5行為が行われてないことと、朝鮮の医師が生きた状態の草木を知らなかったため、問答はかみあわず見事に失敗してしまいます。
※5.同定行為とは、科学全般の用語で、ある対象について、それが「何であるか」を突き止める行為(名前・正体・同一性を特定する‥‥)
若き林良喜に託すが早死しため跡を丹羽正伯が継ぐ
仕方がないので現地に調査団を派遣することになりました。
享保6年(1721年)に林良喜は、178種類に及ぶ項目の朝鮮薬材調査を対馬藩宗家に命じます。
▲金田城趾の挑戦式石塁、一ノ城戸趾
その方法は、薬材の現物を入手するか、それができなければ絵図を提出せよ、漢字が同じでも物が同じとは限らず誤解を生むから、文字での問いかけは決してしてはならない、というものでした。
この調査は吉宗が亡くなった年に終了命令が出るまで、その後 30年以上続けられます。 その陰で、人参の生きた根をもってこい、という吉宗の極秘命令が出ます。
林良喜が対馬藩に命じ、1721年10月末に現物が届きます。
この後も吉宗からの命令が続き、苗や種が対馬から送り届けさせられることになります。
倭館※6における薬材調査 以上のことから倭館の薬材調査には表と裏の二通りのルートがあったと考えられます。
※6.倭館(わかん)とは、中世から近世かけて、李氏朝鮮(朝鮮王国)時代に朝鮮半島南部に設定された日本人居留地のこと。江戸時代には、対馬府中藩が朝鮮との外交、通商を行った。
一つのルートは、朝鮮の国家と外交交渉をして許可をもらった公的ルートです。
これは 訳官(通訳官)が中心になっているので、これを「訳官ルート」と呼んでいます。
朝鮮の調査の主任は差備官(通訳官)の李碩麟で、1721年8月末に任命されて活躍します。
李碩麟は植物や動物の現物を朝鮮の各地から入手し、現物を送れないものについては克明な報告絵図を作成し、倭館を通してそれらの資料を日本に送っています。
一方、並行して動いていた裏ルートの主任は金子九右衛門という貿易商人ですが、彼はさまざまなつてから薬材を買い集め、こちらの方から収穫が上がっていきます。
その日付 と合わせると、江戸城に届いた人参の生きた根3本は、この裏ルートで倭館に入ってきたのではないかと思います。
薬材調査の報告書は8月初めが1回目で、2回目は9月初めの日付ですが、訳官ルートは8月末に任命されており、その時点で報告書が書けるはずがありません。
ですから、先に届いていたのは裏ルートの報告だったことがわかります。
このように対馬藩は薬材調査を成し遂げ、かつ朝鮮人参の生きた根や種を仕入れてくることになります。
もちろんこれは対馬藩にとって不利なことですが、将軍が苗や種を手に したところで、今までも栽培が成功したことがなく、絶対に日本で国産化できるわけがないと宗家側が考えていたふしがあります。
ところが、吉宗はあきらめませんでした。
お種人参の栽培(田村藍水『人参耕作記』)調査の成果 この調査は、本草学者の丹羽正伯に引き継がれていくことになります。
林良喜は調査を始めてまもなく27歳で亡くなってしまい、曲折を経て丹羽正伯が吉宗の命令で引き継ぎます。
丹羽正伯は吉宗が民間から試験で採用した人物で、1732年に吉宗から『庶物類纂』という本の編纂事業と、朝鮮薬材調査が命じられます。
『庶物類纂』とは、国内外のあらゆる物を網羅した博物学史上不朽の大著といわれ、1054巻という大変膨大なものです。
この時から薬材調査はさらに徹底したものとなります。
丹羽正伯は朝鮮薬材調査の手法を日本の産物調査に応用し、全国から書き上げられてきた「諸国産物帳」を基に、元文3年(1738年)に『庶物 類纂』の続編が完成し、やがて朝鮮薬材調査の成果も全てミックスして47年に増補版が完成します。
そして、その背後で「お種人参」の栽培が進みます。
1721年に江戸城に届いた人参の生根は、日光の御薬園で栽培に成功し、後に佐渡でも株を増やします。
その種が増えたところで、人参耕作法を各大名家に渡し、栽培させます。
そして高地で朝鮮と気候風土の似て いる場所で栽培に成功していきます。
将軍自らが種を与えて大名家に栽培を奨励したということで、この人参を「お種人参」といいます。
調査の成果は対馬藩の予想とは全く違う方向にいくことになります。
「お種人参」の大成功によって、人参の国産化の道が開かれます。
幕末の開国時の日本の三大輸出品は、生糸とお茶と人参でした。
本場の中国・朝鮮産に負けない人参の品質によって国際競争に打ち勝ち、輸入代替に成功します。
物の輸入には貴重な資産が日本から外に出るわけですが、 結果的に吉宗はそれを防いでいきます。
進んだ朝鮮の医薬を我が物にしたいがために始まった吉宗の施策は、最後にはそれを日本の宝物にしてしまったことが、薬材調査の中から 見てとることができます。