美濃国岩村城の歴史と関連武将たち

美濃国岩村城の生い立ちから戦国時代をかけて来た、織田信長の叔母である「おつやの方」女城主、徳川時代の平和時代から明治維新まで歴史のあれこれ。

徳川家康

貧乏小大名家康から総資産日本一の遺産・資産家になった徳川家康

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 徳川家康は、日本史上最大の資産家、ではどのようにして大金持ちになったか?

 

 

関ヶ原の戦い大阪の陣で勝利した後に、全国の主要な金山・銀山を直轄地にしたこと。

例えば、かの有名な佐渡金山・但馬生野・石見大森銀山などがあります。

        ▲鉱夫たち

 

それに、4ヵ国限定朱印船貿易をして、その利益が幕府に入っている、

豊臣の家の財産没収、これが大きいのと、つつましき三河武士の精神です。

 

 

家康は、直轄領だけで400万石を領有し、徳川家全体では800万石を支配してました。

 

 

 

一両の価値

6歳の時今川義元の人質になって領地に帰って金はなし、家臣団がすこしづつために貯めた資金を元手にして桶狭間の戦い後何とかやりくりをして来た。

           ▲小判

 

 

戦国時代の一両の価値は、時代や地域によって異なりますが、一般的には現在のお金で10万円といわれています。

 

 

戦国時代の一両あれば、どれだけの日数の生活ができるかというと、これまた一概に言えませんが、いくつかの例を挙げて説明します。

 

 

 

例1.お伊勢参りに行く費用

一両あれば約20日間の旅ができたと言われます。

伊勢参りは江戸時代に流行した旅行で、日本人の6人に一人が行ったとも言われています。

 

この場合、旅費には宿泊費や食事代、お土産代などが含まれていました。

 

 

 

例2.食事をする場合

江戸時代前期には、一両で約2,000杯のかけそばが食べらたと言われます。

かけそばは江戸庶民の主食で、一杯は約五文でした。

 

 

もちろん、そば以外にも食べ物はありましたが、一般的には安価のものでした。

 

 

例.大工の給料を受け取る場合

江戸時代前期には、年間25両ほどの年収があり、現在のお金で800万円〜1,000万円ぐらいの生活水準だったと言われています。

 

 

大工は一日4時間30分程度の労働で年間300日働いていました。

 

※.以上のの例から分かるように、戦国時代の一両あれば、現在では数日から数週間分の生活費に相当すると考えられます。

これはあくまで平均的な場合であり、実際には戦乱や飢餓などで物価が変動したり、地域や身分によっても差があったりしたことを頭に入れておいて下さい。

 

 

 

戦国時代・江戸時代の貨幣価値

江戸時代前期の一両の価値は約10万円(銀50匁)※.江戸時代、最初の200年間は、物価は安定しており、ほとんど上がっていません。

江戸時代末期には一両の価値は約5万円(銀60匁)

 

 

上記は、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料による、現在の「米」の価値との比較による解釈です。

 

 

ただし、今こそ日本人は毎日米食ですが、江戸時代中期までは米食を食べるのは、武家・農業の人ぐらいでした、一般庶民はあまり食べる機会がなく、米で比較して良いのかという疑問はありますがネ。

 

 

江戸の町には、約3,000軒あったとされるそば屋で食べる「かけそば」の値段で比較しますと、一両は12万円〜15万円の貨幣価値になるそうです。

 

 

 

徳川家康の総資産

莫大の富の蓄積=圧倒的な軍事力

家康は、日本史上最大の資産家だったといわれています。

時代が異なるので単純な比較はできませんが、藤原道長よりも、平清盛よりもお金持ちだったといわれています。

 

 

主な資産の内容は、自身の直轄領400万石、徳川家全体では800万石(日本全体の25%に当たります)。

 

 

石高は食料生産の量だけではなく、兵力動員数」を意味することから、圧倒的な軍事力を有していたことが明らかです。

 

 

例えば、同じ時代の織田信長(家臣の含め)は最大400万石、豊臣秀吉の直轄領200万石です。

 

 

徳川家康がどれだけの領地持ちだったかわかります。

また、土地の他に、日本各地の金山銀山の経営、貨幣鋳造の権利も独占的に手にしています。

 

 

 

どのように莫大な資金を築いたか

大きく資産を増やしたのは生涯で4回のチャンスをものにした。

 

①桶狭間の戦い・・・今川方として参戦駿河、敗戦後今川家から離反し三河を平定。

 

②本能寺の変・・・信長が討たれた後、織田家の支配地(旧武田家領)甲斐・信濃へ侵攻・

 

③小田原征伐・・・豊臣秀吉に従い、同盟相手であった北条氏征伐に参戦。
旧北条領の関東250石を得る。

 

④関ヶ原の戦い・・・西軍から600万石を没収し、300万石を徳川家へ加増し、また、豊共家の支配下にあった主要な金山・銀山・貿易港を獲得。

 

 

 

朝廷、寺社の弱体化

歴史上の権力者達の悩みの種、トラブルの元になりやすい朝廷や寺社を法により行動を制限し、力を削ぎました。

 

 

代表的な禁中並公家諸法度、寺院法度とも家康の法律顧問的なブレーン、金地院崇伝(臨済宗)の起草とされています。

 

 

 

大大名、有力大名の弱体化

関ケ原の戦いの後、豊臣家222万石→65万石、毛利家112万石→30万石、上杉家120万石→30万石と大幅に石高を減らし、徳川家に対抗できる大名を弱体化させました。

 

 

関ケ原の戦いで味方についた福島家、細川家など有力大名は加増しつつも遠国へ転封し、中央の権力から遠ざけました。

 

 

 

家臣の弱体化

徳川家の仮想敵は外様の大名に限りません。

家臣や譜代の同盟者が力を持ちすぎないよう、大きな領地は与えず、官僚的な地位、仕事を与え政権運営を任せる施策をとり、財力と権力が結びつかないようにしています。

 

 

譜代大名の最大は井伊家30万石。他は15万石以下です。
家臣の力が強すぎて、相対的に弱体化した足利将軍家の失敗例から学んでいたのかもしれません。

 

 

 

-徳川家康

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